2026/6/5
群馬・栃木のルーツ「毛野国」はなぜ二つに分かれた?

毛野国の歴史について詳しく教えて欲しい。
キュリオす
古墳時代に東国で生まれた巨大勢力「毛野国」。その成立から、上野国と下野国に分割されるまでの歴史を、出雲や筑紫との比較を交えながら辿ります。現代に残る「毛」の記憶にも触れます。
関東北部の平野に立つと、どこまでも続く田園風景や、遠く連なる山々の稜線が目に映る。群馬県と栃木県、現在の行政区分では異なる二つの県だが、かつてこの広大な地域には「毛野国(けのくに)」という一つの大きな勢力圏が存在した。その名は、現代の「上毛(こうずけ)」と「下毛(しもつけ)」という呼び名に残るものの、一つの国としての毛野国がどのような実態を持っていたのか、その姿を現代の視点から捉え直すことは容易ではない。なぜこの地域に強大な勢力が生まれ、そしてなぜ、その統一された国は二つに分かたれていったのだろうか。
毛野国の歴史を遡るには、古墳時代にまで目を向ける必要がある。3世紀から7世紀にかけて、ヤマト王権がその支配を確立していく中で、東国、特に現在の群馬県と栃木県にまたがる地域には、強大な豪族たちが割拠していた。利根川や渡良瀬川といった大河がもたらす豊かな平野は農業生産力を高め、さらに太平洋や日本海への交通の要衝でもあったことが、この地の豪族たちの力を育んだ要因と考えられている。彼らはそれぞれの地域で勢力を築き、独自の文化を発展させていた。
やがて5世紀頃になると、こうした地域豪族の中から、ヤマト王権と結びつきながらも、広範な地域を支配する連合体が形成されていった。これが「毛野国」の萌芽である。文献史料に毛野国の名が明確に現れるのは6世紀以降とされているが、考古学的な知見からは、それ以前からこの地域に共通の文化圏や政治的まとまりが存在したことが示唆されている。特に、群馬県に集中する巨大な前方後円墳群、例えば太田天神山古墳や綿貫観音山古墳などは、当時の毛野国の首長たちがヤマト王権に匹敵する、あるいはそれに近い権力と財力を有していたことを物語る。
毛野国の成立は、ヤマト王権が全国的な支配を確立していく過程で、東国の有力豪族を自らの体制に組み込み、その勢力を利用しようとした結果でもあるだろう。毛野氏と呼ばれる中央豪族がこの地の支配者として下向し、既存の地方豪族を束ねていったという説も有力だ。しかし、その実態は単純な中央集権ではなく、有力な地方豪族たちが自律性を保ちつつ、緩やかに連携していた「連合国家」に近いものだったのではないか、という見方も存在する。
毛野国は、その広大な領域と強大な力によって、ヤマト王権にとっても無視できない存在であった。特に、東北地方への進出を試みるヤマト王権にとって、毛野国は重要な拠点であり、その地の豪族たちは軍事的な役割も担っていたと考えられている。毛野氏の系譜に連なる人物が、ヤマト王権の対外的な軍事行動に関与した記録も散見される。
しかし、毛野国が常に一枚岩であったわけではない。その広大な領域は、現在の群馬県域を「上毛野(かみつけの)」、栃木県域を「下毛野(しもつけの)」と呼び分ける、二つの大きな地域に分かれていた。この区分は、地理的には利根川の支流である渡良瀬川や、その水系によって隔てられていたことに起因するとも考えられる。古代において大河は、交通路であると同時に、勢力圏を分かつ境界線としての役割も持っていたのだ。
やがて7世紀後半から8世紀初頭にかけて、律令制が整備され、全国に国郡里制が敷かれる中で、毛野国は正式に「上野国(こうずけのくに)」と「下野国(しもつけのくに)」に分割された。この分割は、単に地理的な理由だけでなく、それぞれの地域に根ざした有力豪族たちの勢力均衡や、ヤマト王権による地方支配の強化という意図も働いていたのだろう。例えば、下野国には下毛野氏が、上野国には上毛野氏がそれぞれ国造として任命され、地域の実情に応じた統治が行われた。この再編によって、かつて一つのまとまりであった毛野国は、それぞれの地域がヤマト王権の直接的な支配下に組み込まれる形となったのである。
