2026/7/16
祇園祭の弓矢町はなぜ神輿を先導するのか?弓野町との職能の違いとは?

祇園祭の弓矢町の役割について詳しく教えて欲しい。弓野町の歴史についても教えて欲しい。
キュリオす
祇園祭の神輿渡御で弓矢町が担う役割と、その起源である犬神人の歴史を辿る。弓弦製造と魔除けの鳴弦、そして職人の町・弓野町との対比から、中世京都の職能集団の姿を明らかにする。
喧騒の裏側に潜む弓の気配
祇園祭の熱気が最高潮に達する七月、多くの観光客の視線は四条通を埋め尽くす巨大な山鉾に向けられる。豪華絢爛な「動く美術館」が都の大路をゆく姿は、たしかにこの祭りの華である。だが、山鉾巡行が終わり、夕闇が迫る頃に始まる「神輿渡御(みこしとぎょ)」こそが、八坂神社の神霊が町を浄める神事の核心であることを知る人は、案外少ない。その神輿の列を先導し、かつては「法師武者」として、今は「弓矢組」として供奉する人々がいる。東山区の松原通を拠点とする「弓矢町」の住人たちだ。
彼らの役割は、単なる行列の彩りではない。神輿が通る道を清め、魔を退けるための実戦的な警護をその起源としている。町の名に冠された「弓矢」という言葉は、かつてこの地に住んだ人々が弓弦の製造を生業とし、同時に神事の守護者であった歴史を今に伝えている。また、京都にはもう一つ「弓」の名を持つ町がある。上京区の「弓野町」だ。
東山の弓矢町と、御所北の弓野町。片方は神に仕える武者として弓を携え、もう一方は将軍家に仕える職人として弓を打った。同じ「弓」を背負いながら、その役割は京都という都市の構造の中で対照的な位置を占めている。なぜ、祇園祭の神輿の前には、武器であるはずの弓矢を掲げる町衆が必要だったのか。そして、職人の町である弓野町とは何が違ったのか。その境界線を探ると、華やかな祭りの裏側に凍結された、中世京都の生々しい職能集団の姿が浮かび上がってくる。
六道の辻と犬神人の清め
弓矢町が位置するのは、京都市東山区、建仁寺の南側に広がる松原通沿いである。かつての五条大橋(現在の松原橋)から清水寺へと続くこの道は、平安時代から中世にかけて、現世と冥界の境界とされた「六道の辻」を含む霊的な要所であった。この地に「弓矢町」の名が定着したのは江戸時代のことだが、そのルーツはさらに数百年、鎌倉時代から室町時代へと遡る。
この町を支えてきたのは、古くは「犬神人(いぬじにん)」と呼ばれた人々である。彼らは八坂神社(当時は祇園社)に属する下級神職でありながら、同時に特殊な職能を持つ集団であった。主な役目は神社の清掃や警護、そして神事の際の雑役である。特に祇園会の神輿渡御においては、神輿の先頭に立って「清目(きよめ)」を行う重要な役割を担っていた。彼らが「弓矢」と結びついたのは、その生業が弓弦(ゆづる)の製造であったためといわれている。
中世、弓矢町周辺の人々は、鹿の皮を加工して弓弦や和沓(わぐつ)を作り、それを都の市中で売り歩いた。その際、「弦召そう(つるめそう)」という独特の掛け声を上げたことから、彼ら自身も「弦召(つるめそ)」という異名で呼ばれるようになった。弓弦は単なる武器の部品ではない。弦を弾いて音を出す「鳴弦(めいげん)」は、古来より魔を祓う呪術的な力を持つと信じられてきた。神幸祭で彼らが弓を携えて神輿を先導するのは、実体的な警備以上に、音と象徴によって道を浄める宗教的な必然性があったのである。
また、この地は歴史的に「六波羅」と呼ばれる武士の拠点でもあった。平清盛の邸宅が軒を連ね、後に鎌倉幕府の出先機関である六波羅探題が置かれた場所である。弓矢町の人々は、こうした武家権力とも接点を持ちながら、神社奉仕者としての特権的な地位を維持してきた。国宝「上杉本洛中洛外図屏風」には、柿渋色の衣に白い頭巾を巻き、神輿を先導する「六人の棒衆」の姿が描かれているが、これが弓矢町の前身である犬神人たちの姿だとされている。彼らは単なる町衆ではなく、神の軍勢として、あるいは都市の清掃者として、京都という空間を維持するための実務的な歯車であった。
五十年の時を経て復活した武者行列
