2026/7/5
平安貴族の「引目鉤鼻」は写実か?食生活の変化が顔貌を変えた証拠とは

平安時代の人物がの「引目鉤鼻」は、抽象的な型だったのか?それとも当時の人々は本当にあのような顔貌をしていたのか?科学的に分かっていないのか?
キュリオす
平安時代の絵巻物に描かれる「引目鉤鼻」は、当時の貴族の顔貌を抽象化したものか、それとも現実を反映したものか。食生活の変化による骨格の変容という人類学的な視点から、その実像に迫る。
墨線一本に閉じ込められた顔貌
徳川美術館や五島美術館に収蔵されている国宝『源氏物語絵巻』を眺めていると、ある種の奇妙な静けさに突き当たる。描かれているのは、千年前の最高権力者や、歴史に名を残す絶世の美女たちだ。しかし、その顔貌は驚くほどに画一的である。細長い一本の線として引かれた目、短い「く」の字で表現された鼻、そして点のような口。これがいわゆる「引目鉤鼻」と呼ばれる技法だ。現代の私たちが日常的に目にする漫画やアニメのキャラクターが、大きな目や豊かな表情で個性を主張するのとは対照的に、平安の貴人たちはまるで同じ仮面を付け替えているかのように、無表情のまま画面に収まっている。
この描写を前にしたとき、多くの人が抱く疑問がある。当時の人々は、本当にあのような顔をしていたのだろうか。あるいは、あれは単なる芸術上の「約束事」や、個性を消し去るための高度な抽象化に過ぎなかったのか。もし仮に、光源氏や紫の上が現代の街角に現れたとしたら、私たちは彼らをあの絵巻物のような顔として認識するのだろうか。それとも、単に当時の絵師たちが、個人の顔を写実的に描き分ける技術を持たなかっただけなのか。
一般的には、引目鉤鼻は「物語の読者が登場人物に自分を投影しやすくするための工夫」であるとか、「高貴な身分の人間は感情を露わにしないという美意識の反映」であると説明されることが多い。確かに、個性を削ぎ落とした没個性的な顔立ちには、見る側の想像力を引き出す余地がある。しかし、その一方で、人類学や考古学の視点から遺骨を調査していくと、単なる「記号」では片付けられない、ある種の生物学的なリアリズムがそこに含まれている可能性が浮かび上がってくる。あの一本の墨線は、単なる美学の産物だったのか、それとも土地と階級が生んだ肉体的な変容の記録だったのだろうか。
唐風の豊満から和風の細線へ
平安時代の絵画様式が、最初から引目鉤鼻であったわけではない。日本の絵画史を遡ると、そこには明確な転換点が存在する。奈良時代から平安初期にかけて、日本の美意識は大陸、特に唐の文化に強く依存していた。高松塚古墳の壁画に描かれた女性たちや、薬師寺の「吉祥天女像」を思い返せば分かりやすい。彼女たちの顔はふっくらと丸みを帯び、目鼻立ちははっきりとしており、現代の感覚から見ても「写実」的な豊満さを備えている。当時の「美人」とは、豊かさの象徴である健康的な肉体美を指していた。
しかし、十世紀末から十一世紀にかけて、遣唐使の廃止に伴う国風文化の隆盛とともに、表現は劇的な変化を遂げる。大陸由来の濃密な色彩や立体感は影を潜め、日本独自の「大和絵」が成立していく。その過程で生まれたのが、線を主体とした「作り絵」の技法である。下描きの上に不透明な絵具を厚く塗り重ね、その上から改めて細い墨線で輪郭や目鼻を書き入れるこの手法は、必然的に細部を整理し、エッセンスを抽出する方向へと向かった。
この時期、貴族社会では「もののあはれ」に代表される、繊細で内省的な美意識が共有されるようになる。人前で顔を晒すことは卑しいこととされ、高貴な女性たちは常に几帳や扇の陰に身を隠した。暗い寝殿造りの室内で、薄明かりの中に浮かび上がるのは、白粉で塗りつぶされた肌と、そこに引かれたわずかな墨の線だけである。このような住環境と生活習慣が、個人の顔立ちを識別することよりも、その場に漂う「情趣」を捉えることを優先させた。
引目鉤鼻が完成された形式として定着したのは十二世紀、平安末期の『源氏物語絵巻』においてである。ここでは、身分の高い人物ほど、その顔貌から個別の特徴が奪われている。一方で、同じ絵巻の中でも、身分の低い老女や下人などは、しわや大きな鼻、見開いた目など、極めて個性的に描かれることがある。つまり、引目鉤鼻とは、単なる「絵心の欠如」ではなく、特定の階層にのみ適用される「高貴さのコード」として意図的に選択された表現であったのだ。しかし、この「選ばれた顔」が、単なる想像の産物であったかと言えば、事態はもう少し複雑である。
咀嚼の喪失が造形した「貴族顔」
