2026/6/5
群馬県太田市、荘園から工業都市への歴史

群馬の太田の歴史について詳しく教えて欲しい。
キュリオす
群馬県太田市は、新田荘の荘園から始まり、戦国時代の金山城、江戸時代の宿場町を経て、近代には中島飛行機、そして現代のSUBARUを中心とした工業都市へと変貌を遂げました。土地の地理的条件と人々の営みが、その多様な歴史を形作っています。
群馬県太田市を訪れると、街路のそこかしこに自動車産業の息吹を感じる。整然と並ぶ工場群や、街のシンボルとしての「SUBARU」の存在は、現代の太田の顔を明確に形作っている。しかし、その現代的な産業都市の背後には、はるかに古く、そして幾重にも重なった歴史の層が横たわっているのだ。なぜこの土地が、古代の荘園から戦国の要害、そして近代の航空機産業、さらに現代の自動車産業へと、多様な変遷を遂げてきたのか。その問いは、利根川と渡良瀬川に挟まれた平坦な地形、そして北西にそびえる金山という地理的条件と、そこに生きた人々の選択に答えを求めることになるだろう。
太田の歴史は、遥か平安時代末期にまで遡る。この地はかつて「新田荘(にったのしょう)」と呼ばれた広大な荘園の中心であった。天仁元年(1108年)の浅間山大噴火による荒廃の後、源義重がこの地を開墾し、保元2年(1157年)に19郷を寄進した功績によって下司職に任ぜられたことが、新田荘の成立とされる。その後、新田荘は新田郡のほぼ全域に拡大していった。新田氏は鎌倉時代末期には新田義貞を輩出し、彼が元弘3年(1333年)に生品神社で挙兵し、鎌倉幕府を滅ぼしたことはよく知られている。新田氏の一族は、新田荘の各地に館を構え、それぞれの郷村名を名乗って支配を行った。新田氏の庶流からは、後に徳川家康がその祖と称した世良田氏も現れている。
新田氏が没落した後、戦国時代に入ると、この地の支配を巡って新たな動きが活発になる。その象徴が、太田市北部にそびえる金山(標高239m)に築かれた金山城である。文明元年(1469年)、新田氏の後裔である岩松家純の命により築城が始まったとされる。金山城は独立丘陵の地形を巧みに利用した山城で、高い石垣や堀切、土塁といった防御施設が随所に施されていた。岩松氏から下剋上によって横瀬氏(後に由良氏と改姓)が城主となり、その時代に全盛期を迎える。上杉謙信や武田勝頼といった有力な戦国大名から十数回にわたる攻撃を受けたものの、約120年間一度も落城しなかったという記録が残されている。 しかし、天正18年(1590年)、豊臣秀吉による小田原征伐で北条氏が敗れると、その支配下にあった金山城も廃城となり、この地の戦乱の時代は幕を閉じた。
江戸時代に入ると、太田の地は新たな役割を担うことになる。中山道の倉賀野宿から分岐し、日光東照宮へと向かう「日光例幣使街道」の宿場町、「太田宿」として栄えたのだ。太田宿は、江戸時代には大光院の門前町としても発達し、近郷近在の中心地として機能した。 文政10年(1827年)には、太田町組合50ヶ村(近郷含め73ヵ村)の寄場村として、地域経済的にも行政的にも中心地としての地位を確立していく。 宿場町として、旅籠が並び、人や物の往来が活発になることで、商業が発展する基盤が築かれた。
明治時代に入り、宿場制度が廃止されると、太田は一時的に人口2,500人程度の小さな在郷町となる。しかし、明治11年には新田郡役所が設置され、明治22年には町制が施行された。さらに明治30年には太田中学校(現太田高校)が開校し、明治42年には東武鉄道が開通するなど、着実な近代化の道を歩み始める。 この時期の太田は、交通網の整備と行政・教育機関の集積により、再び地域の中核としての存在感を強めていった。宿場町としての歴史が、後の交通の要衝としての発展に繋がる伏線となったと言えるだろう。
太田の運命を決定的に変えたのは、大正時代に始まった航空機産業の勃興である。大正6年(1917年)5月、元海軍機関大尉であった中島知久平が、自身の故郷である群馬県新田郡尾島町(現在の太田市の一部)の養蚕農家の借家に「飛行機研究所」を設立したのがその端緒である。 翌年には太田町に移転し、本格的な飛行機の研究・製造を開始。当初は苦難の連続であったが、大正8年(1919年)には中島式四型六号機が尾島の空を飛び、その性能を世に知らしめた。
