なぜ険しい山ではなく平野の真ん中に平安初期の仏像群があるのか、会津盆地の勝常寺薬師堂を歩く

盆地の真ん中で立ち止まる
福島県の西部に広がる会津盆地は、周囲を険しい山々に囲まれた平坦な土地である。そのほぼ中央に位置する河沼郡湯川村は、どこまでも平らな水田が広がり、遠くに磐梯山や飯豊連峰の稜線を望む、人口3000人ほどの小さな村だ。こののどかな田園風景のただなかに、勝常寺はある。寺の門をくぐると、そこには室町時代に再建された豪壮な薬師堂が佇み、その奥には、平安初期の優れた仏像群が今も安置されている。
通常、これほど古く、かつ美術的価値の極めて高い仏像群は、険しい山岳の修験場や、あるいは京都や奈良といったかつての都の周辺、あるいは戦火を逃れた山深い隠れ里のような場所に残るものだ。だが勝常寺は、隠れる場所などどこにもない、吹きさらしの盆地の平野の真ん中に建っている。なぜこの平坦な土地に、平安初期 of 仏教芸術の精華が生まれ、そして1200年近くもの間、失われずに残り続けたのだろうか。
宗派を賭けた法論と、東国への下向
この疑問を解き明かすには、9世紀初頭、平安時代が幕を開けたばかりの会津の状況をひもとく必要がある。当時、この地に足跡を残し、勝常寺の創建に決定的な役割を果たしたとされる人物が、徳一上人である。
徳一は、奈良の興福寺で法相宗を学んだ碩学であった。一説には藤原仲麻呂の子とも言われるが、その出自には謎が多い。確かなのは、彼が20代という若さで都を去り、東国へと下ったことである。当時の中央仏教界では、最澄が天台宗を、空海が真言宗を開き、新しい仏教の波が押し寄せていた。徳一は、奈良の旧仏教である南都仏教の立場を代表する論客として、会津の地から最澄に対して激しい法論を挑んだ。
これが、仏教史上名高い「三一権実論争」である。すべての人が成仏できると説く最澄に対し、徳一は人の素質には違いがあり、成仏できない者もいるという法相宗の教義を譲らなかった。最澄は徳一を「北地の麤食(粗末な食事をする者)」と呼び、徳一は最澄の説を厳しく批判した。この論争は、最澄が没する直前まで、数年にわたって書簡のやり取りを通じて戦わされた。
徳一が会津で開いたことが確実視される寺院として、磐梯山の麓にある慧日寺がある。慧日寺は、山林修行によって生まれながらの知恵を習得する「自然智宗」の実践の場であり、徳一の活動の本拠地であった。
一方、勝常寺は大同2年(807年)、あるいは弘仁年間(810〜824年)の創建と伝えられる。勝常寺の創建を直接示す徳一の文献はないが、境内に残る本尊の薬師三尊像をはじめとする12体の仏像は、すべて9世紀前半の作であることが学術的に明らかになっている。これは徳一が会津で活動していた時期と完全に一致する。
中世に入ると、勝常寺は一時衰退するが、鎌倉時代後期以降は真言宗に属し、京都の仁和寺の末寺となった。応永5年(1398年)には大規模な火災に見舞われ、伽藍の大部分を焼失した。しかし、室町時代初期、会津を支配していた蘆名氏の家臣である富田祐持らによって、現在の薬師堂が再建される。礎石に残る黒い焼け跡は、その火災の激しさを今に伝えている。徳一という中央の超エリート知識人が、なぜあえて東国の会津を選び、そして慧日寺と勝常寺という異なる性格の寺院を必要としたのだろうか。
修行の山と、教化の平野
徳一が会津盆地の東端にある磐梯山の麓に慧日寺を築いたのは、彼の思想の根幹に山林修行があったからである。俗世の雑音から離れ、峻険な自然の中で瞑想し、悟りを開く。そのためには、慧日寺の立地は最適であった。
しかし、徳一にとって仏教とは、山の中に閉じこもるためだけのものではなかった。彼は、東国の民衆に対して法相宗の正しい教えを広め、社会的な救済を行う大衆教化の使命をも帯びていた。そのためには、人々が容易にアクセスでき、集まることができる場所が必要であった。