祇園祭の歴史を紐解くと、弓矢町はかつて「弓矢山」という山を出していたという記録がある。一五世紀、応仁の乱後の祭礼再興を記した『明応九年祇園会山鉾巡行記』などには、その名が見て取れる。しかし、この山は江戸時代初期にはすでに姿を消していた。山鉾として巡行する形態から、神輿渡御に供奉する「武者行列」へとその役割が純化していったためだろうか。
江戸時代、弓矢町の住人たちは総勢九〇人近くにものぼる大規模な武者行列を組織し、神幸祭・還幸祭の両日にわたって神輿を警固した。彼らは自前で鎧兜を揃え、法師武者の姿で都を練り歩いた。この伝統は、明治維新という巨大な変革期にも形を変えて生き残る。一八七二年(明治五年)、神仏分離によって八坂神社の組織が再編されると、犬神人としての身分は消滅したが、町衆は「弓矢組」として新たに結束し、神事への奉仕を継続したのである。
だが、この伝統の維持には多大な困難が伴った。本物の鉄で作られた重厚な鎧兜は、一領を修復するだけでも莫大な費用がかかる。また、高度経済成長期以降の都市化による人口減少と高齢化が、行列を維持するための人手を奪っていった。一九七四年(昭和四十九年)を最後に、弓矢町の武者行列はついに途絶えることになる。以降の半世紀、町の人々は行列に代えて、町会所である「弓箭閣(きゅうせんかく)」や個人宅で所蔵する鎧兜を一般公開する「武具飾り」を行うことで、その記憶を繋ぎ止めてきた。
転機が訪れたのは、二〇二〇年代に入ってからである。八坂神社の氏子組織や地域住民の間で、祭りの核心である神輿渡御の威厳を取り戻そうという機運が高まった。寄付金によって傷んでいた鎧兜や鞍が修復され、二〇二五年、ついに五一年の時を経て「弓矢組武者神役」が復活した。乗馬した大将と甲冑姿の武者たちが、再び神輿の先頭に立つ姿は、単なる懐古趣味ではない。それは、自分たちが何者であり、この土地で何を担ってきたのかという、町衆のアイデンティティの再確認でもあった。
御弓師と弓弦売りの職能対比
ここで、もう一つの「弓」の町、上京区の弓野町に目を向けてみたい。今出川通烏丸西入ルに位置するこの町は、弓矢町とは全く異なる歴史の地層を持っている。弓野町は、かつて室町幕府の足利将軍家に仕えた「御弓師(おんゆみし)」たちが集まった職人街であった。
弓野町と弓矢町の決定的な違いは、その「弓」の用途と主体にある。上京の弓野町は、文字通り弓というプロダクトを製造するプロフェッショナル、すなわち「弓打ち」の集落であった。室町時代、京都には弓の製作を司る「弓座」が形成され、弓野町はその拠点の一つとなった。彼らが作る弓は、武士が戦場で使う実用品であり、あるいは武芸としての弓術に供される精緻な道具であった。現在、京都で唯一の御弓師として知られる「柴田勘十郎」家も、その系譜を引いている。柴田家は天文三年(一五三四年)にまで遡る歴史を持ち、かつては弓野町周辺で活動していた。
一方、東山の弓矢町が扱ったのは、主に「弓弦」と「神事の奉仕」である。弓矢町の人々は、弓本体を作る職人というよりは、弓を完成させるための消耗品である弦を供給し、それを用いて神域を浄める「行為」を担う集団であった。上京の弓野町が「武の道具」を極めたのに対し、東山の弓矢町は「神の武器」を管理したといえる。
この対比は、京都の「上(かみ)」と「下(しも)」の構造を象徴している。御所や将軍邸に近い上京は、権力者に直属する高度な技術集団(職人)が集まる場所であった。対して、鴨川の東、葬送の地である鳥辺野に近い東山は、世俗の秩序からはみ出した「清め」や「祈り」を司る人々が住まう場所であった。弓野町が技術によって権力に仕えたのに対し、弓矢町は呪術と奉仕によって神に仕えた。同じ「弓」を看板に掲げながら、一方は産業としての弓を、もう一方は信仰としての弓を守り続けてきたのである。
弓箭閣に受け継がれる甲冑の重み
現在の弓矢町を歩くと、そこがかつて九〇人もの武装した男たちが飛び出してきた町であるとは想像しにくいほど、静かな住宅街が広がっている。建仁寺の広大な境内を背にし、松原通には古い京町家が点在する。だが、細い路地に入れば、かつての「坂の者」たちが暮らした都市構造の断片が今も息づいている。