その後、中島飛行機は陸海軍からの大量受注を受け、飛躍的な発展を遂げる。第二次世界大戦終戦時には、東洋最大、世界有数の航空機メーカーへと成長し、太田は「飛行機の町」として広く知られるようになった。 しかし、終戦によって軍需産業は解体され、中島飛行機もGHQによって分割を命じられる。この危機を乗り越え、同社の技術者たちはリヤカーや自転車の生産から再出発を図り、昭和21年(1946年)にはラビットスクーターを完成させる。 そして、昭和28年(1953年)に中島飛行機の流れを汲む12社のうち5社が出資し、富士重工業(現在のSUBARU)が発足。 航空機で培った技術は、自動車産業へと転用され、太田は高度経済成長期に、富士重工業を中心とする工業都市へと変貌を遂げたのである。
このような内陸の地に大工場が集積した背景には、戦前の計画的な都市整備があった。1935年(昭和10年)には太田町が都市計画法の適用を申請し、中島飛行機の工場拡張に伴う交通系統の整備や区画整理が進められた。 大恐慌下の失業救済策として行われた都市計画的耕地整理事業も、道路や河川の改修・新設を進め、後の工業発展の基盤を形成したと言えるだろう。
現代の太田市は、SUBARUの企業城下町として、その経済と文化を色濃く反映している。SUBARU群馬製作所の本工場や矢島工場、大泉工場が集中しており、周辺には関連メーカーも多く集積している。 2020年(令和2年)の工業製品出荷額は約2兆9865億円に達し、全国でも有数の工業都市としての地位を確立している。 特に輸送用機器の割合が製造品出荷額等の7割を超え、SUBARUを核とした自動車産業の集積地である。
太田市とSUBARUの関係は深く、本工場の所在地は2001年に正式に「スバル町」と命名されたほどだ。 工場の敷地以外に住民はいないが、これは「スバルの町、太田」を広くアピールし、市民と企業の一体感を高める狙いがあったという。 市内にはスバルの歴史や歴代のクルマを紹介する「スバルビジターセンター」も設けられており、多くのファンが訪れる観光スポットにもなっている。
市制施行は昭和23年(1948年)5月で、その後周辺町村との合併を繰り返して市域を拡大してきた。特に平成17年(2005年)3月には、旧太田市と新田郡藪塚本町、尾島町、新田町が合併し、現在の太田市が誕生している。 この合併によって、人口は約22万人となり、群馬県内では高崎市、前橋市に次ぐ3番目の人口規模を持つ都市となった。
太田の歴史をたどると、一つの土地が時代ごとに異なる役割を担い、そのたびに姿を変えてきたことが見えてくる。新田荘という広大な荘園から、戦国の難攻不落の山城、そして江戸時代の宿場町、さらに近代の航空機産業と現代の自動車産業の中心地へと、その変遷は劇的である。
注目すべきは、それぞれの時代の発展が、必ずしも過去を完全に消し去るのではなく、むしろ積み重なるようにして現在の太田を形作っている点だろう。金山城跡は今も山中にその痕跡を残し、新田荘の記憶は新田氏ゆかりの寺社や資料館に息づいている。 また、宿場町としての交通の要衝という地理的条件が、後の鉄道や高速道路の整備、そして工業集積へと繋がっていった側面も看過できない。内陸でありながら大規模な工業都市へと発展した背景には、戦前からの計画的な都市基盤整備と、中島知久平という一人の人物の先見の明があった。
太田の歴史は、土地の持つ潜在力と、それを見出し活用した人々の営み、そして時代の大きな流れが複雑に絡み合い、都市の多様な顔を形成していく過程を示している。現代の工業都市としての顔の奥には、武士の時代や宿場町の賑わい、そして飛行機が空を舞った記憶が、確かに息づいているのだ。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。