2026/7/16
祇園祭の山鉾巡行はなぜ二度行われるのか?「送り」と「迎え」の役割とは?

祇園祭はなぜ「前祭」と「後祭」に分かれるのか?役割はあるのか?
キュリオす
祇園祭の山鉾巡行が「前祭」と「後祭」に分かれるのは、疫病退散の願いと神輿渡御の「送り」と「迎え」という役割分担のため。応仁の乱後の再興期に自然発生し、江戸時代に定着した。
宵山に立つ、二つの熱気
古都京都の夏を彩る、千年以上の歴史を持つ壮大な祭礼、祇園祭。その中でも特に多くの人々の注目を集め、国内外からの観光客を魅了するのが、絢爛豪華な山鉾が京の町を巡る「山鉾巡行」である。しかし、この山鉾巡行は、実は一度だけ行われるわけではない。7月17日の「前祭(さきまつり)」と、その一週間後の24日の「後祭(あとまつり)」に分かれて執り行われるのが、祇園祭の大きな特徴の一つだ。
多くの人々が「祇園祭の巡行」と聞いて思い浮かべるのは、長刀鉾を先頭に、大型の曳山や舁山が連なる前祭の巡行であろう。その規模は圧倒的で、京都市内を巡る山鉾の数も多く、華やかさと活気に満ちている。一方、後祭の巡行は、前祭に比べるとどこか静かで、厳かな雰囲気を漂わせているように感じられるかもしれない。参加する山鉾の数も前祭よりは少なく、その趣は大きく異なる。
かつては一つの祭礼の中で、山鉾が巡行する日は一つであった時期もあったとされる祇園祭が、なぜこのように二つの異なる日に分けられ、それぞれが独自の役割を担うようになったのだろうか。この疑問の背景には、祇園祭が持つ深い歴史と、祭礼本来の目的、そしてそれを支え続けてきた京都の町衆の営みがある。この記事では、祇園祭の山鉾巡行が前祭と後祭に分かれた経緯と、それぞれの巡行が持つ意味合い、そしてそれが祇園祭全体に与える奥行きについて深く掘り下げていく。
応仁の乱と町衆の再興
祇園祭の起源は、貞観11年(869年)にまで遡る。当時、京の都では疫病が蔓延し、多くの人々が苦しんでいた。この疫病を鎮めるため、時の朝廷は播磨国広峯(現在の兵庫県姫路市)から牛頭天王(ごずてんのう)を迎え、神泉苑(しんせんえん)に66本の鉾を立てて疫病退散を祈願する「御霊会(ごりょうえ)」を執り行った。この66本の鉾は、当時の日本の国の数にちなんだもので、各地の悪霊を鎮め、京の都から疫病を追い払うことを目的としていた。これが、現在の祇園祭へと繋がる最初の祭りの形である。
当初の御霊会は、神泉苑で神輿を迎え入れる儀式が中心であり、現在の山鉾が町を巡る巡行とは異なる形であった。祭礼が大規模化し、特徴的な山鉾が京都の町を巡るようになるのは、平安時代後期から鎌倉時代にかけてのことである。この時代になると、貴族や武士だけでなく、経済力をつけ始めた京都の「町衆(まちしゅう)」が祭礼の運営に深く関わるようになり、それぞれの町組が趣向を凝らした山鉾を造り、その豪華さを競い合うようになった。特に室町時代には、町衆文化が花開き、経済的な繁栄を背景に、山鉾は美術工芸品の粋を集めたような絢爛豪華なものへと発展していった。西陣織や綴織、金唐革など、当時の最先端の技術と財力が惜しみなく投入され、動く美術館とも称される山鉾の原型がこの頃に確立されたのである。
しかし、その隆盛は長くは続かなかった。文明9年(1477年)に終結した応仁の乱によって、京都の市街地は広範囲にわたって焼け野原となり、多くの町家や寺社が灰燼に帰した。祇園祭もまた、この戦乱の煽りを受けて約30年もの間、中断を余儀なくされるという未曾有の事態に陥った。町衆たちは戦後の荒廃の中から、自分たちの手で町を再建するとともに、失われた祭礼の伝統を復活させることに尽力した。彼らは焼け残った部材を集めたり、新たな職人を雇ったりして、途絶えていた山鉾を一つ一つ丹念に作り上げていったのである。この再興の過程は、単なる祭りの復活以上の意味を持っていた。それは、荒廃した町に再び活気を取り戻し、町衆の連帯と誇りを再構築する重要な営みであったのだ。
この再興期において、山鉾巡行は南北に分かれて行われるようになる。当初は、現在のような「前祭」と「後祭」という明確な区別や役割分担があったわけではない。応仁の乱後の京都は、依然として復興の途上にあり、全ての町組が一度に山鉾を出すだけの準備や人員を確保することは困難であった。また、再建されたとはいえ、狭い京の通りに多くの山鉾が集中すれば、巡行路の混雑や事故のリスクも高まる。そのため、参加する山鉾の都合や、巡行路の物理的な制約、あるいは町組ごとの準備状況に応じて、自然発生的に二つの日に分けて山鉾を巡行させるようになったのが始まりだと言われている。これは、町衆たちが現実的な課題に直面しながらも、何としても祭りを継続させようとした知恵と工夫の表れであった。
