2026/6/5
巴波川の舟運と街道が育んだ栃木の蔵の街

栃木の蔵の街遊覧船について詳しく教えて欲しい。どのように栄えた場所なのか?
キュリオす
栃木市は巴波川の舟運と日光例幣使街道の陸運が交差する立地から商業都市として発展した。江戸との交易で蓄えられた富は、防火性に優れた蔵造りの街並みを形成し、現代までその景観を伝えている。
栃木市が商業都市として発展を遂げた背景には、巴波川の舟運と日光例幣使街道の陸運という二つの交通網が交差する立地が大きく影響している。江戸時代初期の元和3年(1617年)、徳川家康の霊柩が久能山から日光山へ改葬された際、その御用荷物が巴波川の栃木河岸に陸揚げされたことが、この地の舟運の始まりとされている。 これを契機に、巴波川は江戸と栃木を結ぶ重要な水運路として利用されるようになる。
巴波川は利根川水系へと繋がり、江戸との間で木材や米、塩、海産物、肥料、日用品などが盛んに運ばれた。特に江戸方面からは塩や油、海産物などが運ばれ、栃木からは麻、米、石灰などが集積されて江戸へ送られたという。これにより栃木は北関東有数の問屋町として繁栄し、川沿いには多くの舟積問屋や豪商が軒を連ねた。「入舟町」「湊町」といった地名が今に残るのは、当時の活況を伝える証左である。
寛永13年(1636年)には日光東照宮への例幣使街道が整備され、栃木宿はその主要な宿場町となる。京都から日光東照宮へ派遣される朝廷の使者(例幣使)が通るこの街道は、年に一度の例幣使の通行だけでなく、日光参詣や商業往来にも重要な役割を果たした。舟運と街道という二つの流通網が交差したことで、栃木は物資の集散地として、また人と文化が行き交う拠点として、その商業的地位を確立していった。
栃木が「蔵の街」として繁栄した要因は、舟運と陸運という交通の利便性だけでなく、そこに集積された富と、それを守るための知恵にあった。江戸時代中期以降、栃木は単なる中継地ではなく、独自の商業文化を発展させていく。豪商たちは江戸の文化を積極的に取り入れ、「小江戸」と称されるにふさわしい洗練された都市文化を育んだのだ。
巴波川の舟運は、下りは順調でも上りには多大な労力を要した。船を綱で引いて遡航するための綱手道が両岸に設けられていたという記録もある。こうした手間をかけてでも、江戸との交易は莫大な利益を生み出し、商人たちは財力を蓄えていった。当時の主な運送荷物は、江戸からの上り荷が塩、砂糖、干鰯などの肥料や生活必需品であり、栃木からの下り荷は麻、綿、たばこ、藍などの特産品や米であった。広範な後背地から集められたこれらの生産物が、加工されることなく輸送され、やがて栃木で商品化されて市場へ送られた。この過程で商人や問屋が介在し、需要の増大と商品流通の進展が、栃木を商都へと押し上げたのである。
土蔵造りの建物が普及した背景には、防火対策という切実な理由があった。江戸時代、町屋の密集に伴い大火が頻発したため、享保年間には一般庶民にも土蔵造りが奨励されるようになった。栃木でも弘化3年(1846年)以降、わずか18年の間に4度もの大火に見舞われた記録が残る。これらの経験から、防火性に優れた蔵造りの建物が急速に増えていったと考えられる。現在、栃木市中心部には約400棟の蔵造り建物が現存し、特に大通りには129棟が残る。その多くは江戸時代と明治時代に築造されたもので、当時の商人たちの財力と、それを火災から守ろうとした堅実な姿勢を今に伝えている。見世蔵と呼ばれる、店舗と住居を兼ねた重厚な蔵も多く、商人たちの商売に対する熱意と文化的な素養の高さを示すものと言える。
栃木市は川越、佐原と並んで「小江戸」と称されることがある。これらの地域は、江戸との舟運によって栄え、蔵造りの街並みが残り、江戸文化の影響を受けた山車祭りがあるという共通点を持つ。しかし、それぞれの街が持つ歴史的背景と地理的条件によって、その繁栄の様相は異なる。