引目鉤鼻が単なる抽象的な型ではなかったことを示唆するのが、形質人類学による遺骨の研究である。長年にわたり日本人の骨格を調査してきた人類学者の鈴木尚は、その著書『骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと』などの中で、時代や階級による顔貌の変化を詳細に分析している。鈴木の調査によれば、平安時代から鎌倉時代にかけての貴族の遺骨には、庶民のそれとは決定的に異なる特徴が見られる。
最も顕著な違いは、顔の幅と顎の構造にある。当時の貴族たちは、精製された白米(白米を蒸した強飯や、さらに柔らかく炊いた姫飯)を主食とし、おかずも細かく刻まれたり、柔らかく煮込まれたりしたものを選んで食べていた。硬いものを噛む必要がなくなった結果、咀嚼筋が退化し、それに伴って下顎骨が著しく華奢になった。顎が細くなれば、顔全体の輪郭は面長になり、現代で言うところの「下ぶくれ」や「うりざね顔」の状態に近づく。
この「咀嚼の喪失」は、鼻の形状にも影響を及ぼす。顎が後退し、顔の幅が狭まることで、相対的に鼻梁(鼻筋)が細く、高く突き出して見えるようになる。これが、絵巻物で「く」の字のように鋭く描かれる「鉤鼻」の実体ではないかと考えられている。実際に、鎌倉時代の貴族の頭蓋骨を復元すると、庶民に比べて鼻骨が細く、前方へ突出している傾向が確認できる。つまり、あの鉤鼻は、単なる記号としての誇張ではなく、柔らかい食事を特権的に享受し続けた結果として現れた、生物学的な「貴族の特徴」を捉えたものだったのである。
目の描写である「引目」についても、単なる様式化だけでは説明できない側面がある。日本人の目は、遺伝的に一重まぶたや蒙古ひだ(眼内角の発達)を持つ北方アジア系の特徴を強く引き継いでいる。特に、大陸から渡来した支配階級の末裔である平安貴族にとって、細く切れ上がった目は自らの血統を示すアイデンティティでもあった。絵師たちは、個々の目の形を描き分けるのではなく、その階級が持つ「細い目」という特徴を極限まで純化させ、一本の線へと凝縮した。このように、引目鉤鼻という技法は、当時の貴族が実際に備えていた「細長い顔」「細い鼻筋」「切れ長の目」という身体的特徴を、階級の象徴として増幅させた「誇張された写実」であったといえる。
庶民の顎と貴族の細面
引目鉤鼻の特異性を浮き彫りにするためには、同時期の「庶民」がどのように描かれ、どのような骨格を持っていたかを比較する必要がある。平安から鎌倉時代にかけての絵巻物には、貴族を描いた『源氏物語絵巻』のような「物語絵」とは別に、市井の人々や寺院の縁起を描いた「縁起絵巻」や「風俗画」が存在する。代表的な例として『信貴山縁起絵巻』や『伴大納言絵詞』が挙げられる。
これらの作品に登場する庶民や下級武士、僧侶たちの顔は、引目鉤鼻とは正反対の筆致で描かれている。目は丸く見開かれ、鼻の穴ははっきりと描かれ、口は大きく開いて感情を露わにしている。彼らの顔立ちは、現代の私たちが「人間らしい」と感じる写実性に満ちている。この描き分けは、単に絵師の好みの問題ではない。そこには、実際に彼らが食べていたものと、それによって形作られた骨格の差が反映されている。
当時の庶民の食事は、玄米や粟、稗といった雑穀が中心であり、副菜も干物や硬い野菜など、しっかりとした咀嚼を必要とするものが多かった。鈴木尚の調査によれば、中世の庶民の遺骨は、貴族に比べて顎の骨が頑丈で横幅が広く、歯の摩耗も激しい。顔の輪郭は横に張り出し、鼻は低く横に広がる傾向がある。絵巻物において、庶民の顔が「デコボコとしていて表情豊か」に描かれるのは、彼らが実際に発達した咀嚼筋と、それに基づいた頑健な顔貌を持っていたからに他ならない。
興味深いのは、同じ貴族であっても、時代が下るにつれてその特徴が極端化していく点である。江戸時代の徳川将軍家や大名家の遺骨調査では、この「貴族顔」の傾向がさらに進み、顔の幅が極限まで狭まり、鼻筋だけが際立って高い、極端な面長の骨格へと変化していることが確認されている。平安時代の引目鉤鼻は、この「生活習慣による骨格の変容」が始まった初期段階を、鋭敏に捉えた表現だったのだ。貴族は自らの「噛まない生活」が生んだ華奢な顔立ちを、労働から解放された証として誇り、絵師はそれを「高貴さの型」として定着させた。一方で、大地に根ざし、硬いものを噛んで生きる庶民の顔は、その逞しさゆえに「野卑なもの」として、引目鉤鼻の適用外に置かれたのである。
骨から復元される千年前の真実
現代の科学技術は、絵巻物の平面的な線を、三次元の肉体へと引き戻す試みを続けている。近年の人類学的な知見に基づいた顔貌復元(法医学的復元)では、平安貴族の顔は単なる「のっぺりとした顔」ではなく、非常に繊細で、ある種の神経質な美しさを湛えたものとして再現されることが多い。骨格から推定される筋肉の付き方や皮膚の厚みを考慮すると、彼らの顔は確かに面長で、現代人よりも顎が小さく、鼻筋が通っていた。
