2026/6/12
京丹後の「大虫」「小虫」神社、病や厄災を司る神の由来とは

京丹後のあたりの大虫神社、小虫神社について詳しく教えてほしい。虫?
キュリオす
京丹後市にある大虫神社と小虫神社は、古代より疫病や害虫といった「虫」を神として祀ってきた。その名は、人々の災厄からの解放を願う祈りの形を示している。
大江の麓、大小の「虫」が棲まう場所
京都府の北部に位置する京丹後市、その内陸部にあたる与謝野町の温江(あつえ)地区に、大虫神社と小虫神社という二つの社が鎮座している。その名を聞けば、誰もが「虫」という言葉に足を止め、いかなる虫を祀るのか、あるいは退けるのか、と問いを立てるだろう。豊かな田園風景が広がるこの地で、なぜ「大」と「小」を冠した「虫」の神が並び立つのか。その問いは、古代の人々が抱いた病や厄災への畏れと、それを乗り越えようとした祈りの形を静かに示している。
大江の峰から里へ降ろされた神々
大虫神社と小虫神社の創建は定かではないものの、その歴史は古く、『延喜式神名帳』には両社ともに名神大社として記載されている。これは平安時代には既に高い格式を持っていたことを意味する。伝承によれば、かつて両社は大江山の中腹、池ケ成(いけがなる)と呼ばれる地に並び鎮座し、「虫宮(むしのみや)」と総称されていたという。
現在地に遷座したのは室町時代初期の頃とされており、それ以前の長い期間、神々は山中で地域の守護を担っていた。 この地は、かつて与謝郡の最先進地帯であったと見られ、周辺には蛭子山古墳や作山古墳群といった大規模な古墳や遺跡が密集している。 古代より開けたこの地で、人々は自然の恵みに感謝しつつも、疫病や害虫といった目に見えない脅威に常に晒されてきた。
また、この地には用明天皇の皇子である麻呂子親王が大江山に棲む土蜘蛛(鬼賊)を征伐する際に祈願したという伝説や、後の仁賢天皇と顕宗天皇が即位前にこの地に潜伏したという伝承も残されている。 これらの伝承は、大虫・小虫両神社が単なる地域の鎮守に留まらず、中央の歴史とも深く関わる、由緒ある存在であったことを示唆している。神々が山から里へ降りてきた背景には、人々の生活圏の拡大と、より身近な場所での加護を求める切実な願いがあったのだろう。
「虫」が示す病と厄災の姿
大虫・小虫神社の「虫」が何を意味するのか、その核心は両社に伝わる創建伝説にある。かつて、大己貴命(おおなむちのみこと)が沼河姫(ぬなかわひめ)とこの地に暮らしていた時、槌鬼(つちおに)という悪鬼が現れ、その毒気に当てられた姫が病に倒れたという。 嘆き悲しむ大己貴命のために、小虫神社の祭神である少彦名命(すくなひこなのみこと)が八色の息を吐きかけて槌鬼を追い払い、姫は回復した。しかし、その息が今度は人や動植物に「虫病」をもたらし、苦しめることになった。
この事態に対し、少彦名命は「小虫」と名乗り、体内の害源となる悪虫を除くことを誓い、大己貴命は「大虫」と名乗り、体外の病を治すことを誓い合ったとされる。 そして、二つの鏡を作り、それぞれが一つずつ持ったことから、「大虫」「小虫」の神として崇められるようになったという。
この伝説における「虫」は、単なる昆虫を指すのではなく、疫病や害虫、あるいは体内の不調や精神的な苛立ちといった、広範な「病」や「厄災」の象徴であったと解釈できる。大己貴命が「体外の病」、少彦名命が「体内の害源」を司るという役割分担は、古代の人々が病の原因を複合的に捉え、それに対し大小二つの力で対処しようとした信仰の表れだろう。少彦名命は医薬の祖神、温泉の守護神ともされることから、その役割はより具体的であったと考えられる。
越前と丹後、異なる地の「虫」が示すもの
