2026/6/7
高岡金屋町、鋳物の音はなぜ途絶えないのか

高岡の金屋町について詳しく知りたい。伝統的建造物群保存地区になっている。
キュリオす
高岡市金屋町は、千本格子の町並みが残る伝統的建造物群保存地区です。前田利長による産業振興策、地理的条件、職人の技術革新が鋳物業を根付かせ、現代までその営みを続けています。
高岡の市街地から少し離れた金屋町に足を踏み入れると、通りに沿って連なる千本格子の家並みが目を引く。道の両側に等間隔で並ぶ木造の建物は、一見すると時間の中で静止したかのように見える。しかし、その格子窓の奥からは、時折、金属を叩く乾いた音や、やすりで削る摩擦音がかすかに聞こえてくることがある。この町は「伝統的建造物群保存地区」として知られているが、単なる歴史的な景観の保存に留まらない。なぜこの限られた一角に、これほどまでに鋳物づくりが根付き、そして今もなお、その営みが続いているのか。この問いは、単に過去を振り返るだけでなく、現代における「ものづくり」のあり方、そして地域がその文化をどう継承していくかという、より大きな問いへと繋がっていくように思えるのだ。
金屋町の歴史は、慶長14年(1609年)に加賀藩主・前田利長が高岡城を築き、高岡の町を開いたことに始まる。利長は、関ヶ原の戦い後、富山城から高岡城へと隠居したが、城下町の発展のために産業の育成を重視した。その一環として、慶長16年(1611年)に、砺波郡西部金屋村(現在の高岡市戸出西部金屋)から、鋳物師7名を高岡のこの地に移住させたのだ。この7名の鋳物師は、当初、鍋や釜といった日用品の鋳造を担った。
高岡の地が選ばれた背景には、いくつかの地理的・資源的な要因があった。まず、鋳物に必要な良質な砂鉄が周辺地域で採れたこと。また、鋳型を固めるための粘土、そして燃料となる木炭を供給する森林資源が豊富であったことが挙げられる。さらに、高岡城下の利便性も重要だった。城下町として整備されたことで、鋳物師たちは安定した需要と流通経路を確保できた。当初は利長からの保護の下、年貢を免除されるなどの優遇措置も受けたという。
江戸時代を通じて、高岡の鋳物業は順調に発展を遂げていく。特に、加賀藩は鋳物師たちに「十村役」という特権を与え、近隣の村々に鋳物技術を指導させることで、生産規模を拡大していった。これにより、高岡鋳物は日用品だけでなく、梵鐘や灯籠といった寺社仏閣向けの大型鋳物、さらには美術工芸品へとその範囲を広げていった。明治時代に入ると、廃刀令により武具の需要が激減したが、高岡の鋳物師たちは、洋食器や美術工芸品、特に銅器の分野へと巧みに転換を図った。この転換が功を奏し、高岡銅器は国内外の博覧会で高い評価を受け、その名を確立していったのである。金屋町の家並みは、こうした鋳物業の発展と、それに携わった人々の営みが積み重なって形成されたものだ。
高岡の金屋町に鋳物業が定着し、発展を続けた背景には、複数の条件が重なり合った結果がある。一つ目は、前田利長による計画的な産業振興策である。利長は単に鋳物師を招いただけではなく、彼らに土地を与え、年貢を免除するなど、初期の事業を安定させるための具体的な支援を行った。これは、藩の財政基盤を強化し、城下町の経済を活性化させるという明確な意図に基づいていた。特定の技術者を優遇し、一つの場所に集住させることで、技術の共有と効率的な生産体制を確立しようとしたのである。
二つ目は、地理的条件と資源の恵みだ。高岡周辺には、鋳物の原料となる良質な砂鉄や粘土が豊富に存在した。特に、鋳型を作るための砂は、製品の品質を左右する重要な要素であり、その確保は生産の根幹を成す。また、燃料となる木炭の供給源となる森林も近くにあり、これらが安定した生産を支えた。さらに、千保川が町の中央を流れ、冷却水や運搬に利用できたことも有利に働いた。これらの自然条件が、鋳物業の持続的な発展を可能にした基盤となった。
三つ目は、職人たちの技術革新と適応力である。高岡の鋳物師たちは、時代や社会の変化に応じて、生産する品目や技術を柔軟に変えてきた。初期の鍋釜などの日用品から、梵鐘や灯籠といった大型鋳物、そして明治以降の廃刀令を契機とした美術工芸品や銅器への転換は、その適応力の高さを物語っている。特に、銅器の分野では、蝋型鋳造や金工技術など、高度な技術を取り入れ、精緻な美術品を生み出すことで、高岡鋳物、特に高岡銅器のブランドを確立した。これらの条件が複合的に作用し、金屋町は単なる鋳物生産地ではなく、技術と文化が継承される特別な場所となったのだ。
