2026/6/5
川口市、鋳物の街からベッドタウンへの変貌の軌跡

埼玉の川口の歴史について詳しく押して欲しい。
キュリオす
埼玉県の川口市は、かつて「キューポラのある街」として知られた工業都市から、都心へのアクセスが良いベッドタウンへと大きく変貌を遂げた。本記事では、古代の貝塚から日光御成道、そして鋳物産業の隆盛と衰退、さらには住宅都市としての発展に至るまでの川口市の歴史を辿る。
埼玉県の南端、荒川を隔てて東京都に接する川口市は、今や60万人を超える人口を擁する中核都市である。駅前には高層マンションが立ち並び、都心へのアクセスも良好な「ベッドタウン」としての顔が強く印象付けられている。しかし、かつてこの地は「キューポラのある街」として知られ、煙突が林立する工業都市の様相を呈していたのだ。現在の風景からは想像しにくいその変貌の軌跡をたどることは、この街の持つ多層的な歴史を紐解くことに繋がるだろう。
川口の地に人が住み始めたのは、およそ2万年前の旧石器時代に遡ると言われている。当時は現在の市南部が海面下にあり、北東部の台地には旧石器時代の天神山遺跡や縄文時代の新郷貝塚などが残されていることから、古くから人々が生活を営んでいたことが伺える。新郷貝塚は、川口市内で最大規模の縄文時代後・晩期の貝塚遺跡であり、1893年には東京帝国大学の人類学研究室が発掘調査を行っている。
「川口」という地名の由来には諸説あるが、旧入間川(現在の荒川)の河口に面していたことに由来するという説が有力である。 鎌倉時代の『義経記』には、源義経が鎌倉へ向かう途中に武蔵国足立郡小川口で兵を改めたことが記されており、これが文献上に見える最古の「川口」の記録とされている。
江戸時代に入ると、川口は交通の要衝としての重要性を増していく。徳川将軍家が日光東照宮へ参拝する際に利用した「日光御成道」が市内を南北に貫き、川口宿が宿場町として栄えた。 また、荒川や芝川、見沼代用水といった水路を利用した舟運も盛んになり、江戸への物資輸送の拠点となったのである。 この頃から、鍋や釜、鉄瓶などの日用品や、梵鐘、灯篭といった社寺用具を製造する鋳物業が発達し、宿場の裏通りを形成していたという。 1641年には鋳物師の永瀬治兵衛守久が錫杖寺の梵鐘を鋳造しており、これは県指定文化財となっている。 さらに、1652年から1654年頃には安行で植木の栽培が始まり、明暦3年(1657年)の江戸大火で焼け野原となった江戸へ植木や草花を供給することで発展した。
川口が「鋳物の街」として発展した背景には、複数の地理的・歴史的要因が重なっている。まず、荒川や芝川の河川敷から良質な砂や粘土が産出され、これが鋳型の製造に適していた。 次に、江戸という大消費地に隣接していたことが大きい。舟運を利用すれば、原料や燃料、そして完成した製品を効率的に江戸へ運ぶことができたのである。 加えて、近隣から豊富な労働力が得やすかったことも、産業の成長を後押しした。
明治時代になると、川口の鋳物業は大きな転換期を迎える。永瀬庄吉などの先導により技術革新が進み、従来の鍋釜などの日用品から、近代産業を支える機械部品鋳物へと生産の軸が移っていった。 この変化は分業化を促し、木型屋など多くの関連業種を生み出した。 日清戦争、日露戦争、第一次世界大戦といった戦時下の需要も、川口の鋳物産業に空前の活況をもたらした。 1910年(明治43年)に川口町駅(現在の川口駅)が開業すると、陸上輸送の利便性も加わり、川口鋳物の販路は全国、さらには朝鮮や台湾にまで拡大したのである。
第二次世界大戦終戦後、川口の鋳物業界は壊滅的な打撃を受けたものの、比較的戦災を免れたことで資材や設備を温存できた。 これにより、軍需品から日用品や農機具の生産へと迅速に転換し、復興を遂げる。 朝鮮戦争による特需や高度経済成長期を経て、再び機械部品鋳物の生産へと重心を移し、全国の鋳物業界において確固たる地位を築いた。 1964年の東京オリンピックで使用された聖火台が川口鋳物によって製作されたことは、その技術力の高さを象徴する出来事と言えるだろう。