江戸時代に入ると、徳川幕府による統治が確立され、京都にも京都所司代が置かれた。幕府や所司代の統制のもとで、祇園祭の運営はより組織化され、制度化されていく。この頃には、山鉾巡行は7月17日と24日の二度に分けて行われることが完全に定着し、それぞれの巡行が「前祭」「後祭」という明確な呼称で呼ばれるようになったとされる。さらに、前祭には大型で豪華な曳山や鉾が中心となり、後祭には比較的小型の舁山が巡行するという傾向も、この頃から見られ始めたようだ。これは、単なる物理的な分散だけでなく、それぞれの巡行に異なる意味合いが付与されていったことを示唆している。
祭の「本質」を分けた理由
祇園祭が前祭と後祭に分かれた背景には、単に山鉾の数が増えたことや、巡行路の混雑を避けるといった実用的な理由だけではない、祭の本質に関わるより深い理由が存在する。祇園祭は、八坂神社(かつての祇園社)の祭礼であり、その祭礼の中心をなすのは、神様が本社から御旅所(おたびしょ)へ赴き、そこで滞在した後、再び本社へ還る一連の「神輿渡御(みこしとぎょ)」である。この神輿渡御こそが、祇園祭の核であり、その前後に展開される山鉾巡行は、この神の移動を荘厳に演出し、その意味を深めるための重要な要素として位置づけられている。
前祭の山鉾巡行は、7月17日に行われる八坂神社の三基の神輿が本社から御旅所へ向かう「神幸祭(しんこうさい)」、すなわち神輿渡御の第一段階に先立って行われる。この巡行は、神輿が通る道を祓い清め、疫病や穢れを町から取り除く「露払い(つゆはらい)」の役割を担うとされている。山鉾は、疫病を退散させるための依り代であり、また神を迎え入れるための清浄な空間を作り出す装置でもある。多くの山鉾が豪華絢爛な姿で町を練り歩くのは、その威容をもって悪疫を追い払い、神聖な道を切り開くという、祭の導入部分における強力な浄化作用を象徴しているのだ。
前祭の巡行には、長刀鉾を筆頭に、函谷鉾、月鉾、菊水鉾といった大型の曳山や鉾が数多く参加する。これらの巨大な山鉾が、祇園囃子の軽快なリズムに乗せて、京の町をダイナミックに巡行する様は、「動く美術館」と称されるにふさわしい。その華やかさと活気は、神様が町へお出ましになることを歓迎し、町全体を清め、活力を与えるという前祭の役割を、視覚的にも聴覚的にも強く印象付ける。神々しい存在が通る道を、これほどまでに盛大に、そして力強く清めることで、疫病や災厄が町に留まることを許さないという、町衆の強い願いが込められているのである。
一方、後祭の山鉾巡行は、7月24日に行われる神輿が御旅所から本社へと還る「還幸祭(かんこうさい)」、すなわち神輿渡御の第二段階に先立って行われる。この巡行は、神様を本社へとお迎えする「お迎え」の役割を果たす。前祭が神様を町へと「送り出す」露払いの側面を持つならば、後祭は神様を静かに、そして丁重に本社へと「迎え入れる」側面を持つと言えるだろう。後祭の巡行には、かつては神輿の還幸祭に先立って行われるものが多く、その意味合いが色濃く残されている。
後祭の巡行には、大船鉾や南観音山、北観音山などが参加するが、その規模は前祭に比べてやや小さい。しかし、その分、厳かで落ち着いた雰囲気が漂う。これは、神様を静かに、そして敬意をもって本社へと迎え入れるという趣旨に合致しているからだと解釈できる。神様が町での滞在を終え、再び本来の鎮座地へ戻られるにあたり、町衆は感謝と敬意を込めて、静かにその還幸を見守り、道を清める。この「迎え」の役割は、前祭の「送り」の役割と対をなし、祇園祭全体を構成する上で不可欠な要素となっている。
このように、前祭と後祭は、神輿渡御という祇園祭の中心を挟んで、異なる役割を担うことで、祭全体に深い意味と構造的な美しさをもたらしている。前祭が「出迎えの清め」であり、後祭が「お見送りの清め」であるとも言える。二つの巡行がそれぞれ異なる趣と役割を持つことで、祇園祭は単なる山鉾の行列ではなく、神と人、そして町が一体となった壮大な物語として機能してきたのだ。
