2026/7/2
紀伊大島にトルコ記念館があるのはなぜ?エルトゥールル号遭難と日土の絆

紀伊大島にあるトルコ記念館ってなに?
キュリオす
1890年のエルトゥールル号遭難事故で、紀伊大島の住民が生存者を救助。この出来事が日本とトルコの間に特別な絆を生み、記念館建設へと繋がった経緯を辿る。
樫野崎の丘に立つ
和歌山県、紀伊大島の東端に位置する樫野崎。太平洋の荒波が打ち寄せるこの岬には、白い灯台と、異国情緒を漂わせる建物が立つ。それが「トルコ記念館」である。本州最南端の地、日本の僻地に、なぜトルコという遠い国の記念館が存在するのか。この一見すると不釣り合いな存在は、明治時代に起きた一つの海難事故と、それに続く人々の行動が、国境を越えた絆を育んだ証である。この記念館は単なる展示施設ではなく、日本とトルコの間に流れる特別な関係の原点を今に伝える場所なのだ。
オスマン帝国の船、嵐の海へ
紀伊大島にトルコ記念館が建つ背景には、1890年(明治23年)に発生した「エルトゥールル号遭難事件」がある。当時のオスマン帝国(現在のトルコ共和国)は、明治維新後の日本と同様に欧米列強との不平等条約に苦しんでおり、両国は互いに近代化の道を模索していた。そうした中で、1887年(明治20年)に小松宮彰仁親王夫妻がイスタンブールを訪問したことを契機に、オスマン帝国皇帝アブデュルハミト2世は、明治天皇への答礼と友好関係の促進を目的として、親善使節団を日本へ派遣することを決定した。使節団はフリゲート艦エルトゥールル号に乗船し、1889年(明治22年)7月14日にイスタンブールを出港した。
エルトゥールル号は、途中インドやインドネシアなどのイスラム諸国に寄港しながら、約11ヶ月の長旅を経て、1890年(明治23年)6月7日に横浜港に到着した。 司令官オスマン・パシャを特使とする一行は、明治天皇に謁見し、皇帝からの親書と勲章を奉呈した。日本側も使節を国賓として厚くもてなし、約3ヶ月間の滞在期間中、官民を挙げて歓迎したという。
しかし、帰国の途についたエルトゥールル号を悲劇が襲うことになる。日本当局は9月が台風の季節であり、またエルトゥールル号が建造後26年を経た木造船であることから、出発前の修理を勧告したとされるが、オスマン・パシャは帰途が遅れることを避け、予定通り9月15日に横浜港を出港した。 翌9月16日夜半、エルトゥールル号は紀伊大島の樫野崎沖で猛烈な台風に遭遇する。強風と高波に煽られ、航行の自由を失った船は、古くから海の難所として知られる「船甲羅(ふなごうら)」と呼ばれる岩礁に激突し、座礁した。 機関部への浸水により水蒸気爆発が発生し、エルトゥールル号は沈没。司令官オスマン・パシャを含む587名が殉職し、生存者はわずか69名という、日本の海難史上初の大規模な外国船海難事故となった。
献身と記憶が結ぶ絆
エルトゥールル号の遭難は、日本の南端の小さな島に暮らす人々に、予期せぬ事態と大きな行動を促した。漆黒の闇と荒れ狂う嵐の中、樫野崎灯台の灯りを頼りに崖をよじ登って助けを求めた生存者たちは、言葉の通じない灯台守によって発見された。 知らせを受けた当時の大島村(現在の串本町)の住民たちは、老若男女を問わず総出で現場に駆けつけ、不眠不休で救助活動にあたった。 危険な海に飛び込む者もいれば、打ち上げられた遺体の中からわずかな生存者を見つけ出し、自らの体温で温めて命を繋ごうとする者もいたという。 食料や衣類を持ち寄り、サツマイモや卵、貴重なニワトリまでを提供して生存者を介抱した。 亡くなった乗員たちは、地元住民によって手厚く埋葬された。
この献身的な救助活動は、当時の日本政府にも伝えられ、明治天皇の命により、生存者69名は神戸で治療を受けた後、日本海軍の軍艦「比叡」と「金剛」によって、1891年(明治24年)1月2日にオスマン帝国の首都イスタンブールまで送還された。 この一連の日本の官民を挙げた対応は、遠く離れたトルコ国民の心に深い感銘と感謝の念を植え付けた。
