2026/7/2
神戸元町高架下の「モトコー」はどのように生まれ、消えていったのか

元町高架下、モトコーについて詳しく知りたい。どのようにでき、なくなっていくのか?
キュリオす
神戸の元町高架下に約1.2kmにわたり延びていた「モトコー」。戦後の闇市から始まり、雑多な個性が集まる「魔窟」として多くの人々を惹きつけたこの場所が、耐震補強工事により姿を変えつつある経緯を辿る。
高架下のざわめき、その記憶
神戸の元町を歩くと、かつてJRの高架下に延びていた「モトコー」の存在を意識せずにはいられない。約1.2キロメートルにわたる細長い空間は、単なる商店街という枠には収まらない、独特の磁場を放っていた。錆びたシャッター、剥き出しの配管、そして店先に乱雑に積まれた商品群。そこには、整然とした「港町神戸」のイメージとは異なる、どこかアングラで混沌とした空気が満ちていたのだ。なぜこの高架下の空間は、これほどまでに異彩を放ち、多くの人々を惹きつけてきたのだろうか。そして、その特別な場所は、どのようにして生まれ、今、どのように消えゆこうとしているのか。
闇市から始まった高架下の道
モトコーのルーツは、第二次世界大戦終結直後の混乱期、1945年の神戸大空襲によって焼け野原となった街に遡る。雨風をしのげる国鉄(現在のJR)の高架下に、被災した人々が集まり、食料品や生活必需品を売買する「闇市」が自然発生的に形成された。この闇市は急速に拡大し、「三宮自由市場」と呼ばれるようになり、最盛期には1,500もの店舗が並ぶ全国有数の規模を誇ったという。ここに来れば何でも手に入ると、遠方からも多くの人々が訪れたとされる。
当初は非合法な露店営業であったが、風紀や衛生上の問題から神戸市、警察、GHQによる取り締まりが始まったことを受け、商人たちは自衛のために自治組織を立ち上げた。 1946年には兵庫県が「露店営業取締規則」を定め、営業を許可制としたことで、路上から高架下へと店舗が移転し、合法的な商店街としての道筋が作られていく。 1946年12月には「元町高架下商業協同組合」が発足し、翌1947年6月には「元町高架通商業協同組合」と改称され、現在の「元町高架通商店街」が正式に成立したと推察されている。
神戸駅を含む灘駅〜鷹取駅間の高架化は、それ以前の1931年(昭和6年)に完成しており、複々線化は1937年(昭和12年)に現在のJR神戸線に近い形態となった。 つまり、高架橋というインフラは戦前から存在し、それが戦後の混乱期に人々の生活の場として「発見」され、活用された形である。このようにして、モトコーは単なる商業施設ではなく、戦後の復興期における人々の生活と密接に結びついた、歴史の痕跡を色濃く残す場所として形成されていったのだ。
雑多な個性が生み出した「魔窟」
元町高架下商店街、通称「モトコー」が持つ独特の雰囲気は、その物理的な構造と、そこに集積した多様な店舗群、そして時代背景が複雑に絡み合って生まれたものだ。JR元町駅から神戸駅まで約1.2キロメートルにわたって続く細長い高架下の空間は、東から1番街から7番街までに分けられ、それぞれに異なる表情を見せていた。 幅2メートル弱という狭い通路の両脇には、洋服、アクセサリー、雑貨、古本、ゲーム、レコード、骨董品、中古家電、町中華、酒場、洋装店など、多種多様な専門店がひしめき合っていたのである。
この場所が「魔窟」や「秘密基地」と称された理由の一つは、その商品ラインナップの独自性にある。 当時珍しかったイギリスやアメリカのインポートもの、ミリタリーアイテム、ヴィンテージの古着、レアなレコードや骨董品など、他の一般的な商店街では見つけることのできない「掘り出し物」が多く、関西圏だけでなく四国や中国地方からも買い付け客が殺到するほどだった。 特に、2001年にコンバースが日本から一度撤退した際に多くの在庫を引き取ったとされる「柿本商店」は、数千足のコンバースを揃え「コンバースの聖地」として全国的に知られる存在であった。