会津盆地の中央に位置する現在の湯川村の地は、その要件を満たしていた。当時の盆地内は、阿賀川などの水系を利用した舟運や、盆地を縦横に走る街道が交差する、交通の要衝であった。徳一はこの平野の真ん中に勝常寺を建立し、そこに圧倒的なスケールと質を誇る仏像群を配したのである。
創建当時の勝常寺は、講堂を起点として南に向かって金堂、中門、南大門が一直線上に並び、東側に三重の塔を配する、東大寺に類似した伽藍配置を持っていたとされる。盛時には12の坊舎と100余りの子院を従えた一大寺院であった。
この大伽藍の中心に据えられたのが、現在は国宝に指定されている木造薬師如来坐像である。像高141.8センチメートル。ケヤキの巨大な一木から彫り出され、前後に割り離して内刳りを施した「一木割矧造」の技法が用いられている。この割矧造の初期の作例としても極めて貴重である。その姿は、眉間の白毫を表さず、狭い額に鋭い目鼻立ち、厚い胸板から両腿にかけての圧倒的なボリューム感を持つ。平安初期彫刻の典型である、深くうねるような「飜波式衣文」がケヤキの硬い木肌に刻まれている。
一方、その両脇に立つ日光菩薩立像と月光菩薩立像は、本尊の厳しい表情とは対照的に、穏やかでしなやかな体躯を持ち、前時代の天平様式の残り香を感じさせる。これらの仏像は、その材質から、都から運ばれたものではなく、会津の現地で彫られたものと考えられている。つまり、中央の高度な造仏技術を持った仏師集団がこの地に下向し、現地の木材を用いて、都の最新鋭のスタイルを具現化したのである。
平野の要衝に、このような巨大で威厳に満ちた仏像を安置することは、民衆に対して仏教の権威を視覚的に、そして肉体的に知らしめるための最大の仕掛けであった。修行のための山(慧日寺)と、教化のための平野(勝常寺)。徳一はこの二つの拠点を有機的に機能させることで、会津盆地全体を一大仏教圏へと変貌させたのである。
山岳の聖地と平野 of 伽藍が語ること
この山と平野の二元的な寺院配置は、勝常寺と慧日寺だけの特殊な現象なのだろうか。日本の仏教史を見渡すと、同様の構造を持つ事例がいくつか浮かび上がる。
最も顕著な例は、比叡山延暦寺と、その麓の琵琶湖畔に広がる坂本の町である。比叡山は厳格な修行の場であったが、実質的な物資の集散や民衆との接点は麓の坂本が担った。また、高野山金剛峯寺に対する、紀の川流域の慈尊院も、高野山への入り口であり、かつ民衆に対する窓口として機能した。
しかし、これらの事例と会津の徳一の展開との間には、決定的な違いがある。比叡山や高野山の場合、平野の拠点はあくまで山の従属物、あるいは玄関口としての性格が強かった。これに対し、勝常寺は慧日寺の従属物ではない。むしろ、勝常寺そのものが独立した巨大な伽藍を持ち、12体もの平安初期の仏像を独自に擁していた。これは、勝常寺が単なる窓口を超えて、平野における独自の正統性の供給源であったことを示している。
別の比較対象として、平泉の中尊寺や毛越寺が挙げられる。平泉は、北上川沿いの平地に壮大な浄土世界を現出させた。しかし、平泉の寺院群は奥州藤原氏という圧倒的な政治権力の庇護のもと、その権力を誇示し、死者を弔うために造られた政治的モニュメントとしての性格が強い。
一方、勝常寺が創建された9世紀初頭の会津には、奥州藤原氏のような一極集中した強力な世俗権力はまだ存在しなかった。徳一が頼ったのは、会津の在地豪族たちの緩やかな支持と、圧倒的な民衆のエネルギーであった。政治的な強制力ではなく、純粋に教化と信仰のネットワークの結節点として、平野の真ん中にこれほどの大伽藍が維持されたという点が、勝常寺の特異性を際立たせている。
萩の柱と、畑に包まれた大堂
現在、勝常寺を訪れる者は、その静けさに驚かされる。かつて七堂伽藍が立ち並んだ境内は、今ではこんもりとした木立に囲まれ、周囲は静かな畑地や民家に包まれている。
