2026/7/6
なぜ鎌倉・室町幕府は自前の通貨を作らず、宋銭・明銭に依存したのか?

鎌倉・室町時代に、幕府が自前の通貨を作らなかったのはなぜか?あるいは作れなかったのか?宋銭や明銭に依存していたのはなぜか?
キュリオす
鎌倉・室町時代、日本は670年以上にわたり自前の通貨を発行せず、中国の渡来銭に依存していた。その背景には、皇朝銭の失敗による通貨への不信、輸入の方が安上がりという経済的合理性、そして貿易を通じた「分散型」通貨システムがあった。
埋められた三十七万枚の問い
北海道函館市の志苔館(しのりたて)跡から、三つの大きな甕(かめ)が見つかったのは一九六八年のことだ。中から溢れ出したのは、およそ三十七万四千枚もの銅銭だった。これほどの規模の備蓄銭は国内最大級だが、その中身を改めて眺めると、ある奇妙な事実に突き当たる。それらはほぼすべて、中国の王朝が鋳造した「宋銭」を中心とする渡来銭だったのである。
日本人はかつて、自前の通貨を作っていた。七〇八年の「和同開珎」に始まり、九五八年の「乾元大宝」に至るまで、朝廷は二百五十年の間に十二種類もの銅銭(皇朝十二銭)を世に送り出している。ところが、この乾元大宝を最後に、日本国内での公的な貨幣鋳造は突如として途絶える。それから江戸幕府が「寛永通宝」を安定供給し始める一六三六年に至るまで、実に六百七十余年もの間、日本という国家は自前の通貨を一枚も発行しなかった。
鎌倉幕府も、室町幕府も、強力な武力と統治機構を持ちながら、なぜか「通貨の発行」という国家の根幹に関わる権利を手放したままにしていた。教科書的には「中国からの輸入銭で足りていたから」と説明されるが、一国の経済を他国の鋳造ペースや貿易事情に丸ごと委ねるというのは、現代の感覚からすれば極めて危ういギャンブルに見える。
なぜ、中世の権力者たちは自前で銭を打とうとしなかったのか。あるいは、打てなかったのか。かつてあれほど熱心に「和同開珎」を宣伝した国家が、なぜこれほど長い沈黙を選んだのだろうか。その理由は、単なる技術不足や資源の枯渇といった物理的な問題だけでは説明がつかない。
信用が剥落したあとの二百年
皇朝十二銭がなぜ失敗したのかを振り返ると、中世の権力者が抱いた「通貨への不信」の根源が見えてくる。初期の和同開珎こそ、米や布に代わる便利な道具として歓迎されたが、その後、朝廷は財政難を埋めるために禁じ手を選んだ。新しい銭を出すたびに、旧銭の価値を一方的に切り下げ、混ぜ物を増やして品質を落としていったのである。
最後期の「乾元大宝」に至っては、もはや銅というよりは鉛の塊に近く、大きさも初期の半分程度にまで痩せ細っていた。当然、市場の信頼は地に落ちる。人々は政府が保証する「額面」を信じなくなり、銭を「ただの汚い金属片」として忌避するようになった。十世紀末には、銭貨は実体経済からほぼ姿を消し、日本は再び米や絹を交換媒体とする「物品貨幣」の時代へと逆戻りする。
この「銭のない時代」は、その後二百年ほど続く。注目すべきは、この空白期間に人々の意識が「国家の保証する記号(額面)」から「素材そのものの価値(実物)」へと完全にシフトしたことだ。米は食べられるし、絹は服になる。それ自体に価値があるからこそ、裏付けのない金属片よりも信頼された。
この不信の土壌に、突如として大量の「宋銭」が流れ込んできたのが十二世紀後半のことである。平清盛が日宋貿易を強力に推進し、大輪田泊(現在の神戸港)を整備して中国から銅銭を組織的に輸入し始めた。朝廷は当初、「他国の怪しげな銭を使ってはならない」と禁止令を出したが、市場の熱狂は止められなかった。一度銭の便利さを知った人々にとって、宋銭はかつての劣悪な国産銭とは比較にならないほど精巧で、何より「銅としての質」が安定していた。
ここで、日本の中世経済を規定する決定的な「枠組み」が成立する。それは、貨幣とは国家が価値を保証するものではなく、海を越えてやってくる「信頼できる輸入品(コモディティ)」である、という認識だ。鎌倉幕府が成立したとき、すでに市場は宋銭という「外貨」によって回っており、幕府はその現状を追認する形で統治を始めざるを得なかったのである。
輸入するほうが安上がりという合理性