また、高度経済成長期には神戸港の港湾労働者や停泊する外国船の船員たちで賑わい、異国の路地裏のような空間が広がっていたという。 この国際色豊かな背景が、さらにモトコーの商品構成や雰囲気に影響を与えた可能性は高い。剥き出しの配管や錆びたシャッター、昭和の空気をそのまま吸い込んだような店舗の佇まいは、近代化された神戸の「表の顔」とは対照的な「裏の顔」として、多くの人々を魅了してきた。 定休日も店によってまちまちで、統一感のなさがかえってワクワク感を醸し出していたとも評される。 高架橋の橋脚が作り出す規則的な柱割りが、かえって雑多な雰囲気を引き立てる要素となっていたという見方もある。
1995年の阪神・淡路大震災の際、街中のアーケードや商店街が崩壊する中で、モトコーは奇跡的に大きな被害を免れた。 震災後、店主たちがいち早くシャッターを開け、物資を並べて営業を再開したことは、「神戸の灯を消してはならん」という彼らの気概を示すものだった。 このエピソードは、モトコーが単なる商業空間を超え、地域の生活を支える拠点であり、人々の心の拠り所でもあったことを物語っている。
都市の高架下、それぞれの変遷
都市部の鉄道高架下空間が、多様な商業施設や生活空間として利用されてきた歴史は、日本各地に見られる。例えば、東京のJR山手線や中央線の高架下には、神田のガード下飲食店街や中野のブロードウェイ周辺など、独自の文化を育んできた場所が点在する。これらは、鉄道の発展とともに生まれた「余剰空間」を、都市のニーズに合わせて活用してきた事例と言えるだろう。
しかし、モトコーが特に異彩を放っていたのは、その成立経緯と、商業形態の「ごった煮」感にある。多くの高架下商店街が、計画的な区画整理や鉄道会社の主導によって形成されたり、戦後の混乱期を経ても比較的早く近代的な商業施設へと変貌を遂げたりしたのに対し、モトコーは戦後の「闇市」をルーツとし、その混沌とした雰囲気を長く保持してきた点が特徴的だ。 例えば、東京の高架下には、整然とした「エキュート」のような駅ナカ商業施設もあれば、昔ながらの飲み屋街が残る場所もあるが、モトコーのような、高級ブランド品から怪しげな中古品までが混在し、海外のダウンタウンのような雰囲気を醸し出す場所は稀であった。
また、モトコーの通路が狭く、各店舗の境界線が曖昧で、商品が通路にまで溢れ出すような「セルフビルド」的な店舗形成がなされてきた点も、他の高架下空間とは一線を画す。 これは、計画的な開発ではなく、個々の商人が生き残るために試行錯誤を重ねた結果であり、その集合体が独特の景観を作り上げていた。一般的な商店街が、顧客の利便性や統一されたブランドイメージを重視するのに対し、モトコーは「騙される方が悪い」というようなシンプルなルールのもと、客と店員が対等に駆け引きを仕掛ける、人間味溢れる空間であったと評する声もある。 このような、良くも悪くも「自由」な商業空間は、高度経済成長期以降の都市開発においては主流とはならず、むしろ希少な存在となっていった。
さらに、阪神・淡路大震災を奇跡的に乗り越え、いち早く営業を再開したという歴史は、単なる商業空間を超えた地域の生活基盤としての役割を強く印象づけた。 他の都市の高架下商店街にもそれぞれ固有の歴史や魅力はあるが、モトコーは戦後の闇市から震災復興まで、神戸の激動の歴史をその高架下で静かに見守り、体現してきたという意味で、類を見ない存在であったと言える。
再整備と「街区」への変貌
長年にわたり神戸の風景の一部であったモトコーは、現在、その姿を大きく変えつつある。JR西日本が所有する高架下の耐震補強工事が本格的に進められており、それに伴い多くの店舗が立ち退きを余儀なくされてきた。 2015年12月、JR西日本は高架の耐震改修工事を理由に、2018年3月を契約満期として全店舗の撤去を求め、モトコーの消滅が決定的なものとなった。 この決定に対し、一部の商店主からは反発の声も上がったが、1995年の阪神・淡路大震災を経験した人々にとって、高架下の耐震改修の必要性は理解できるものであったという側面もある。
工事はJR神戸駅-兵庫駅間から先行して始まり、三ノ宮駅、神戸駅、兵庫駅の各高架駅の耐震改修はすでに完了していた。 モトコーの区画では、北側が高架下賃貸契約の満期を2017年3月末に迎え、南側も2018年3月末に期限満期となったことで、多くの店舗が閉店または移転した。 2018年4月からは3番街と7番街の空き店舗から順次工事が開始され、2019年にはすでに閉店した店、営業中の店、工事中の店が混在する状況となっていた。
