2026/6/27
鈴鹿関からシャープ工場まで、亀山はなぜ常に境界に立ち続けたのか

三重の亀山の歴史について詳しく教えて欲しい
キュリオす
古代の鈴鹿関から城下町、宿場町、鉄道の要衝、そしてシャープの液晶工場まで、亀山は常に地理的・交通的・産業的な境界に位置し、その役割を変えながら発展してきた。その歴史的変遷と現代の姿を辿る。
鈴鹿の関から城下町へ
亀山の歴史は、古代にまで遡る。大和朝廷が畿内防衛のために設置したとされる「古代三関」の一つ、鈴鹿関がこの地に置かれたことが、その後の発展の礎となった。越前愛発関、美濃不破関とともに、都と東国を結ぶ重要な交通路の要衝としての役割を担ってきたのである。
鎌倉時代に入ると、この地を拠点とする武士が現れる。文永二年(1265年)、伊勢平氏の流れを汲む御家人・関実忠が、若山(現在の亀山市若山町)に最初の亀山城を築いたのがその始まりとされる。関氏はここを本拠とし、約300年以上にわたりこの地を治めることになる。しかし、戦国の世の到来とともに、その支配は揺らぐ。関氏16代当主・関盛信の時代、元亀四年(1573年)には織田信長の伊勢侵攻により亀山城は一時的に落城した。信長にとって、亀山は東海道と伊勢を結ぶ戦略的な要衝であり、その支配は天下統一への重要な足がかりだったのだ。
天正十八年(1590年)には、豊臣秀吉の命を受けた岡本良勝が亀山城の大規模な改修に着手した。本丸に加えて二の丸、三の丸を拡張し、天守も築かれるなど、近世城郭としての姿が整えられていった。この時の改修はあまりに大規模であったため、実質的な築城年をこの時とする見方もあるほどだ。一説には、秀吉自身が縄張り(設計)を行ったとする伝承も残されている。
江戸時代に入ると、亀山城は伊勢亀山藩の藩主の居城となり、東海道の要衝としてその重要性を増していく。ただし、初期には藩主が頻繁に入れ替わる不安定な時期が続いた。松平氏、板倉氏、石川氏など、譜代大名が次々と城主を務めている。この時期には、ある逸話が伝えられている。関ヶ原の戦いの後、徳川家康は丹波亀山城(現在の京都府亀岡市)の天守解体を堀尾忠晴に命じたが、忠晴が誤って伊勢亀山城の天守を取り壊してしまったというのだ。この間違いによって天守を失った亀山城は、寛永九年(1632年)頃に天守台に多聞櫓が築造され、これが以降の城の象徴となった。
幕府にとっても亀山城は重要な拠点であった。徳川家康、秀忠、家光といった歴代将軍が京都へ上洛する際に、本丸が休泊所として利用された記録も残る。このような中央からの重視は、城の維持管理や城下町の整備を促し、地域の発展に寄与したと考えられる。延享元年(1744年)、石川総慶が六万石の亀山藩主として入封してからは、明治維新までの126年間、石川氏が代々この地を治めることとなる。この長期間の安定が、城下町と宿場町が一体となった亀山の独自の発展を支えることになった。
城下町と宿場町、二つの顔が織りなす発展
亀山が特異な発展を遂げた背景には、複数の要因が複雑に絡み合っている。その最も根源的な要素は、やはりその地理的条件にあるだろう。鈴鹿山脈が東西を遮る天然の障壁となる中で、鈴鹿峠は古くから近畿と東国を結ぶ主要な交通路であった。この峠は西側が緩やかで東側が急峻という地形的特徴を持ち、旅人にとっては箱根と並ぶ難所とされた。この難所を越えるため、わずか十数キロの間に坂下宿、関宿、そして亀山宿という三つの宿場が連続して置かれたのだ。亀山は、この交通の要衝たる東海道の宿場町であると同時に、亀山城を擁する城下町という二つの顔を持っていたことが、その後の発展を決定づけることになる。
城下町としての亀山は、藩の行政と軍事の中心であり、武士の居住地が明確に区画されていた。藩主や家臣団が住むことで、城下には一定の人口と消費が生まれ、経済的な基盤が形成された。歴代の城主たちは、城郭の整備に加えて、城下町の整備や治水事業にも力を入れ、交通の利便性と経済的な発展を両立させようとした。特に、東海道の要衝である亀山宿やその先の関宿を支配下に置く上で、亀山城の存在は不可欠であった。城が栄えることは、そのまま地域の平穏と繁栄に直結していたのである。
一方、宿場町としての亀山宿は、東海道を往来する旅人や物資の重要な中継地点であった。参勤交代の大名行列や伊勢参りの人々が行き交い、問屋場では人足や馬の継ぎ立てが行われ、街道沿いには旅籠や商店、職人の住居が軒を連ねた。城下町であることで、宿場町としての機能も安定し、また宿場町としての賑わいが城下町の経済を活性化させるという、相互補完的な関係が築かれていたのだ。