鎌倉・室町幕府が自前で通貨を作らなかった理由として、近年強調されているのが「経済的合理性」だ。当時の日本にとって、銭は作るよりも輸入するほうが圧倒的に「安上がり」だったのである。
日本は当時、世界有数の銅産出国であったが、それを精錬して型に流し込み、文字を刻んで銭に仕上げるには膨大な燃料と高度な技術、そして組織的な品質管理が必要になる。一方で、中国(宋や明)はすでに世界最大の通貨工場として、数億枚規模の銅銭を機械的に生産するシステムを確立していた。
日本は原材料である「荒銅(あらがね)」や、砂金、硫黄などを中国へ輸出し、その対価として、すでに完成された「銭」を輸入した。これは現代で言えば、原油を輸出して精製ガソリンを輸入するような構造に近い。国内に複雑な加工ラインを抱えるコストを払うより、安価で良質な既製品を貿易で手に入れるほうが、当時の幕府にとっては合理的だった。
また、通貨の発行には「信用の担保」という重いコストが伴う。もし幕府が独自の銭を鋳造したとしても、それが宋銭と同じ価値であると市場に認めさせるには、強力な法執行力と、偽造を許さない技術的優位性を示し続けなければならない。かつての朝廷が皇朝十二銭で失敗したように、一度でも「幕府の銭は質が悪い」という噂が立てば、経済は即座に麻痺する。
それに対し、宋銭や明銭は「中国という巨大帝国のブランド」を背負っていた。たとえ中国で王朝が交代したとしても、その銭に含まれる銅の含有量が変わらない限り、日本の市場では価値を持ち続けた。幕府からすれば、通貨発行というリスクの大きい事業に手を出さずとも、貿易の蛇口を管理し、市場での流通ルール(撰銭令など)を定めるだけで、十分に経済をコントロールできたのである。
つまり、中世の幕府は「通貨の発行者」ではなく「通貨の管理者(レギュレーター)」としての地位を選んだといえる。これは主権国家が通貨発行権を独占する現代の常識とは異なるが、貿易によって安定した通貨供給が得られる環境下では、極めて現実的な選択であった。
統制された江戸、放任された中世
この中世の「通貨輸入システム」がどれほど特殊なものであったかは、後の江戸時代や、同時期の他地域と比較するとより鮮明になる。
一六三六年に江戸幕府が「寛永通宝」を発行し、渡来銭の使用を禁じたとき、それは単なる経済政策ではなく、徳川の権威を全国に知らしめる政治的デモンストレーションでもあった。江戸幕府は佐渡や足尾などの主要な銅山を直轄地(天領)として完全に掌握し、鋳造所である「銭座」を厳格に管理した。国家が資源と技術、そして流通のすべてを独占して初めて、国産通貨の統一は成し遂げられたのである。
翻って鎌倉・室町幕府を見ると、彼らは鉱山を直接支配するだけの集権的な力を持っていなかった。各地の銅山は在地領主や寺社が個別に管理しており、幕府がそこから組織的に銅を吸い上げ、規格化された銭を作る体制を整えるのは困難だった。
また、同時期の中国(元や明)では、国家が積極的に紙幣(宝鈔)を発行し、銅銭の使用を制限しようと試みていた。しかし、これらの紙幣はしばしば乱発によるハイパーインフレを引き起こし、民衆の信用を失った。皮肉なことに、中国国内で「使い勝手の悪いもの」として溢れ出した銅銭が、貿易船に乗って日本へと流れ込み、皮肉にも日本経済を支える基盤となったのである。
ヨーロッパに目を向ければ、多くの都市国家や領主が独自の紋章を刻んだコインを競って鋳造していた。これは「鋳造利得(シニョリッジ)」という、地金の価値よりも高い額面で流通させることで得られる利益を狙ったものだ。しかし、中世日本においては、人々が銭を「地金価値」で厳しく評価していたため、国家が額面を上乗せして利益を得る余地がほとんどなかった。
「自前で作っても儲からず、資源のコントロールも難しく、輸入したほうが質が良い」。この三重苦が、中世日本の「通貨発行権の放棄」という、世界的に見ても珍しい空白期間を生み出したのである。
「選ばれる銭」と市場の混乱
しかし、この「他力本願」なシステムは、十五世紀後半になると深刻な副作用をもたらし始める。中国の明王朝が海禁政策(私的な貿易の禁止)を強化し、銅銭の鋳造そのものを停止したことで、日本への「良貨」の供給が途絶えたのだ。