古代日本の地方勢力とヤマト王権との関係を考えるとき、毛野国は出雲や筑紫といった他の有力地域と並べて語られることがある。出雲国(現在の島根県)は、神話においてヤマト王権に国譲りをしたとされる地域であり、その独自の文化や祭祀は、ヤマト王権とは異なる系統の勢力が存在したことを示唆する。一方、筑紫国(現在の福岡県)は、大陸との交流窓口として地理的に重要な位置を占め、早くから独自の政治・文化圏を形成し、ヤマト王権との間で緊張関係を抱えながらも、最終的にはその支配下に入った。
これらの地域と比較すると、毛野国が持つ特徴が浮き彫りになる。出雲が祭祀を中心とした独自性を持っていたのに対し、毛野国は巨大な前方後円墳群が示すように、軍事力と経済力を基盤とした世俗的な権力を築いていた。また、筑紫が大陸との直接的な交流によって発展したのに対し、毛野国は東国の豊かな農業生産力と、ヤマト王権の東国支配の拠点としての役割を担うことで発展した。
しかし、共通する構造も見出せる。それは、いずれの地域もヤマト王権の統一過程において、その権力とどう向き合い、どう取り込まれていったかという点だ。出雲は神話を通じてその権威をヤマト王権に譲り、筑紫は軍事的な衝突を経て取り込まれた。毛野国の場合、当初はヤマト王権の東国経営における強力な協力者として位置づけられ、その豪族はヤマト王権の要職に就くこともあった。しかし、律令制の導入という中央集権化の波の中で、その広範な勢力は二つに分断され、より直接的な支配体制へと移行していったのである。毛野国は、ヤマト王権の支配を補完しつつも、その内側に抱えきれないほどの規模と勢力を持っていたがゆえに、分割という選択肢が取られたのかもしれない。
毛野国が上野国と下野国に分割されてから、すでに1300年以上の時が流れた。しかし、その「毛」の記憶は、現代の地名や文化の中に静かに息づいている。群馬県を「上毛(じょうもう)」、栃木県を「下毛(しもつけ)」と呼ぶ慣習は、かつての毛野国の名残である。また、両県に共通して見られる古墳文化や、歴史的建造物の中にも、かつての一体感を思わせる要素が散見される。
例えば、群馬県には東日本最大級の太田天神山古墳をはじめとする多くの古墳が残り、栃木県でも那須地域の古墳群など、それぞれ独自の発展を遂げながらも、毛野国という大きな枠組みの中で培われた文化の連続性を感じさせる。現代においては、観光資源としての古墳の活用や、地域の歴史教育の中で毛野国の存在が語られる機会も増えている。しかし、一般的な認知度としては、上野国や下野国としての歴史の方が前面に出ることが多い。
近年では、両県の歴史研究者や地域活動家が、かつての毛野国という視点から地域の歴史を見つめ直し、共同で研究を進める動きも見られる。例えば、「毛野国から東国を考える」といったテーマでのシンポジウム開催や、両県の博物館が連携して特別展を行うなど、行政区画を超えた歴史的つながりを再認識しようとする試みがある。これは、分断された歴史を再び一つの流れとして捉え直そうとする、現代における毛野国の姿と言えるだろう。
毛野国の歴史を追うと、古代日本の国家形成における地方勢力の複雑な位置づけが見えてくる。ヤマト王権は、一様ではない地方の多様な力を、時には協調し、時には分断することで、自らの支配体制を確立していった。毛野国は、その広大な領域と強大な勢力ゆえに、ヤマト王権の東国経営の要となりながらも、最終的には二つの国へと分割される運命を辿った。
この分割は、毛野国という単一の強力な地域が持つ潜在的な自立性を削ぎ、ヤマト王権による直接的な統治をより確実にするための策であったとも解釈できる。しかし、一方で、上野国と下野国として独立したことで、それぞれの地域がより明確なアイデンティティを確立し、独自の発展を遂げる契機にもなったのではないか。もし毛野国が分割されずに存続していたとしたら、現在の群馬と栃木の文化や歴史は、全く異なるものになっていた可能性も否定できない。毛野国の分割という歴史の転換点は、単なる「解体」ではなく、古代日本の地方統治の多様な試行錯誤の一端を物語るものだ。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。