他地域の祭礼との比較
祇園祭のように、一つの祭礼の中で複数の巡行が行われる例は、日本全国の様々な地域で見られる。しかし、その目的や形式は多種多様であり、祇園祭の前祭と後祭が持つ役割分担の独自性を浮き彫りにする。
例えば、大阪の天神祭は、日本三大祭の一つに数えられる盛大な祭礼である。この祭では、祭神である菅原道真公を祀る大阪天満宮の祭礼として、陸を巡る「陸渡御(りくとぎょ)」と、大川を船で巡る「船渡御(ふなとぎょ)」が、同じ祭礼日(7月25日)に相前後して行われる。陸渡御は、行列を組んで町を練り歩くことで、道真公の神威を広く世に示すとともに、町を祓い清める意味合いを持つ。その後、船渡御へと移行し、道真公が水辺と縁が深かったことに由来する水上での神事が行われる。これは、陸と水という異なる空間を通じて神威を発揚し、祭神の徳を顕彰するという意味合いが強い。天神祭の二つの渡御は、空間的な広がりと、祭神の特性に合わせた表現方法の違いとして捉えることができる。
また、福岡の博多祇園山笠も、祇園祭と並び称される勇壮な祭礼である。博多祇園山笠は、7月1日から「お汐井取り」から始まり、15日の「追い山笠」まで、約2週間にわたって様々な行事が執り行われる。この期間中には、山笠が町を巡る「流舁き(ながれがき)」や「集団山見せ」など、複数の巡行要素が含まれる。しかし、これらの巡行は、最終日に行われるクライマックス「追い山笠」に向けた準備段階や、祭の盛り上げ、あるいは町衆の結束を固めるための予行演習といった段階的な役割を担っている。追い山笠こそが祭の最高潮であり、それまでの巡行は、その興奮と熱気を高めるためのプロセスとして位置づけられているのだ。
これらの祭礼と比較すると、祇園祭の前祭と後祭は、単なる準備や盛り上げという段階的な役割を超え、あるいは空間的な広がりを示すだけでなく、神輿渡御という祭の核を挟んで、明確に異なる「送り」と「迎え」の機能を時間軸の中で分担している点が極めて特徴的である。天神祭のように異なる要素を同日に並行して行うのではなく、また博多祇園山笠のように最終日に向けて盛り上げていくのでもなく、祇園祭は一週間の間隔を置いて、祭の始まりと終わりを象徴する二つの巡行を配置している。
この構造は、祭全体に奥行きと重層性をもたらしていると言える。前祭で神様を盛大に迎え入れ、町を清める。そして、神様が御旅所に滞在する一週間の間、町衆はそれぞれの営みを続けながら、神様とのつながりを感じる。その後、後祭で神様を静かに見送ることで、祭のサイクルが完結する。この時間の流れの中で、祭の対象である神聖な存在への敬意と、それを迎える人々の営みが、丁寧に表現されている。前祭と後祭は、それぞれが独立した意味を持つと同時に、互いに補完し合うことで、祇園祭という壮大な物語を織りなしているのだ。この二つの巡行の並立は、単なる伝統の継承に留まらず、祭りの本質を深く理解し、それを表現しようとする京都の町衆の文化的なあり方の表れと言えるだろう。
途絶と復活、そして現代
祇園祭の前祭と後祭という二つの巡行の伝統は、幾度かの危機に直面してきた。明治5年(1872年)には、明治政府の政策により、祇園祭の山鉾巡行は一本化され、後祭の巡行は中断を余儀なくされた。これは、近代化を推し進める政府が、祭礼の簡素化や合理化を図ったためとされている。この時期、後祭の山鉾は前祭の巡行に参加したり、あるいは巡行自体を休止したりする状況が続いた。
しかし、戦後の高度経済成長期に入ると、さらに大きな変化が訪れる。昭和41年(1966年)には、京都市内の交通事情の悪化や、山鉾を曳く担い手の減少などを理由に、再び山鉾巡行が一本化された。この時、後祭は完全にその姿を消し、多くの人々にとって祇園祭の巡行といえば、7月17日の前祭のそれだけを指すようになったのである。後祭に参加していた山鉾の一部は、前祭の巡行に曳き出される形となったが、本来の役割と趣は失われ、祇園祭の歴史において重要な要素であった「送り」と「迎え」の構造は、一時的に失われてしまった。
それでもなお、祇園祭の伝統を重んじる人々の中から、後祭の復活を望む声が絶えることはなかった。特に、祇園祭本来の姿を取り戻し、その深い意味合いを次世代に継承しようとする町衆や研究者たちの熱意は、時代を超えて受け継がれていった。彼らは、一度失われた文化を復活させることの困難さを知りながらも、諦めることなく活動を続けた。そして、その強い願いとたゆまぬ努力が実を結び、平成26年(2014年)に、実に48年ぶりに後祭の山鉾巡行が復活したのである。