遭難の翌年である1891年(明治24年)2月には、和歌山県知事をはじめとする有志の義金によって、遭難現場を見下ろす樫野崎の地に「土国軍艦遭難之碑」が建立された。 その後、1929年(昭和4年)には昭和天皇が樫野崎に行幸し、慰霊碑に会釈を賜った。この報がトルコに伝わると、トルコ共和国の初代大統領であるムスタファ・ケマル・アタチュルクは、殉難将士の墓域の大改修と新しい弔魂碑の建立を決定。 和歌山県が委託を受けて設計・施工・監理にあたり、1937年(昭和12年)6月3日に現在の慰霊碑が除幕された。 この慰霊碑の近くに、遭難から84年後の1974年(昭和49年)12月、日本とトルコの友好の証として「トルコ記念館」が建設された。 記念館は串本町の町立博物館として、エルトゥールル号の模型や乗員の遺品、当時の写真や資料、トルコ政府から寄贈された品々を展示し、この海難事故とその後の日土友好の歴史を伝えている。
異なる海難事故との対比
エルトゥールル号遭難事件が日本とトルコの間に特別な「絆」を築いた背景を理解するためには、同時代に日本で起きた他の海難事故との比較が有効である。例えば、エルトゥールル号の遭難からわずか4年前の1886年には、イギリス貨物船ノルマントン号が和歌山県樫野崎沖で座礁沈没する事故があった。 この際、船長を含むイギリス人やドイツ人の乗組員26名は救命ボートで脱出したが、日本人乗客25名は船中に取り残され、全員が溺死した。 当時の明治政府は事故の調査を命じ、神戸の英国領事館に提訴を働きかけたものの、審判を下したイギリス領事は船長に軽い刑罰を科し、それ以外は全員無罪とする判決を下した。 この事件は、欧米列強との不平等条約下にあった当時の日本の状況を象徴するものであり、日本国内で大きな反発を呼んだ。
ノルマントン号事件とエルトゥールル号事件を並べると、いくつかの対比が浮かび上がる。まず、遭難した船籍が異なる点。ノルマントン号は列強の一角であるイギリスの船であり、エルトゥールル号はオスマン帝国の船であった。当時の国際関係において、日本が列強に対しては対等な立場での交渉が困難であった一方、オスマン帝国とは共通の近代化への課題を抱える中で、より相互理解に基づく関係性を築く余地があったのかもしれない。
次に、救助活動の主体と結果である。ノルマントン号事件では、外国人乗組員が日本人乗客を見捨てた形となり、日本の世論を沸騰させた。対照的に、エルトゥールル号事件では、紀伊大島の地元住民が自らの危険を顧みず、献身的に遭難者の救助と介抱にあたった。 この行動は、単なる人道的な行為に留まらず、日本とトルコの間に「相互扶助」の意識を深く根付かせることになった。日本政府もまた、生存者の送還に軍艦を派遣するなど、国家としての誠意を示した。
さらに、その後の記憶の継承も異なる。ノルマントン号事件が日本国内の不平等条約改正への機運を高める政治的な文脈で記憶されたのに対し、エルトゥールル号事件は、トルコ国内で歴史教科書に掲載されるほど、日本人の「恩義」として深く刻まれた。 この違いは、単なる海難事故の枠を超え、両国の外交関係における基盤を形成するに至った。日本とトルコが、不平等条約という共通の課題を抱えながらも、エルトゥールル号事件を機に、互いに尊重し、助け合う関係を築いていったことが、この対比から見えてくる。
現代に続く「恩返し」の記憶
紀伊大島に立つトルコ記念館は、単なる過去の出来事を展示する場に留まらない。そこは、130年以上前の海難事故が現代にまで影響を及ぼす、生きた記憶の場である。館内には、エルトゥールル号の精巧な模型や乗員の遺品、当時の写真、資料などが展示されており、来館者は遭難の経緯から地元住民による救助活動、そしてその後の日土友好に至る物語を追体験できる。 2階の展望台からは、実際にエルトゥールル号が座礁したとされる「船甲羅」の岩礁を望むことができ、当時の悲劇を具体的に想像させる。