再整備後のモトコーは、従来の「番街」から「街区」へと名称が変更され、新しい建物への入居が始まっている区画もある。 例えば、3街区と7街区の一部では、2022年10月1日から鉄骨造2階建ての新しい建物の使用が開始された。 しかし、再整備された区画ではテナント集めが難航している状況も報じられている。 JR西日本不動産開発は、防火・防犯上の課題や建物の老朽化、南海・東南海地震に備えた耐震補強の重要性を挙げ、安全性の向上と新たな街づくりを目指している。
2026年6月1日には、JR元町駅に近い1番街と2番街が通路を含めて完全に閉鎖され、解体作業に入った。 これにより、戦後の闇市をルーツとする神戸の名物スポットは、その歴史に幕を下ろすこととなった。 一部の区画では、かつての記憶を記録として残すアートプロジェクト「MOTOKOLOGY(モトコロジー)」が期間限定で開催されるなど、失われゆくモトコーの文化を惜しむ動きも見られた。 新しいモトコーは、神戸らしい洋風のレンガ調の建物になる計画もあり、かつてのディープな雰囲気とは異なる、開放的でスタイリッシュな商業空間へと変貌を遂げようとしている。
消えゆく風景が問いかけるもの
元町高架下、通称モトコーの消滅は、単なる古い商店街の終わりとして片付けられない、複雑な問いを投げかけている。戦後の闇市に端を発し、港湾都市神戸の多様な人々の生活を支え、震災をも乗り越えてきたこの場所は、都市の「裏側」の歴史を体現する存在であった。その雑多で混沌とした雰囲気は、効率性や均質性を追求する現代の都市開発とは相容れないものだったのかもしれない。
高架下の耐震補強という喫緊の課題への対応は必要不可欠であり、鉄道の安全性を確保することは公共性の高い事業である。しかし、その過程で失われるのは、単なる老朽化した建物や店舗だけではない。そこにあった「ごった煮」の文化、店主と客との間にあった独特の人間関係、そして何より、計画的ではないがゆえに生まれた「偶然の出会い」や「掘り出し物」を見つける高揚感といった、無形の価値である。新しいモトコーが「きれいに」「お洒落に」「利便性のある都市へ」と生まれ変わる一方で、かつてのモトコーが持っていた租界地のような混沌や闇市の名残、つまり「not a beautiful」な魅力が失われることへの違和感も存在する。
このモトコーの変遷は、日本各地の都市が直面する再開発の課題と共通する。老朽化したインフラや建物の更新は避けられないが、その際に、地域固有の歴史や文化、そして人々の生活の中で育まれてきた多様性をどのように継承し、新しい都市空間に織り込むかという点が常に問われる。モトコーがその姿を消していく中で、私たちは、都市の個性とは何か、便利さや美しさの追求だけではない、多様な価値観を許容する空間の重要性について、改めて考えさせられるのではないだろうか。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
参考
- 【さようならモトコー】2026年6月1日、ついに完全閉鎖。戦後の闇市から80年、僕たちの「秘密基地」だった元町高架下商店街の思い出|ぶるーまん神戸の案内人note.com
- 【後編】耐震工事で出現した戦意高揚スローガンと闇市時代の広告@元町高架通商店街 | 阪神沿線活性化WEB エンカチhanshin-enkachi.com
- mapple.netarticles.mapple.net
- 元町高架通商店街 - Wikipediaja.wikipedia.org
- kobe-u.ac.jpda.lib.kobe-u.ac.jp
- 創発的アーバニズム 高架下を探索する〜神戸編〜|鏡晋吾_デルクイ総研note.com
- 元町高架下(兵庫県神戸市)の見どころ・アクセスガイド|神戸で最もディープなストリート、「モトコー」。|tabicocolotabicocolo.com
- 昭和感溢れるレトロな雰囲気が魅力! 元町高架通商店街(モトコー) | ファッション | 神戸・姫路・阪神淡路の観光・グルメサイト IchibanKOBE(イチバンコウベ)ichibankobe.com