2026/6/4
平安後期、律令制の「綻び」はどのように社会を変えたのか

平安時代の後期、律令制の綻びによって荒れていったと教科書的には言うが、どのような綻びによって荒れていったのか?深ぼって教えて欲しい
キュリオす
平安後期、墾田永年私財法や国司の請負化といった律令制の綻びが、荘園の拡大や武士の台頭を招き、私的経済圏が各地に成立する過程を辿る。これは制度の崩壊ではなく、社会構造の変容であった。
教科書で「律令制の綻び」という言葉に触れるとき、それはあたかも一枚の布が擦り切れていくような、漠然としたイメージを呼び起こす。しかし、実際に何が、どのように解れていったのか。その具体的な過程を追うと、決して単一の要因ではなく、複数の糸が複雑に絡み合い、あるいは互いを引きちぎるようにして、古代国家の骨格が変容していった様が見えてくるだろう。それは、単なる衰退ではなく、新たな社会構造への移行期であったとも捉えられる。
律令制は、7世紀後半から8世紀にかけて整備された、天皇を中心とする中央集権的な統治システムである。土地と人民を国家が直接支配し、租・庸・調といった税を徴収することで財源を確保し、中央から派遣される国司が地方行政を担う体制を理想とした。しかし、その理想は早くも9世紀頃から現実との乖離を見せ始める。特に大きな転換点の一つが、743年に発布された墾田永年私財法である。これは、開墾した土地の私有を永年認めるというもので、一見すると荒地の開発を奨励する政策に見えるが、結果として私有地の拡大を招き、公地公民の原則を揺るがすことになった。貴族や寺社は広大な土地を開墾し、あるいは既得の土地を囲い込むことで、自らの経済基盤を強化していく。この動きは、律令制が目指した国家による土地支配の原則に、決定的な亀裂を入れる一因となった。
また、中央政府の財政難も深刻化していった。律令国家の税制は、土地からの収穫物を基本としていたが、人口増加や開墾の進展とともに、既存の税収だけでは国家の運営を支えきれなくなる。この財政難を補うため、国家は次第に国司の請負化を進めていく。国司は、与えられた任期中に一定の税収を中央に納めることを条件に、地方行政の広い裁量権を与えられた。これにより、国司は自らの権益を拡大するため、半ば強引な徴税を行う一方、私腹を肥やす者も現れた。国司の権限強化は、地方における中央政府の直接的な統治力を弱め、地域社会の自立性を高める結果にも繋がったのである。
律令制の綻びは、単一の原因によって生じたわけではない。複数の要因が相互に作用し、徐々に国家の構造を変質させていった。まず、墾田永年私財法以降に拡大した私有地は、やがて荘園として確立していく。荘園は、有力貴族や大寺社が所有する土地であり、その最大の特徴は、国家からの租税や不入の権(国司が荘園内へ立ち入ることを拒否する権利)といった特権が認められたことにある。 これにより、国家は荘園からの税収を得られなくなり、財政基盤はさらに揺らいでいった。荘園が各地に広がるにつれて、公領(国家の直接支配地)は縮小し、律令国家の根幹であった公地公民の原則は形骸化していったのである。
次に、国司の請負化がもたらした影響は大きい。国司は任期中の徴税ノルマ達成のため、地方の有力者と結びつき、あるいは彼らを支配下に置くことで、実質的な地方支配を強めていった。この過程で、国司は時に非合法な手段で土地を囲い込み、私的な財産を築くこともあった。中央政府からの統制が緩む中で、国司の権力は肥大化し、地方は中央の命令が届きにくい領域へと変貌していく。さらに、治安維持の必要性から、国司自身が武装したり、地方の有力武士を配下に置いたりする動きも活発になった。これが、後の武士団の形成に繋がる萌芽となる。
そして、中央政府における摂関政治の進展も、律令制の変質に拍車をかけた。摂関家は、天皇の外戚として政治の実権を握り、自らの権力を背景に広大な荘園を形成した。彼らは、律令制の枠組みを維持しつつも、実質的にはその制度を自らの権益のために利用したのである。律令の法体系は名目上は存続したが、その運用は摂関家の意向に左右されるようになり、国家の機能は摂関家という特定の権力者に集中していった。このように、土地制度の変容、地方行政の変質、そして中央政治の権力集中が複合的に絡み合い、律令制は本来の姿から大きく乖離していったのだ。