DNA分析の進展も、この議論に新たな光を当てている。平安貴族の多くは、弥生時代以降に大陸から渡来した集団の遺伝的影響を強く受けている。彼らは縄文的な「彫りの深い、四角い顔」ではなく、平坦で細長い顔立ちを持つ傾向があった。引目鉤鼻という技法は、この遺伝的なベースの上に、生活習慣による骨格の変化が重なり、さらに当時の美意識による「情報の取捨選択」が行われた結果、結実したものである。
また、当時の「化粧」というフィルターも無視できない。平安貴族は男女ともに白粉を厚く塗り、自眉を剃り落として額の高い位置に「置眉」を描いた。白粉は顔の凹凸を消し去り、平面的に見せる効果がある。暗い室内で、白粉によって境界を失った顔貌から、わずかに残る目と鼻のラインだけを抽出したものが、あの絵巻物の正体である。現代の私たちがスマートフォンのアプリで顔を加工し、目を大きく、顎を細く見せるのと同様、当時の貴族もまた、自らの肉体を「理想の型」へと近づけるための努力を惜しまなかった。
現在、私たちは博物館で『源氏物語絵巻』を鑑賞する際、それを「古臭い、記号的な絵」として片付けてしまいがちだ。しかし、その線の背後には、実際にその時代を生き、特定の食事を摂り、特定の環境に身を置いていた人間たちの、生物学的な現実が厳然と存在している。引目鉤鼻は、決して空想から生まれたデフォルメではない。それは、骨格という逃れられない物理的な制約と、文化という意志的な選択が交差した地点に現れた、極めて精度の高い「階級の肖像」であった。
型という名の写実
平安時代の引目鉤鼻が、単なる抽象的な型であったのか、それとも現実の反映であったのか。その答えは、両者の境界線が溶け合う場所にある。それは、当時の貴族たちが実際に持っていた身体的特徴を、あえて「型」として固定することで、個人の差異を超えた「階層の真実」を描き出そうとした、一種のメタ写実主義であった。
私たちは「写実」という言葉を、カメラのレンズが捉えるような、光学的・解剖学的な正確さと同一視しがちである。しかし、平安の絵師たちが求めたのは、個々の顔のしわや毛穴を描くことではなく、その人物が属する世界の空気感や、その階級が体現すべき「正しさ」を写し取ることだった。咀嚼を忘れ、華奢になった顎。白粉で平坦化された肌。それらは当時の貴族社会における「現実」そのものであり、引目鉤鼻はその現実を最も効率的に伝えるための、洗練されたインターフェースであった。
引目鉤鼻を「型」として捉えるとき、そこには現代の私たちが失ってしまった、世界の見方が隠されていることに気づく。現代社会では、個人のアイデンティティや「自分らしさ」が至上の価値とされる。顔は個人の所有物であり、他者と区別されるための記号だ。しかし、平安貴族にとっての顔は、自らの血統や教養、そして所属する階級という大きな物語の一部であった。あの墨線一本は、個人の顔を消し去ったのではなく、個人を「貴族という種」の普遍性へと昇華させたのである。
読み終えて改めて絵巻物を眺めると、あの無表情な顔立ちが、以前とは違った温度を持って迫ってくる。それは、柔らかい食事を摂り、暗い部屋で詩を詠み、自らの骨格すらも文化の重みで変容させていった、かつての日本人の生々しい記録だ。引目鉤鼻という抽象は、実は最も具体的な「生活の痕跡」を私たちに伝えている。それは、時代が進み、食生活が変わり、骨格が再び変化した現代の私たちには、もう二度と手に入れることのできない、千年前の肉体の記憶そのものである。絵巻物の人物たちが皆同じ顔に見えるのは、彼らが皆、同じ時代という過酷なまでに美しい「型」の中で生きていたからに他ならない。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
参考
- 新曲 コラムehon-emaki.meisei-u.ac.jp
- 原始化粧から伝統化粧の時代へ 平安時代2 | ポーラ文化研究所cosmetic-culture.po-holdings.co.jp
- 引目鉤鼻 2018.04.22-04.28 | 原島 博 ホームページharashima-lab.jp
- 平安時代では庶民のあいだでも平安美人のような顔立ちの人がモテていたのでしょう... - Yahoo!知恵袋detail.chiebukuro.yahoo.co.jp
- 徒然草 コラムehon-emaki.meisei-u.ac.jp
- 引目鉤鼻の鉤鼻とはどういう鼻を言うのですか? - 平安時代の鼻の様... - Yahoo!知恵袋detail.chiebukuro.yahoo.co.jp