この復活は、単に失われた行事を再開したという以上に、祇園祭本来の姿を取り戻し、その歴史的・文化的価値を再認識する画期的な出来事であった。復活後の後祭は、前祭とは異なる静かで厳かな雰囲気を持ち、本来の「神様をお迎えする」という役割を改めて示している。巡行路も前祭とは一部異なり、かつての後祭の巡行路を可能な限り再現している。現在、後祭には大船鉾を筆頭に、南観音山、北観音山など11基の山鉾が参加し、宵山期間には屏風祭なども行われ、前祭とは異なる趣で多くの人々を魅了している。
後祭の復活は、祇園祭が単なる観光イベントではなく、千年の歴史を持つ神聖な祭礼であり、その本質的な構造と意味合いが、現代においてもなお重要であることを示している。それは、伝統文化を継承し、時代に合わせて変化させながらも、その核となる意義を守り続けるという、京都の町衆の強い意志と、文化への深い敬意の表れなのである。
二つの巡行が示す、祭りの奥行き
祇園祭の前祭と後祭は、単に山鉾が二つの日に分かれて巡行するだけではない。それは、疫病退散という祇園祭の根源的な願いと、神を送り迎えするという祭の核心的な構造を、時間軸の中で丁寧に表現してきた結果だと言えるだろう。応仁の乱後の再興期に自然発生的に分かれ、江戸時代にその役割が明確化された二つの巡行は、一度は途絶えながらも、現代においてその本来の姿を取り戻した。
前祭は、京の町の華やかさと活気を象徴する「送り」の祭である。疫病や災厄を祓い清め、神様を盛大に迎え入れることで、町全体に活力と繁栄をもたらす役割を担う。絢爛豪華な山鉾が織りなす壮大な光景は、人々の心を高揚させ、祭りへの期待感を最高潮に高める。それは、京都の夏の始まりを告げる、祝祭的なエネルギーに満ちた幕開けである。
一方、後祭は、神聖な存在への敬意と、内省的な「迎え」の祭として、異なる奥行きを祇園祭全体にもたらしている。神様が御旅所での滞在を終え、静かに本社へと還られる様子を見守ることで、人々は神とのつながりを再確認し、祭の終わりに向けて心を落ち着かせる。前祭の喧騒とは対照的な、厳かで落ち着いた雰囲気は、祭の持つ宗教的な意義や、人々の信仰心をより深く感じさせる。それは、祭の終焉を告げるとともに、来年への願いを静かに紡ぎ出す、思索的な時間である。
このように、二つの巡行が並び立つことで、祇園祭はより多角的で重層的な意味合いを持つに至った。前祭の華やかさと後祭の厳かさ、それぞれの巡行が持つ意味合いを理解することで、この祭が千年以上にわたり京都の町で受け継がれてきた理由の一端が見えてくる。それは、単なる伝統行事の継続ではなく、常に時代の変化に対応しながらも、祭の根源的な意義と構造を大切にし、それを未来へと繋げようとする人々の強い意志と、深い信仰心によって支えられてきた証なのである。前祭と後祭は、祇園祭という壮大な文化遺産が持つ、計り知れない奥行きと魅力を現代に伝え続けているのだ。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
参考
- 祇園祭には前祭・後祭があるようですが、その違いは何ですか?|京なびオンラインglobal.kyoto.travel
- 祇園祭パーフェクトガイド | 祇園祭miniTOKK | 阪急電鉄hankyu.co.jp
- 主な行事 - 山鉾巡行|KBS京都kbs-kyoto.co.jp
- 『祇園祭・山鉾巡行』を楽しむための初心者ガイド | Leaf KYOTOleafkyoto.net
- 京都祇園祭の前祭、後祭について教えてください。近年2回に分けて鉾の巡行が行... - Yahoo!知恵袋detail.chiebukuro.yahoo.co.jp
- 祇園祭を学ぶ - 祇園祭の変遷|KBS京都kbs-kyoto.co.jp
- 昭和41年に祇園祭の前祭(さきまつり)と後祭(あとまつり)が一本化された理由は? | レファレンス協同データベースcrd.ndl.go.jp
- 京都 祇園祭ガイド2026|そうだ 京都、行こう。souda-kyoto.jp
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