2026/6/5
岩槻城から人形のまちへ、水と共に歩んだ歴史

埼玉の岩槻の歴史について教えてほしい。
キュリオす
室町期に築かれた「浮城」岩槻城は、戦国時代の争奪戦を経て江戸時代には日光御成街道の宿場町として発展。人形づくりの技術も水と共に根付き、現代まで受け継がれる岩槻の歴史を辿る。
岩槻の歴史は、まずその象徴ともいえる城から語り始めるのが自然だろう。室町時代後期から戦国時代にかけて築かれた岩槻城は、元荒川を外堀とし、広大な沼地に浮かぶように築かれたことから、「浮城」あるいは「白鶴城」とも称された平山城である。 その築城者については諸説あり、一説には長禄元年(1457年)、扇谷上杉家の家臣である太田道真・道灌父子が、古河公方足利成氏に対抗するために築いたとされる。しかし近年では、文明10年(1478年)に古河公方方の成田正等が築城したとする説も有力視されている。 いずれにせよ、この城が関東の勢力争いの最前線に位置していたことは確かだ。
戦国時代に入ると、岩槻城は扇谷上杉氏と、台頭する後北条氏との間で激しい争奪戦の舞台となる。大永2年(1522年)には太田資頼が岩槻城を奪取し、以後、岩付太田氏の居城となった。 しかし、永禄7年(1564年)には、城主太田資正が留守中に嫡子氏資が北条氏康に内応したことで、城は後北条氏の支配下に移る。 後北条氏にとって岩槻城は、本拠である小田原城に次ぐ関東支配の重要拠点と見なされ、天正5年(1577年)の史料によれば、約5,000人もの軍勢が常駐していたという。 しかし、天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐が始まると、岩槻城も豊臣方の猛攻を受け、わずか3日間で落城した。 この落城をもって、岩槻城を巡る戦乱の時代は終焉を迎えることになる。
豊臣政権下で後北条氏が滅亡し、徳川家康が関東に入部すると、岩槻は新たな時代を迎える。天正18年(1590年)、家康の譜代家臣である高力清長が岩槻城主となり、岩槻藩が立藩された。 これ以降、岩槻藩は江戸の北方を守る要地として、幕府の要職を歴任する譜代大名が城主を務めることとなる。高力氏以降、青山氏、阿部氏、板倉氏、戸田氏、松平(藤井)氏、小笠原氏、永井氏、そして大岡氏と、実に多くの大名家が頻繁に入れ替わった記録が残されている。 例えば、阿部正次は大坂城代を務め、その後を継いだ阿部重次も老中に就任している。 この藩主の頻繁な交代は、岩槻が江戸近郊の重要拠点であり、幕府が信頼を置く大名を配する必要があったことを物語っている。
江戸時代を通じて、岩槻は城下町としての発展に加え、江戸と日光を結ぶ「日光御成街道」の宿場町としても大いに賑わった。 この街道は、歴代将軍が日光東照宮へ社参する際に利用した特別な道であり、岩槻宿は将軍が宿泊する唯一の宿場であった。 将軍の行列が通る際には厳重な警備が敷かれ、沿道の人々は不自由を強いられることもあったというエピソードも残る。 城下町では、城主阿部正春の時代、寛文5年(1665年)に「時の鐘」が鋳造され、城下に時刻を告げた。 この時の鐘は、享保5年(1720年)に改鋳され、現在も一日三回、その音色を響かせている。 こうした歴史的建造物は、城下町と宿場町が一体となって栄えた岩槻の往時の姿を今に伝えている。
岩槻のもう一つの顔である「人形のまち」としての歴史は、江戸時代初期に遡る。その起源には諸説あるものの、最も有力視されているのは、寛永年間(1634年~1647年)に行われた日光東照宮の造営・修築との関連である。 全国から集められた優れた工匠たちが、日光御成街道の最初の宿場町であった岩槻に滞在したり、そのまま住み着いたりしたことが、人形づくりの技術が根付くきっかけになったという。
人形づくりには、木材や糊、そして胡粉(ごふん)と呼ばれる顔料が不可欠である。岩槻とその周辺には、人形の頭に使う桐の良質な産地であり、胡粉の発色に適した水も豊富にあった。 これらの自然条件と、宮大工たちがもたらした高度な木工技術や彩色技術が結びつき、岩槻ならではの人形文化が花開いたのだ。特に、桐のおがくずと正麩糊、そして岩槻の水を混ぜて作る「桐塑頭(とうそがしら)」の技法は、この地特有の工芸として受け継がれた。 幕末には、岩槻藩の専売品に指定されるほど重要な産業となり、その生産技術と品質は高く評価された。 他の主要な人形産地と比較すると、例えば鴻巣宿(埼玉県鴻巣市)などでも古くから人形づくりが行われていたが、岩槻ではひな人形や五月人形といった節句人形だけでなく、舞踏人形や市松人形など多様な種類の人形が作られてきた点が特徴的である。 これは、江戸という巨大な消費地に近い地理的優位性と、様々な技術を持つ工匠が集積したことが、多角的な発展を促した結果だろう。
明治時代に入り、廃藩置県によって岩槻藩は岩槻県となり、後に埼玉県へと編入された。 一時期は、岩槻に埼玉県の初代県庁が置かれたものの、後に浦和へ移転している。 城としての役割を終えた岩槻城は廃城となり、多くの建物は取り壊されたが、一部の門や土塁、空堀などの遺構は、現在の岩槻城址公園内に残されている。 公園内の朱塗りの八ツ橋は、かつて沼地に囲まれた城の姿を偲ばせる象徴となっている。
現代の岩槻は、さいたま市を構成する10区の一つ「岩槻区」として、その歴史的遺産を大切にしながら発展を続けている。 2020年には、人形をテーマとした日本初の公立博物館である「さいたま市岩槻人形博物館」が開館し、この地の豊かな人形文化を国内外に発信している。 また、江戸時代から続く「時の鐘」は、今も変わらず一日三回、城下町に時を告げ、人々の暮らしに寄り添っている。 かつて将軍が宿泊した日光御成街道は、現代の国道122号「岩槻街道」として、交通の要衝としての役割を受け継いでいる。 城址公園や人形博物館、そして街道沿いに点在する歴史的建造物は、訪れる人々に岩槻の長い歴史を体感させてくれるだろう。
岩槻の歴史を辿ると、そこには常に「水」の存在があったことが見えてくる。広大な沼地に築かれた「浮城」としての岩槻城は、防御上の利点をもたらす一方で、その後の町の発展にも影響を与えた。また、人形づくりにおいて、胡粉の発色を良くする水が豊富であったことも、この地が「人形のまち」として栄える重要な要因となった。
戦国の争乱期には要衝として、江戸時代には太平の世を支える宿場町・城下町として、そして現代には伝統工芸を育むまちとして、岩槻は時代の変遷の中でその姿を変えてきた。多くの藩主が入れ替わった激動の時代を経て、人形づくりという穏やかな産業が根付いた背景には、この土地が持つ地理的条件と、そこに集まった人々の知恵と技術があった。岩槻の歴史は、一見すると対照的な「城」と「人形」という二つの要素が、実は同じ土地の条件と時間の流れの中で育まれ、互いに影響し合ってきたことを教えてくれる。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。