2026/6/27
なぜ滋賀は古代から日本の歴史の節目に顔を出すのか

滋賀県の歴史について詳しく教えて欲しい。古代から平安時代まで。
キュリオす
滋賀県(近江国)は、琵琶湖を中心とした地理的条件から、古代から都との関係が深く、大津宮遷都や紫香楽宮造営、比叡山延暦寺の開創など、日本の歴史の転換点に度々登場した。その役割と背景を辿る。
湖水に映る遠い記憶
琵琶湖の湖面は、時に鏡のように空を映し、時に風に揺れて遠い過去の出来事を水底に沈めているように見える。滋賀県、かつての近江国は、この巨大な湖を中心に、古代から日本の歴史の重要な舞台となってきた。畿内に隣接しながらも、独自の文化と政治的な位置を確立してきたこの地は、都の変遷や権力闘争、そして新たな思想の誕生に深く関わってきた。なぜ近江が、これほどまでに日本の歴史の節目に顔を出すのか。その問いを抱きながら、湖と山に囲まれたこの地の古代から平安時代までの歩みをたどってみる。
大和と近江、そして「近江令」の影
滋賀の地で旧石器時代のナイフ形石器や石槍が見つかっていることからも、この地には古くから狩猟を生業とする人々が暮らしていたことがわかる。縄文時代には琵琶湖とその周辺の山々で木の実や動物、魚介類を食料とし、土器を使って生活していた痕跡が確認されているのだ。弥生時代には北部九州から伝わった稲作文化が広がり、高地性集落も出現する。古墳時代に入ると、4世紀ごろには大和地方を中心にヤマト政権が形成され、近江にも地域の首長の古墳が築かれ始めた。滋賀県内最大の古墳密集地域である大津北郊古墳群には、2,000基以上の古墳が存在するとも言われる。
古代の近江国が歴史の表舞台に立つのは、7世紀後半、飛鳥時代後期のことだ。西暦645年に始まった「大化の改新」は、蘇我氏の滅亡を契機に中大兄皇子(後の天智天皇)と中臣鎌足によって推進された一連の国政改革である。 この改革は、豪族中心の政治から天皇中心の政治へと転換を図るもので、公地公民制の導入や国・郡・里の地方行政区画の整備などが掲げられた。
そして西暦667年、中大兄皇子は飛鳥岡本宮から近江の大津に都を遷した。これが「近江大津宮」である。 遷都の背景には、4年前の白村江の戦いでの大敗があった。 唐・新羅連合軍による日本本土への侵攻の危機が現実味を帯びる中、中大兄皇子は、天然の要害でありながら陸上・湖上交通の要衝でもある大津を、国防の拠点と見定めたとされている。 大津宮では、日本で最初の全国的な戸籍とされる「庚午年籍」の作成 や、日本初の水時計「漏刻」の設置による時報制度の開始 など、律令国家の基礎を築く画期的な事業が推進された。また、日本最初の法律とされる「近江令」が施行されたとも言われるが、その実在性については諸説ある。
しかし、この近江大津宮はわずか5年余りの短命な都に終わる。 西暦671年、天智天皇が崩御すると、翌672年には天智天皇の子である大友皇子と、天智天皇の弟である大海人皇子(後の天武天皇)との間で皇位継承をめぐる「壬申の乱」が勃発する。 大津宮を拠点とした近江朝廷側は、瀬田橋での激戦の末に敗れ、大友皇子は自害。 都は再び飛鳥へと戻された。 わずかな期間ではあったが、近江大津宮で推進された天智天皇の施策は、その後の律令国家の形成に大きな影響を与えたと評価されている。
幻の都と大仏造立の夢
壬申の乱の後、都は再び飛鳥に戻され、その後は平城京、難波宮へと移り変わるが、近江の地は再び都として脚光を浴びる時期が訪れる。奈良時代中期の聖武天皇の時代である。政情不安や社会の混乱が続く中、仏教への信仰を深めていた聖武天皇は、都を転々とさせることになる。
西暦740年(天平12年)の藤原広嗣の乱の後、聖武天皇は恭仁京(現在の京都府木津川市)に遷都し、さらに西暦742年(天平14年)には近江国甲賀郡紫香楽村(現在の滋賀県甲賀市信楽町)に離宮を造営し、しばしば行幸した。これが「紫香楽宮」である。 翌743年(天平15年)10月、聖武天皇は紫香楽の地で盧舎那仏(大仏)の造立を発願する。 これは恭仁京を唐の洛陽に見立て、龍門石窟の盧舎那仏を紫香楽で再現しようとしたものとみられている。 大仏造立の計画が進む中で、恭仁宮の造営は中止され、紫香楽宮の造営がさらに加速した。