金屋町の「伝統的建造物群保存地区」としての特徴は、職住一体の町並みに集約される。通りに面して連なる建物は、多くが間口が狭く奥行きが深い「町家」の形式を取り、一階部分が作業場、二階が住居として使われることが多かった。特に目を引くのが、格子戸と「さまのこ」と呼ばれる土壁の意匠である。千本格子や縦格子は、外からの視線を遮りつつ光を取り入れ、風通しを良くする機能を持つ。また、延焼を防ぐための土蔵造りの建物や、防火対策として設けられた水路も、この町の歴史と機能性を物語っている。
全国には、高岡金屋町と同様に伝統的建造物群保存地区に指定されている場所が数多く存在する。例えば、岐阜県高山市の「古い町並」は、江戸時代から明治時代にかけての商家の町並みが残り、観光地としても高い人気を誇る。また、京都の祇園新橋や奈良井宿(長野県)なども、それぞれの地域の歴史や産業を反映した独特の景観を維持している。これらの地域に共通するのは、単に古い建物を残すだけでなく、その土地の生業や文化と密接に結びついた町並みを保存しようとする点だろう。
しかし、高岡金屋町が他と異なるのは、その「生業」が現代においても活発に続いていることだ。高山のような観光地化が進んだ町並みでは、土産物店や飲食店への転換が進み、かつての商家の機能が失われつつある例も少なくない。一方で金屋町では、今も実際に鋳物工場や工房が点在し、職人たちが日々制作に励んでいる。観光客が訪れる一方で、現役の職人たちが生活し、仕事をしている「生きている町並み」であることが、金屋町の際立った特徴と言える。この継続的な生産活動こそが、建物の維持だけでなく、技術や文化そのものの継承を可能にしているのだ。
現在の高岡金屋町は、伝統的建造物群保存地区として、その独特の景観が守られているだけでなく、鋳物づくりの営みが今も息づいている。通り沿いには、往時の面影を残す町家が並び、その中には実際に鋳物工房や、高岡銅器を展示販売する店、ギャラリーなどが点在する。観光客は、古い町並みを散策しながら、職人の作業風景を垣間見たり、鋳物体験に参加したりすることができる。
一方で、伝統産業が抱える課題も少なくない。後継者不足は深刻な問題であり、熟練の技術を次世代にどう伝えていくかは常に問われている。しかし、近年では、伝統技術を活かしつつ、現代のライフスタイルに合わせたデザインの製品開発に取り組む若い職人たちも現れている。彼らは、高岡銅器の持つ高い技術力と素材の美しさを、インテリア雑貨やアクセサリーなど、新たな形で表現しているのだ。また、町並み保存の観点からは、老朽化した建物の維持管理や、現代生活との調和を図りながら歴史的景観を保つための取り組みが続けられている。住民や行政、観光関係者が連携し、ワークショップやイベントを通じて、金屋町の魅力を発信し、新たな活気を生み出す努力が行われている。
金屋町の町並みに見られるのは、単なる過去の遺産ではない。そこには、前田利長の産業振興策から始まり、四世紀以上にわたって鋳物づくりを生業としてきた人々の、確かな足跡が刻まれている。そして、その生業が、町の景観を形成し、技術を育み、さらには人々の生活様式にまで影響を与えてきたことが見て取れる。全国に存在する多くの伝統的建造物群保存地区が、かつての生業の痕跡を保存する傾向にあるのに対し、金屋町では、その生業が今もなお現役で息づいている。
この事実は、「伝統」という言葉が、単なる静的な過去の再現ではなく、変化し、適応し続ける動的な営みであることを示唆している。金屋町の職人たちが、時代ごとに製品を変え、技術を磨いてきたように、町並みもまた、その営みの中で形作られ、維持されてきたのだ。格子窓の奥から聞こえる金属音は、過去から現在へと続く時間の流れ、そして未来へと向かう、この町の確かな意志のようなものを伝えている。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。