町の中央に建つ「弓箭閣」は、この町の誇りの象徴である。土蔵の中には、江戸時代から明治にかけて使われた一四領の鎧兜が大切に保管されている。これらは、かつて町衆が一人一領を自前で所有していた名残である。祇園祭の期間中に行われる「武具飾り」では、これらの甲冑が各家の軒先に並べられる。それは、博物館の展示ケース越しに見る美術品とは異なり、今も生活の場に「武」が同居しているという独特の緊張感を醸し出す。
弓矢町の人々が守っているのは、単なる古い道具ではない。それは、都市を浄めるという「職能」の記憶である。現代において、神輿を警固する必要性は物理的には存在しないかもしれない。しかし、祭りの本質が「疫病退散」という目に見えない脅威との戦いである以上、その先頭に立つのは、やはり「弓矢」を背負った者たちでなければならないという確信が、この町には流れている。
近年の復活劇を支えたのは、かつての武者行列を知る高齢者から、新たにこの町に加わった若い世代までの協力であった。二〇二五年の復活祭では、軽量化された複製品の兜を使いつつも、その誇り高い心構えは往時のものを引き継いでいた。町の人々は、寄付を募り、史料を読み解き、自分たちの先祖がどのような姿で都を歩いたのかを丹念に再現した。そこにあるのは、観光客に見せるためのパフォーマンスではなく、土地の記憶を絶やさないための、執念に近い情熱である。
儀具へと変容した武器の記憶
弓矢町と弓野町、この二つの町を巡る旅で見えてくるのは、京都という都市が持つ「職能による町割り」の凄みである。かつて弓は、人を殺めるための最も強力な武器であった。しかし、京都の長い歴史の中で、その武器は二つの異なる方向へと変容を遂げた。
一つは、弓野町に象徴される「道」への昇華である。戦場での武器としての役割を終えた弓は、弓道という精神修養の道具となり、御弓師の手によって、機能美を極めた工芸品へと進化した。そこでは、弓は自分自身と向き合うための鏡となった。
もう一つは、弓矢町に象徴される「祭」への凍結である。ここでは、弓は魔を祓うための儀具となり、それを携えて歩く行為そのものが神聖な職能として保存された。弓矢町の人々が自前で鎧兜を持ち続けたのは、彼らが「神の軍勢」であることを証明するためのライセンスのようなものだったのだろう。武器が実戦から離れた後も、その「力」の記憶だけが、特定の土地と血筋に紐付けられたまま、祭礼という形で現在にまで届けられたのである。
祇園祭の神輿が四条御旅所(しじょおたびしょ)へと向かう際、その先頭を行く弓矢組の姿を眺めるとき、私たちは中世京都の生々しい息遣いを感じることができる。それは、単に着飾った町衆の行列ではない。かつてこの都の境界を守り、清掃し、神の道を切り拓いてきた「犬神人」たちの誇りが、弓矢という形を借りて、今もそこにあるのだ。武器は儀具となり、職能は伝統となった。一四領の鎧兜が守られてきた松原通の路地の奥、武具が飾られた町家の空気には、今もなお、都を浄めんとする鋭い緊張感が静かに漂っている。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
参考
- 都市史09 六波羅www2.city.kyoto.lg.jp
- 知られざる祇園祭 弓矢町武具飾 ~武者行列の復興に向けて~ - Kyoto Love. Kyoto 伝えたい京都、知りたい京都。kyotolove.kyoto
- 〈祇園祭2025〉「弓矢組武者神役」51年ぶり復活、祇園祭がつなぐ地域の絆 | ハンケイ京都新聞hankei500.kyoto-np.jp
- wixsite.comyumiyachobugu.wixsite.com
- 祇園祭 7月15日~16日 弓矢町武具飾り - 京都観光のすゝめkyoto-tourism-reccomend.com
- 神輿渡御を先導する武者行列~半世紀ぶりに復活!2025祇園祭~yoritomo-japan.com
- 和婚ファンコラム - 祇園祭2025 弓矢組・武者神役wakonfan.jp
- 共創共生「京都・弓の道」篇|テレビCM|CM・広告ギャラリー|大和ハウス工業daiwahouse.co.jp