2026/6/5
川越で「川越茶」を見かけるのはなぜ?狭山茶との関係を辿る

川越に行くと狭山茶の横にこれでもかと川越茶という文字を見かけるが、川越でもお茶を作っているのか?
キュリオす
川越では「川越茶」という文字を多く見かけるが、これは平安時代にまで遡る茶栽培の歴史に由来する。一度は衰退したものの、江戸時代以降に「狭山茶」の源流となり、現代では「河越抹茶」として復興活動が進められている。
川越における茶の栽培は、平安時代初期にまで遡ると伝えられている。天長7年(830年)、天台宗の僧である円仁(慈覚大師)が京都から茶の実を携え、当時武蔵河越の中心的な寺院であった無量寿寺(現在の喜多院・中院)の境内に薬用として栽培を始めたのが起源とされる。これは、茶が日本に伝来して間もない時期のことであり、京都の宇治などと並び、武蔵国河越が「天下の茶所」として名を挙げられるようになる礎を築いた。南北朝時代に書かれた『異制庭訓往来』には、栂尾や宇治といった名だたる産地と並んで「武蔵河越茶」の名が記されていることからも、当時の評価の高さが窺える。
しかし、戦国時代の動乱期に入ると、無量寿寺が戦火に巻き込まれるなど、有力寺院や武士団の衰退と共に、河越茶の栽培も一時的に下火になったとされる。 その後、江戸時代初期には川越藩主の松平信綱が、領内の新田開発を進める中で茶などの換金作物の植栽を奨励した。また、後の藩主である柳沢吉保は、三富新田の開発において、軽くて風で飛散しやすい赤土の畔に茶を植えることで、土壌流出を防ぐ役割も持たせたという。 このように、一度は途絶えかけた茶の栽培が、実用的な目的も兼ねて再びこの地に根を下ろしていった。これらの動きが、やがて「狭山茶」として知られる茶のルーツを形成していくことになる。
狭山茶は、埼玉県西部の入間市、狭山市、所沢市を中心とする狭山丘陵地域が主産地として知られているが、その起源をたどると「河越茶」にたどり着く。 明治時代に入り、横浜港の開港に伴い茶が重要な輸出品となると、武蔵野台地一帯で広く栽培されていた茶は、輸出を目的として「狭山茶」の名称に統一された経緯がある。 当初は横浜港への集散地名から「八王子茶」とも呼ばれた時期もあったが、1876年に直輸出会社「狭山会社」が設立されると、最初に茶作りが始まった場所の呼び名である「狭山茶」へと統一が進んだのだ。
狭山茶の特徴は、「色は静岡、香りは宇治よ、味は狭山でとどめさす」という歌にも謳われるように、濃厚な味わいにある。 これは、茶の栽培地の経済的北限に近いという埼玉県の地理的条件が深く関係している。 寒い冬を乗り越えることで、茶葉は肉厚になり、旨味成分が凝縮されるためだ。また、「狭山火入」と呼ばれる独特の仕上げ技術も、その深い味わいと香ばしさを生み出す要因となっている。 この「火入れ」とは、茶の乾燥を十分に行い貯蔵性を高めるとともに、加熱によって独特の香気を生成させる工程を指す。この手間をかけた製法が、狭山茶の個性を際立たせている。
日本における茶の主要産地は静岡や京都の宇治などが挙げられるが、埼玉県はこれらと比べて地理的に北に位置し、茶栽培の経済的な北限とされている。この寒冷な気候が、狭山茶、ひいては川越で育つ茶の品質に決定的な影響を与えている。一般的に、茶は温暖な気候を好む作物だが、埼玉県のような寒さの厳しい地域では、茶の木は自らを守るために養分を蓄え、葉を肉厚にする。この肉厚な葉が、狭山茶特有の濃厚な旨味と甘みを生み出すのだ。
また、他の主要産地と比較して、狭山茶は「自園・自製・自販」という生産形態をとる農家が多いことも特徴である。 これは、茶葉の栽培から加工、そして販売までを一貫して行うことで、生産者自身が茶の品質にこだわり、消費者の声を聞きながら味や風味を追求できる利点がある。静岡や宇治が大規模な生産と流通システムを確立しているのに対し、狭山茶は個々の農家が独自の技術と情熱をもって茶づくりに励む、地域に根差した産業構造を保ってきたと言えるだろう。摘採回数が年2回と、他の温暖な産地に比べて少ないことも、茶葉に養分を蓄えさせる一因となっている。
現在、川越市内には少数の茶農家が茶の栽培と製造を続けている。例えば、100年以上の歴史を持つ小野文製茶のような生産者が、川越市下赤坂などで茶葉を育てているのだ。 彼らは、魚かすなどの有機肥料を使い土づくりに手間をかけ、摘み取った茶葉はその日のうちに蒸す工程まで終えるなど、伝統的な製法と品質へのこだわりを継承している。
近年では、「河越茶Rebornプロジェクト」と称し、NPO法人「河越抹茶の会」が中心となって、かつての銘茶「河越茶」の復興活動にも力を入れている。 旧河越領内(川越、狭山、所沢など埼玉県西部地域)で栽培された茶葉を使用し、関東では唯一の碾茶(抹茶の原料となる茶葉)工場である「狭山碾茶工房 明日香」と連携することで、高品質な「河越抹茶」の安定供給を目指している。 この活動は、地域団体商標として「河越抹茶」を登録し、ブランド管理を徹底することで、川越の新たな特産品としての地位を確立しようとしている。川越の観光地としての魅力を背景に、河越抹茶を使用したスイーツや飲み物も開発され、その存在感を増している。
川越で「川越茶」あるいは「河越茶」という文字を見かけることは、単に地元の土産物を指すだけではない。そこには、平安時代にまで遡る茶の栽培の歴史があり、一度は衰退しながらも、江戸時代の新田開発や明治時代のブランド統一を経て、現在の「狭山茶」の源流を形成してきたという、重層的な物語が秘められている。
「河越抹茶の会」による現代の復興活動は、この歴史的な連続性を現代に再接続しようとする試みと言えるだろう。茶の栽培が地理的北限に位置するという厳しい条件が、かえって茶葉の風味を凝縮させ、独自の「狭山火入」という製法を生み出す土壌となった。川越の茶は、全国的な知名度こそ他の産地に譲るものの、その土地の風土と人々の工夫が織りなす、確かな歴史と個性を持った産物である。それは、目に見える観光資源の陰に隠れがちだが、この地を訪れる者が、その土地の深淵に触れるための、静かな手がかりとなるだろう。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。