例えば、埼玉県川越市は、江戸から北に位置し、新河岸川や荒川を利用した舟運で栄えた。城下町としての性格も強く、江戸時代には川越藩の城下町として発展した歴史を持つ。一番街に重厚な蔵造りの建物が軒を連ねる景観は、防火対策としてだけでなく、商家の格式を示すものでもあった。千葉県香取市佐原は、利根川水運の要衝として栄え、「お江戸見たけりゃ佐原へござれ、佐原本町江戸まさり」と唄われるほどの賑わいを見せた。小野川沿いに広がる町並みは、柳の木が揺れる水郷の情緒を色濃く残している。伊能忠敬が30年あまり暮らした旧宅が保存されていることでも知られる。
一方、栃木市は、巴波川の舟運に加え、日光例幣使街道の宿場町という陸運の拠点でもあった点が特徴的である。川越や佐原が主に水運に特化して発展したのに対し、栃木は水陸両方の交通網の恩恵を享受し、物資の集散地として、より広範囲な役割を担っていたと言える。また、巴波川は川幅が狭く、上流への遡行には部賀舟や都賀船と呼ばれる小型の舟が用いられた。大型の高瀬舟が利根川などで使われたのに対し、栃木の舟運はよりきめ細やかな物流システムであったことがうかがえる。これらの違いは、各地域の地理的条件と、江戸との関係性、そしてその土地の商人たちが築き上げた独自の商慣習が複合的に作用した結果だろう。
現代の栃木市では、かつての舟運の歴史を体験できる「蔵の街遊覧船」が巴波川を運航している。都賀船や部賀船と呼ばれる小舟に乗り込み、船頭が竿を使って操船する。船頭は「栃木河岸船頭唄」を披露しながら、栃木市や巴波川の歴史、地域にまつわる物語を案内してくれる。約20分間の船旅は、川面から白壁の土蔵や重厚な見世蔵が並ぶ街並みを眺めることができ、当時の繁栄を偲ばせる。
しかし、歴史的町並みの維持には課題も存在する。かつては生活排水の流入やゴミの不法投棄により、巴波川の水質汚濁が深刻化した時期もあった。しかし、鯉の放流や整備事業を通して水質改善が図られ、今では美観の一部を構成するまでになっている。また、高度経済成長期にはアーケード設置や再開発により、多くの土蔵が姿を消す危機に直面したが、昭和末期からは景観整備事業が本格化している。電線の地中化や修景ガイドラインの策定などが進められ、町並みは「栃木市歴史的町並み景観形成地区」として都市景観100選に選出された。
現在、栃木市は官民連携のまちづくり組織を設立し、中心市街地の将来像を示す「未来ビジョン」を策定している。歴史的資源を活用した集客エリアの形成や、アクセス・周遊性の向上、歩きたくなる環境づくりなどが基本方針とされ、2030年には年間観光客数100万人を目指す。空き店舗や空き蔵の活用促進、移住・創業支援なども進められ、歴史と現代が融合した新たな「蔵の街とちぎ」の姿を模索している。
栃木の蔵の街遊覧船に乗って巴波川を進むと、水面が映し出すのは、単なる過去の遺産ではない。そこには、水運という自然の力を最大限に活用し、陸路との連携によって独自の経済圏を築き上げた人々の営みが重層的に現れている。川幅が狭く、高瀬舟のような大型船ではなく、より小回りの利く都賀船や部賀船が用いられた事実は、この地の商人が、限られた条件の中でいかに効率的な物流システムを構築したかを示している。
「小江戸」と称される他の街と比較すると、栃木が舟運と街道という二つの交通軸を併せ持っていたことは、単なる物資輸送に留まらない、文化的な交流の深さをも示唆する。江戸から運ばれた様々な商品や情報が、この地で陸路へと引き継がれ、北関東へと広がっていった。そして、その交易によって蓄えられた富が、火災から財産を守るための蔵造りという堅牢な建築様式を生み出し、今日の景観を形作ったのである。
遊覧船の船頭が語る「栃木河岸船頭唄」は、単なる歌ではない。それは、かつてこの川を行き交った人々が、日々の労働の中で紡ぎ出した生活の音であり、この街の繁栄を支えた無数の名もなき人々の存在を今に伝える声でもある。川面を滑る舟の上から見上げる蔵の壁は、それぞれの時代を生き抜いた商人たちの堅実さと、この土地が持つ歴史の奥行きを、静かに語りかけてくるだろう。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。