「虫」を冠する神社は京丹後だけではない。福井県越前市にも同名の大虫神社が存在し、かつては小虫神社も合祀されていた。 越前の大虫神社もまた『延喜式神名帳』に名神大社として記載され、その創建伝説には、垂仁天皇の時代にイナゴが大発生した際、神に祈願したところ害虫が退散し、五穀豊作になったという話が伝わる。
両地域の「虫」信仰には共通点と相違点が見られる。共通するのは、いずれも「虫」を農業害虫や疫病といった災厄の象徴とし、それらを取り除くための祈りを捧げる対象として神を祀った点である。これは、農耕社会において害虫や疫病が人々の生活を脅かす最大の脅威であったことを物語っている。しかし、京丹後では槌鬼の毒気による「虫病」という、より抽象的かつ身体の内外にわたる病の概念が強く、越前ではイナゴという具体的な害虫への対処が強調されている。
また、全国的には、子供の夜泣きや癇癪を「疳の虫」と呼び、それを鎮める「虫封じ」の祈祷を行う神社が各地に見られる。埼玉県行田市の行田八幡神社はその代表例であり、古くから柏の葉に包んだ御神符で「虫」を封じる秘法が伝えられてきたという。 こうした例は、人々が「虫」を漠然とした不調や病の原因と見なし、それを神の力によって「封じる」ことで、安心を得ようとした普遍的な信仰の形を示している。京丹後の大虫・小虫神社の「虫」は、こうした日本各地の「虫」信仰の根底にある、災厄からの解放を願う人々の切実な思いと繋がっていると言えるだろう。
いま、加悦谷の社が伝えること
京丹後市与謝野町の温江地区に現存する大虫神社と小虫神社は、今も地域の人々の信仰を集めている。大虫神社の拝殿前には、特徴的な「垂れ耳の狛犬」が鎮座しており、その姿は多くの参拝者の目を引く。 この狛犬は、麻呂子親王の鬼退治の際に、鏡を首にかけた白い犬が親王を導き、鬼の姿を映し出したという伝説に由来するとも言われている。 小虫神社は病気平癒に御利益があるとされ、現代においても人々の健康への願いを受け止めている。
両社では、地元住民による維持管理が続けられ、地域の祭事にも深く関わっている。例えば、大虫神社では「加悦谷祭」という例祭が行われ、神楽や太刀振りといった伝統芸能が奉納されることもある。 かつて山中にあった社が、室町時代初期に里へと遷座して以来、地域の生活に寄り添い、その節目を彩ってきた歴史がここにはある。農業生産の現場で害虫の脅威が減少した現代において、「虫」の概念は具体的な害虫から、より広範な病気や災難へとその意味を広げているのかもしれない。
名が語る古代からの祈りの継承
京丹後の大虫神社と小虫神社を巡る中で見えてくるのは、「虫」という言葉が持つ古代の多義性である。それは単なる昆虫を指すのではなく、農作物を荒らす害虫、人々の身体を蝕む疫病、そして精神的な不調までをも包含する、漠然とした災厄の総称であった。大己貴命が体外の病を、少彦名命が体内の病を治すという対の神格は、人智を超えた脅威に対し、総合的な対処を願う古代の人々の知恵と信仰の形を示している。
越前の大虫神社に伝わるイナゴ退散の伝説と比較すると、丹後の「虫病」はより観念的な広がりを持つ。これは、同じ「虫」という言葉を用いても、それぞれの土地の風土や主要な脅威に応じて、信仰の焦点が異なっていたことを示唆している。しかし、どちらの地域においても、神に祈ることで災厄を乗り越え、平穏な生活を築こうとする人々の根源的な願いは共通している。大江山の麓に鎮座する二つの「虫」の社は、現代に生きる私たちに、見えない脅威と向き合い、それを乗り越えようとした先人たちの具体的な祈りの姿を伝えているのである。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。