西暦744年(天平16年)には宮名が「信楽宮」(続日本紀では「紫香楽宮」)から「甲賀宮」へと変化し、 11月には甲賀寺で大仏の骨組みとなる体骨柱が立てられる儀式が行われた。 そして西暦745年(天平17年)正月元旦、紫香楽宮は「新京」と呼ばれ、宮殿の門前に大楯と槍が立てられ、名実ともに正式な都となった。 しかし、この「幻の都」はわずか4ヶ月で幕を閉じる。 紫香楽宮や甲賀寺周辺で山火事が頻発し、美濃国(現在の岐阜県)で起きた大地震の余震が相次ぐなど、天災が重なったのだ。 人臣の賛同も得られなかったとされ、同年5月には平城京へと戻ることになった。 甲賀寺での盧舎那仏の計画は、後に奈良の東大寺盧舎那仏像として完成されることになる。
この短期間の遷都は、聖武天皇の強い仏教信仰と、当時の政情不安が複合的に絡み合った結果と言えるだろう。都の造営と大仏造立という大規模な国家事業を短期間で転換させた背景には、天皇の理想と現実との乖離、そして自然災害がもたらす人々の動揺があった。
琵琶湖の水運と都を支える近江
近江国が日本の歴史において重要な役割を担った背景には、琵琶湖がもたらす地理的条件が大きく関わっている。琵琶湖は古くから畿内と北国を結ぶ水上交通の要衝であった。 日本海側で陸揚げされた物資は、敦賀から深坂峠を越えて塩津港へ運ばれ、そこから船で琵琶湖を南下し、大津や堅田で陸揚げされて京都や大坂へと運ばれた。 この「上り荷」にはニシンや海藻類、生魚などが含まれ、逆に「下り荷」として綿や飴、醤油などが運ばれた。 琵琶湖の水運は、単なる物流だけでなく、政治的・軍事的にも重要視され、多くの武将たちがその水上権を掌握しようと試みた。 中世には「堅田衆」と呼ばれる勢力が水運を掌握し、時には海賊まがいの活動も行っていたという。
また、近江は都の造営を支える「木材供給基地」としての役割も果たした。 平城京や東大寺、石山寺などの大規模な宮都や寺院の建設には大量の木材が必要とされ、近江周辺の田上、甲賀、高島には木材を伐り出す「杣(そま)」とその拠点となる「山作所」が置かれた。 琵琶湖や瀬田川を通じて、伐採された木材が都へと運ばれたのだ。 当時、近江は日本最大かつ最先端の林業地であったと言える。 しかし、大規模建築に必要な大径木は長期的な成長を要するため、良質な木材が枯渇すると杣はより奥地へと移転していった。
さらに、古代の近江国では製鉄業も盛んに行われていた。 県内各地で製鉄遺跡が確認されており、伊吹山麓や高時川流域、比良山東麓などで多くの製鉄遺跡が見つかっている。 これらの産業は、都の文化を支える基盤となっていた。琵琶湖という広大な水域と、それを囲む豊かな山々、そして都に近いという地理的条件が、近江を単なる地方ではなく、国家の運営にとって不可欠な存在へと押し上げたのだ。
比叡山延暦寺と日本仏教の「母山」
平安時代に入ると、近江の地は新たな仏教文化の中心地となる。その象徴が、滋賀県と京都府の県境にそびえる比叡山に開かれた「延暦寺」である。 延暦7年(788年)、伝教大師最澄が比叡山に草庵「一乗止観院」を建て、薬師如来を本尊として祀ったのが延暦寺の始まりとされる。 最澄は近江国滋賀郡の出身で、12歳で出家し、21歳で比叡山に入った。 その後、桓武天皇の援助を受けて唐に渡り、天台教学や密教を学んで帰国した。
最澄は「すべての人が仏になれる」と説く法華経の教えに基づき、日本全土を大乗仏教の国にすることを目指した。 延暦寺という寺号は最澄の没後、弘仁14年(823年)に嵯峨天皇から許されたものだ。 延暦寺は単独の堂宇ではなく、比叡山全体に広がる東塔、西塔、横川の三つの区域に150ほどの堂塔が建ち並ぶ総称である。 最盛期には3,000を超える寺社があったとも言われる。
延暦寺は、日本仏教の歴史において特異な存在となる。法然、親鸞、日蓮、道元、栄西、一遍といった鎌倉新仏教の祖師たちの多くが、若き日にこの比叡山で学び、修行を積んだ。 このため、比叡山延暦寺は「日本仏教の母山」と称されるようになったのだ。 平安時代後期には、延暦寺の僧兵が強大な軍事力を持ち、「強訴」によって時の権力者に自らの主張を無理やり通すこともあった。 白河法皇が意のままにならないものとして「三不如意」の一つに数えたほどである。 延暦寺は、単なる信仰の場にとどまらず、政治・経済・文化に大きな影響力を持つ一大勢力へと発展していった。