市場に新しい銭が入ってこなくなると、人々は手元にある古びた宋銭や、文字の潰れた明銭を使い回すしかなくなる。さらに悪いことに、供給不足を補うようにして、日本国内の各地で勝手に銭を鋳造する「私鋳銭(しちゅうせん)」が横行し始めた。これらは「鐚銭(びたせん)」と呼ばれ、本物に比べて薄く、脆く、錫や鉛が多く混ざった劣悪なものだった。
ここから、中世日本特有の「撰銭(えりぜに)」という現象が激化する。商取引の際、受け取り手が銭を一枚一枚吟味し、「これは本物だから一文でいいが、この鐚銭は質が悪いから二枚で一文、あるいは受け取り拒否だ」と選別し始めたのだ。
室町幕府や戦国大名は、この混乱を収めるために「撰銭令」を乱発した。その内容は「極端に悪い銭以外は拒否してはならない」とか「精銭(良貨)一に対し、鐚銭は二の比率で混ぜて使え」といった、流通を維持するための苦肉の策である。
驚くべきは、この時代、偽金作り(私鋳)そのものが必ずしも重罪ではなかった点だ。幕府に通貨を発行する能力がない以上、民間が勝手に作る銭であっても、それが市場で一定の価値を持って流通している限り、経済を回すための「必要悪」として黙認されていた節がある。
この時期の日本人は、もはや「誰が作ったか」ではなく、「その金属片が市場でどれほどの購買力を持つか」という一点のみで通貨を判断していた。国家という後ろ盾を失った通貨が、市場の参加者たちの相互監視と合意によってのみ辛うじて価値を維持している。それは、ある種の「野生の金融市場」とも呼べる光景だった。
貿易という名の「分散型」システム
中世の日本が自前で通貨を作らなかったのは、決して「怠慢」や「無能」の結果ではない。むしろ、当時の社会構造と東アジアの交易環境に最適化した、極めて合理的な選択の結果であった。
当時の日本にとって、通貨とは「国家が国民に与えるもの」ではなく、「貿易を通じて世界から獲得するもの」であった。この認識の転換こそが、中世という時代の本質を突いている。幕府は通貨の価値をゼロから創出するのではなく、既存の宋銭や明銭という「国際標準」の波に乗り、その流れが滞らないように調整する役割に徹した。
これは、中央集権的な国家モデルから見れば「未熟」に映るかもしれないが、別の視点で見れば、特定の権力に依存しない「分散型」の通貨システムが機能していたとも言える。中国の王朝が滅びても、日本の幕府が政変で揺らいでも、海を越えてきた銅銭そのものの価値は変わらない。人々はその実体的な価値を信じることで、国家の寿命よりも長いスパンで経済を継続させることができた。
三十七万枚もの宋銭を甕に詰めて埋めた志苔館の主は、何を思ってその穴を掘ったのだろうか。そこにあったのは、時の将軍への忠誠心でも、日本の国力への信頼でもない。ただ、荒波を越えて運ばれてきた「銅という名の確かな価値」への、静かな信頼だったのではないだろうか。
江戸時代に入り、徳川家康が金・銀・銅の三貨制度を整え、通貨発行権を完全に掌握したことで、この「野生の通貨」の時代は幕を閉じる。しかし、自前の通貨を持たなかった六百七十年間こそが、日本人が「国家がなくても経済は回る」という、最もドライでタフな教訓を学んだ時代だったのかもしれない。

コストが安かったのと、信用創造が十分にできなかったからか。たしかに。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
参考
- 【歴史小話】貨幣の話(2)|不二考匠note.com
- kyushu-u.ac.jpcatalog.lib.kyushu-u.ac.jp
- 日本の中世期、なぜ貨幣をつくらなかったのですか。鎌倉・室町幕府は国内で... - Yahoo!知恵袋detail.chiebukuro.yahoo.co.jp
- 野澤道生の日本史ノート解説 コラム 頂いた質問から(23)『中世の日本が貨幣を発行しなかった理由』nozawanote.g1.xrea.com
- 撰銭令/ホームメイトtouken-world.jp
- 【撰銭令とは】わかりやすく解説!!なぜ行われた?目的や内容・影響など | 日本史事典.com|受験生のための日本史ポータルサイトnihonsi-jiten.com
- 日本貨幣史 本文 - 貨幣博物館imes.boj.or.jp
- 中世の貨幣/名古屋刀剣博物館・名古屋刀剣ワールドmeihaku.jp