平安後期の律令制の変質は、しばしば「崩壊」と表現されるが、その実態は、むしろ「変容」と捉える方が適切かもしれない。例えば、西欧におけるローマ帝国の崩壊が、異民族の侵入や都市の衰退といった劇的な形で起こったのに対し、日本の律令制は、内部からの制度疲労と、既存の枠組みを利用した権力者の行動によって、時間をかけて緩やかに姿を変えていった。西欧の封建制が、国家の枠組みが一度瓦解した後に再構築された側面が強いのに対し、日本の荘園制は、律令国家の法体系の中に「特権」として組み込まれる形で発展した点が異なると言えるだろう。
また、中国の王朝交代における激しい内乱や、それに伴う社会の大変動と比較しても、日本の場合は中央政府の権威は完全に失われることなく、天皇という存在は象徴として残り続けた。これは、律令制が「公地公民」という理念を掲げながらも、実際には開墾を奨励する墾田永年私財法のような政策を導入するなど、現実との妥協を繰り返しながら運用されてきた経緯に起因する。結果として、律令制は「公」と「私」の境界が曖昧なまま、徐々に私的な権力が拡大していく余地を与え続けたのだ。この曖昧さが、律令制の緩やかな変容を可能にし、後の武家政権の成立へと繋がる土壌を形成したと見ることができる。
つまり、律令制の「綻び」は、外からの強い衝撃によって引き裂かれたというよりも、むしろ内部からじわじわと、しかし確実に、その構造を組み替えていくプロセスであった。それは、既存の法制度を完全に否定するのではなく、その解釈や運用を変えることで、新たな社会秩序が形成されていく、ある種の「適応」の過程でもあったのだ。
律令制の変質は、その後の日本社会に決定的な影響を与えた。公地公民の原則が形骸化し、荘園が全国に広がることで、土地は中央政府ではなく、有力貴族や寺社、そして地方の有力者によって支配されるようになった。これにより、国家が直接徴税するシステムは機能しなくなり、代わって荘園領主が自らの土地から収益を得るという、私的経済圏が各地に成立したのである。
この私的経済圏の拡大は、地方における武士の台頭を促した。荘園の管理や治安維持には、武力が必要とされたため、荘園領主は武士を雇い入れたり、自ら武装したりするようになった。また、地方の有力者は、自らの経済力と武力を背景に、武士団を結成し、地域社会における影響力を強めていった。彼らは、中央の権力者と結びつきながらも、時には独自の勢力として活動し、やがて源平の合戦のような大規模な武力衝突へと発展していく。この過程を経て、武士は単なる治安維持の担い手から、政治の実権を握る存在へと変貌を遂げていくのだ。
律令制が目指した中央集権国家の理想は、平安後期には大きく修正され、土地と人々は多元的な権力構造のもとに置かれるようになった。この変化は、鎌倉幕府の成立という形で、武士による新たな統治体制の確立へと結実する。つまり、律令制の綻びは、単なる制度の「失敗」ではなく、日本の歴史において長く続くことになる武家社会の基盤を築いた、重要な転換点であったと言えるだろう。
平安後期における律令制の綻びは、国家の重心が中央から地方へ、そして公的な制度から私的な権力へと、静かに移動していった過程を示している。墾田永年私財法や国司の請負化といった政策は、一見すると国家の強化を目指すものであったが、結果的には私的な土地所有と地方権力の肥大化を促し、それが荘園制と武士の台頭という形で結実した。
この変容は、律令という法体系が持つ強さと同時に、その柔軟性をも示唆している。制度が硬直していれば、おそらくもっと劇的な崩壊を迎えたかもしれない。しかし、律令制は、現実の変化に合わせて形を変え、権力者たちの思惑によって解釈を広げながら、新たな社会構造の形成を許容した。それは、あたかも大きな河川が、その流れを変えることなく、次第に複数の支流に分かれていくような、緩やかな、しかし不可逆的な変化であった。この時代の「綻び」を詳細に見つめることは、単に過去の出来事を学ぶに留まらず、国家と社会、そして人々の関係性がどのように変遷し得るのかを考える上で、一つの具体的な事例を提供してくれるだろう。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。