国府の営みと古代の行政
古代の近江国には、都から派遣された国司が治める「国府」が置かれていた。現在の滋賀県大津市瀬田地区に位置する近江国庁跡は、奈良時代中期から平安時代前半(8世紀中ごろ~10世紀後半)にかけて、約200年間にわたり近江国を統治する役所として機能していた。 この遺跡は、約50年前に団地建設工事中に発見され、全国で初めて国庁の全容が明らかになった貴重な例となった。
国庁は築地塀で囲まれた内郭と外郭の二重構造を持ち、内郭には国守が座す正殿、その後ろに控えの間である後殿、そして郡役所の長官らが着座する長大な脇殿が配置されていた。 これらの建物で囲まれた空間は、儀式を行う朝庭を構成していた。 国庁の南東約500mには大型倉庫群である惣山遺跡が、南門跡から約300mの地点には国司館の可能性も考えられる青江遺跡が位置し、国庁と一体となって機能した施設群を形成していた。 国府は、国庁だけでなく、周辺の施設、役人の家、市場などを含めた広範な市街地を指し、近江国府には末端の下級役人や雑役に従事する者まで含めると、700〜800人もの人々が働いていたと推定されている。
ここで行われていたのは、徴税、裁判、軍事といった現在の県庁、警察署、裁判所、税務署の役割を兼ねた地方行政であり、都との連絡も担っていた。 近江国庁跡からは、瓦積基壇の建物跡や、文書行政に必要な硯、墨書土器などが多数出土しており、当時の地方行政の実態を具体的に示している。 国庁の周辺には、鎮護国家を願う寺や神社も設置され、これらの施設が集中する地域が「国府」と呼ばれたのだ。 近江国府の存在は、律令国家の地方統治の仕組みを理解する上で重要な手がかりとなっている。
湖畔に刻まれた歴史の重層
古代から平安時代にかけての近江国の歴史をたどると、そこには常に「都」との関係が見えてくる。天智天皇の大津宮、聖武天皇の紫香楽宮、そして比叡山延暦寺。これらはいずれも、政治の中心や思想の拠点として、都と密接に結びつきながら、あるいは都から独立した独自の文化圏を築きながら発展してきた。
琵琶湖という巨大な内水面は、畿内に隣接する地の利を最大限に活かす交通路であり、豊かな山々は都の造営を支える資源であった。しかし、その地理的優位性は、同時に政治的争いの舞台ともなり、壬申の乱や聖武天皇の頻繁な遷都に見られるように、権力の中枢が近江へと移されるたびに、人々に大きな負担と混乱をもたらした側面もある。
比叡山延暦寺が「日本仏教の母山」として、多くの宗派の祖師を輩出したことは、近江の地が単なる地理的な要衝に留まらず、精神的な求道の場としても特別な意味を持っていたことを示している。都の文化を吸収し、時に独自の解釈を加えて発展させることで、近江は自らの存在感を確立していった。湖畔に立つとき、目の前に広がる穏やかな水面の下には、幾度となく都が移り変わり、大仏造立の夢が描かれ、そして多くの僧侶が修行に励んだ、重層的な歴史が静かに息づいている。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
参考
- shiga.lg.jppref.shiga.lg.jp
- 大化の改新 - Wikipediaja.wikipedia.org
- 【歴史】大化の改新と白村江の戦い - 家庭教師のやる気アシストyaruki-assist.com
- 大化改新(たいかのかいしん)とは? 意味や使い方 - コトバンクkotobank.jp
- 大津京と大津宮/大津市city.otsu.lg.jp
- 天智天皇と大津京 史跡と伝承|近江神宮oumijingu.org
- 天智天皇が遷都した近江大津宮 | WEB歴史街道|人間を知り、時代を知るrekishikaido.php.co.jp
- 近江大津宮 - Wikipediaja.wikipedia.org