川口の鋳物業が歩んだ歴史は、他の「ものづくり」の街と比較することで、その特性がより明確になる。例えば、新潟県の燕三条地域も金属加工業で知られるが、その多くは洋食器や金物といった比較的小型の製品に特化し、家内工業的な側面を長く維持してきた。一方、川口の鋳物業は、江戸時代の日用品生産から、明治以降の機械部品、そして戦時下の軍需品へと、時代の要請に応じて製品の種類と規模を大きく変化させてきた点が特徴的である。これは、隣接する東京という巨大な市場の存在と、荒川・芝川という水運の利便性、さらに鉄道網の整備が、より大規模で多様な生産を可能にしたためだろう。
しかし、その隆盛も永続的ではなかった。1973年のオイルショック、1985年のプラザ合意以降の急激な円高、他素材への転換、そして海外製品との競争激化は、川口の鋳物産業に大きな影響を与えた。 多くの鋳物工場が移転や廃業を余儀なくされ、かつて煙突が林立していた風景は徐々に姿を消していく。
この産業の衰退と並行して、川口は新たな都市像を模索し始めた。東京に隣接するという立地は、高度経済成長期以降、「ベッドタウン」としての需要を急速に高めることになる。 かつての工場跡地には高層マンションや商業施設が建設され、街の景観は大きく変貌した。
昭和後期から平成にかけて、川口は「ものづくりの街」から「住宅都市」への転換を加速させた。1973年のオイルショック以降、鋳物工場の数は大きく減少していく。 かつて工場が集中していた金山町や本町といった荒川・芝川沿いの地域では、広大な工場跡地が住宅開発に充てられ、高層マンションが次々と建設された。
交通インフラの整備もこの変化を後押しした。1954年には京浜東北線西川口駅、1973年には武蔵野線東川口駅が開業し、都心へのアクセスが向上した。 さらに、長年の念願であった埼玉高速鉄道線が2001年に開通し、川口元郷駅、新井宿駅、戸塚安行駅、東川口駅の4駅が市内に開業したことで、地下鉄を介して都心直結の利便性が確保されたのである。
行政区域も拡大を続けた。1933年(昭和8年)に川口町、青木村、横曽根村、南平柳村が合併して川口市が発足して以来、戦時合併による周辺町村の編入、その後の分離を経て、2011年には鳩ヶ谷市を編入合併し、現在の市域が形成された。 2018年には中核市に移行し、埼玉県内ではさいたま市に次ぐ人口約60万人を擁する大都市へと成長を遂げている。 市のマスコットキャラクター「きゅぽらん」は、溶解炉「キューポラ」をモチーフにしており、かつての「鋳物の街」としての記憶を現代に伝えている。
川口の歴史をたどると、この街が常に外部の環境変化に適応し、その姿を変えてきたことがわかる。荒川という自然条件、江戸という大都市との距離、そして明治以降の日本の近代化や戦後の経済成長、さらにはバブル経済の崩壊といった社会情勢が、その都度、川口の産業構造と都市景観を規定してきた。
かつて「鋳物の街」として全国に名を馳せた川口は、その産業が衰退する中で、東京の「ベッドタウン」として新たな役割を見出した。工場跡地に高層マンションが林立する現在の風景は、一見すると過去との断絶を思わせるかもしれない。しかし、その根底には、河川交通の利便性を活かした江戸時代からの「ものづくり」の伝統や、日光御成道の宿場町として栄えた交通の要衝としての歴史が確かに息づいている。現在の川口は、工業都市としての記憶を内包しながら、都心近郊の住宅都市として発展を続ける、多層的な歴史の上に築かれた都市の姿なのである。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。