境内に入る際にくぐることになる中門は、室町時代の用材を用いて近世に再建されたもので、その造りは非常に素朴で親しみやすい。門に納められた仁王像も、都のそれのような威嚇的な表情ではなく、どこかユーモラスで温かみがある。
中門の先に佇む薬師堂は、桁行5間、梁間5間の単層寄棟造。昭和38年(1963年)の記録的な豪雪によって大破したため、翌年にそれまでの茅葺から銅板葺へと改められた。外観は和様を基調としながらも、随所に唐様の手法が混ざり、太い木割が堂々とした風格を醸し出している。
堂内に入ると、薄暗い空間の北西の角に、一本の奇妙な柱が立っている。これが、勝常寺の民間信仰を象徴する「萩の柱」である。この柱を削って煎じて飲むと、あらゆる病が治るという信仰がかつて広く浸透していた。実際に柱の表面は、人々が少しずつ削り取ったために、ささくれ立ち、細く窪んでいる。仏教の難解な教義を理解できない民衆にとっても、この薬師堂は具体的な身体の救済の場であったことが、その傷跡から生々しく伝わってくる。
本尊の薬師如来坐像は今も薬師堂の中央に安置されているが、かつてその脇に立っていた日光・月光菩薩像や、重要文化財に指定されている他の9体の仏像は、現在、堂の右手前にある近代的な収蔵庫に移されている。
平安初期の仏像がこれほど良好な状態で、かつまとまって一箇所に保管されているのは、畿内を除けば極めて稀である。毎年4月28日には、薬師如来の祭礼として念仏踊りが奉納され、境内は一時の賑わいを見せる。
しかし、この貴重な文化財を未来へと引き継ぐ現場には、現代固有の課題も横たわっている。湯川村は、福島県内でも最も面積の小さい自治体の一つであり、人口減少と高齢化が進む。専門の学芸員を常駐させ、国宝や重要文化財の適切な保存環境を保ち続けることは、小さな村の財政やコミュニティにとって決して軽い負担ではない。観光地として過度に商業化されることなく、信仰の場としての静謐さを保ちながら、いかにしてこの至宝を守り抜くか。畑の真ん中に佇む大堂は、その静けさの裏で、現代の地方が直面する切実な問いを抱えている。
辺境という名の、もうひとつの中心
勝常寺の存在は、私たちが抱きがちな「中央と地方」という歴史観の歪みを正してくれる。私たちは往々にして、平安時代の文化や知性はすべて京都に集中しており、地方はその遅れたコピーを受け取る側にすぎなかったと考えがちである。
しかし、9世紀初頭の会津盆地において、勝常寺は決して地方のコピーではなかった。最澄や空海という、日本仏教史上最大の巨頭たちと対等に渡り合い、時には彼らを沈黙させるほどの緻密な理論を組み立てた徳一が、この盆地を拠点にしていたという事実。そして、都の最新鋭のスタイルを持ちながらも、現地のケヤキという強靭な素材を用いて、都を凌駕するほどの量感と深い内面性を備えた仏像群を、この地で独自に造り出したという事実。これらは、当時の会津が、都に対する従属的な地方ではなく、東国におけるもう一つの自立した中心であったことを示している。
会津盆地の豊かな農業生産力と、水陸交通の利便性が、この巨大な知的・芸術的エネルギーを支える経済的基盤となった。徳一がこの平野の真ん中に勝常寺を打ち立てたからこそ、仏教は単なる高尚な学問にとどまらず、民衆の生活と身体に深く根を下ろした。
辺境だから、あるいは隠れ里だったから戦火を免れて残ったのではない。盆地の中央で、地域の人々がこの場所をみずからの生活の核として、世代を超えて守り、室町時代の火災の後にも速やかに再建し、維持し続けた意志の強さがあったからこそ、仏像たちは今日までその厳しい眼差しを保ち続けている。
薬師如来像の眉間には、仏の慈悲の光を放つとされる白毫がない。その空白の額は、安易な救済を約束するのではなく、この過酷な大地で生きる人々を、ただ静かに、そして厳格に見つめ続けてきた、東国の仏教の固有の厳しさを体現している。
旅と食が好き。どこにでもいます。