記念館のすぐ近くには、樫野崎の丘にそびえる「トルコ軍艦遭難慰霊碑」が静かに建っている。 この慰霊碑では、現在も5年ごとに追悼式典が開催されており、トルコ本国からは海軍の艦船が訪れ、駐日トルコ大使らが参列し、犠牲者の御霊を慰めている。 2015年には、この遭難事故と、後にトルコが日本人を救出した出来事を描いた日本・トルコ合作映画『海難1890』が公開され、改めて多くの人々の関心を集めた。 記念館には、この映画で使用された小道具なども展示されているという。
この「絆」の物語は、1985年(昭和60年)のイラン・イラク戦争時の出来事によって、さらに深く刻まれることになる。イラクのサダム・フセイン大統領が「48時間後にイラン上空を飛ぶ飛行機を無差別に攻撃する」と声明を発表し、テヘランに取り残された日本人約215名は、各国が自国民を救出する中で、日本からの救援機が来ない状況に陥った。 絶望的な状況の中、タイムリミットのわずか1時間前、テヘラン空港に飛来したのはトルコ航空の2機の救援機であった。 トルコは自国民を陸路で避難させ、日本人を優先して救出したのだ。 後に駐日トルコ大使は、「トルコはエルトゥールル号の事故に際して、日本人がなしてくださった献身的な救助活動を今も忘れていない。私も小学生の頃、歴史教科書で学んだ。トルコでは子どもたちでさえエルトゥールル号の事を知っている。今の日本人が知らないだけだ」と語ったとされる。 この「恩返し」の出来事は、エルトゥールル号遭難事件が単なる歴史上の悲劇ではなく、両国の間に脈々と受け継がれる「相互扶助の精神」の証であることを示している。
記憶が織りなす関係性の奥行き
紀伊大島のトルコ記念館は、19世紀末の海難事故という一つの出来事が、いかにして国境を越えた長期的な関係性を築き上げたかを示す具体的な証左である。この場所が問いかけるのは、単なる過去の悲劇の記憶ではなく、その悲劇を通じて育まれた人間的な行動が、いかに世代を超えて継承され、時に具体的な「恩返し」として結実するかという点だ。
この記念館が提示する物語は、日本とトルコの外交関係が、単なる政治的・経済的利害に基づいて構築されたものではないことを示唆している。むしろ、それは、見知らぬ異邦人に対する地元住民の純粋な献身と、それに対するトルコ側の忘れない感謝の念という、人間的な感情が基盤にある。トルコではエルトゥールル号事件が国民的な記憶として定着しているのに対し、日本ではその知名度が必ずしも高くないという事実は、記憶の継承における文化的な差異や、歴史教育のあり方について考えさせる。
しかし、その記憶の非対称性にもかかわらず、両国間の友好関係は維持され、災害時における相互支援の事例も確認されている。このことは、特定の出来事の記憶が、必ずしも一様である必要はなく、むしろ異なる形で保持されながらも、根底にある「絆」の意識が共有され続ける可能性を示している。紀伊大島の風光明媚な岬に立つトルコ記念館は、そうした記憶の複雑な様相と、それが織りなす関係性の奥行きを、静かに物語っている。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
参考
- 和歌山県串本町とトルコの深い関係とは?エルトゥールル号遭難事件とトルコ記念館 | 【ターキッシュエア&トラベル】は、トルコ旅行専門の旅行会社です。turkish.jp
- 日本とトルコの絆をつないだ物語|串本町town.kushimoto.wakayama.jp
- I エルトゥールル号遭難事件 ―日本・トルコ交流のはじまり―|外務省mofa.go.jp
- トルコとの交流 ~エルトゥールル号の遭難~|串本町town.kushimoto.wakayama.jp
- エルトゥールル号遭難事件から125年 | nippon.comnippon.com
- エルトゥールル号遭難事件 - Wikipediaja.wikipedia.org
- 観光・レジャー樫野トルコ軍艦エルトゥールル号jf-wakayamahigashi.jp
- bousai.go.jp