また、藩の殖産興業政策も亀山の発展を後押しした。江戸時代末期、藩主・石川総禄の時代(1853年~1862年)には、茶業が奨励され、藩内の茶園が増加したと記録されている。亀山は年間平均気温15度以上、年間降水量1,500ミリ以上という茶の栽培に適した温暖な丘陵地帯に位置しており、古くから茶どころとして知られていた。この伝統的な産業は、明治以降も地域の重要な経済活動として引き継がれていく。
明治時代に入ると、亀山は新たな交通の要衝としての役割を担うことになる。明治二十三年(1890年)に関西鉄道が開通し、亀山駅が設置されたことで、鉄道交通の拠点へと変貌を遂げた。その後、国鉄時代には参宮線の起点となり、関西本線の名古屋・大阪の中間地点として機関区や操車場が置かれ、鉄道交通の要所としての地位を確立した。これにより、亀山はかつての街道の要衝から、鉄道による物流と人の流れの中心へと、その役割を大きく転換させていったのである。この鉄道網の発展は、地域の産業構造にも影響を与え、製糸場や製茶業といった新たな産業が興隆する土台となった。
宿場町の記憶と工業都市の現実
東海道五十三次の宿場町は、それぞれが異なる歴史を刻んできた。亀山宿を語る上で、隣接する関宿との対比は避けられないだろう。関宿は、亀山宿の東に位置する東海道四十七番目の宿場町で、東西約1.8キロメートルにわたる街道沿いに、江戸時代から明治時代にかけて建てられた約200軒もの古い町屋が今も現存している。その歴史的な町並みは、昭和五十九年(1984年)に国の「重要伝統的建造物群保存地区」に選定され、多くの観光客を惹きつけている。中山道の馬籠宿や妻籠宿、奈良井宿と比べても、その規模と保存状態において際立っていると言われる。
一方、東海道四十六番目の宿場町である亀山宿も、城下町としての側面を併せ持っていた。その規模は約2.5キロメートルと関宿よりも長い区間にわたるが、関宿のような統一された歴史的町並みは残されていない。亀山宿には本陣・脇本陣がそれぞれ一軒しかなく、旅籠も二十一軒と、宿場町としての機能は関宿に比べて小規模だったという。これは、亀山が純粋な宿場町というよりも、城下町としての性格が強かったためだと考えられる。武士の住居である家中屋敷と、商人や職人の住む町人地が明確に区別されており、関宿が商人主体の宿場町として発展したのとは異なる都市構造を持っていたのだ。
この違いは、それぞれの宿場町が明治以降に辿った道のりにも影響を与えている。関宿は、その歴史的町並みを観光資源として積極的に保存・活用する道を選び、電柱の地中化や建物の修景など、二十年近く前から町並み再生の取り組みを続けてきた。結果として、全国から観光客が訪れる魅力的な観光地としての地位を確立している。
対して亀山宿は、明治以降の鉄道交通の発展と、それに続く現代の工業化の波に大きく晒された。明治時代の後期には、旧亀山宿の商店街化が進み、太平洋戦争後には商人の出入りが最も大きくなり、現在の町の形態が形成されていった。これにより、かつての宿場町の面影は徐々に薄れていったのである。しかし、これは亀山が歴史を失ったわけではない。むしろ、時代ごとの要請に応え、その姿を柔軟に変えてきた結果とも言える。街道の要衝から鉄道の要衝へ、そして高速道路網の結節点、さらには最先端産業の拠点へと、その機能は常に変化し続けてきたのだ。
関宿が「過去を保存する」ことで価値を生み出したとすれば、亀山は「過去の上に新たな価値を築き上げる」ことで、その存在意義を保ってきたと言えるかもしれない。両者は同じ東海道の宿場でありながら、異なる選択と運命を辿った、興味深い対比の事例なのである。
移り変わる風景と残された遺構
明治六年(1873年)の廃城令により、亀山城の建造物の多くは失われた。しかし、本丸の高石垣の上に建つ多聞櫓は、寛永九年(1632年)頃に築造された当時の位置のまま残る中核的城郭建築として、三重県下では唯一の遺存例であり、全国的に見ても貴重な存在である。この多聞櫓と石垣が、今も市街地の中心で亀山の歴史を静かに物語っている。城跡は現在「亀山公園」として整備され、市民の憩いの場となっている。
近代以降、亀山は鉄道の町として発展した。JR関西本線と紀勢本線が交わる亀山駅は、かつては蒸気機関車の基地や操車場が置かれるなど、鉄道交通の要衝であった。しかし、昭和四十年代に入り自動車輸送が主流となるにつれて、鉄道による物資輸送の役割は大きく変化していった。
そして二十一世紀に入ると、亀山は再び大きな産業の転換期を迎える。平成十四年(2002年)、シャープが亀山市への進出を発表し、平成十六年(2004年)には大型液晶パネルの一貫生産工場であるシャープ亀山工場が稼働を開始した。この工場で生産された液晶テレビは「世界の亀山モデル」として一世を風靡し、亀山は最先端技術の集積地として世界から注目を集めることになった。シャープが亀山を選んだ理由の一つには、既存の液晶開発・生産拠点である三重工場や天理工場に近く、関連部品工場が集積していたこと、そして高速道路などの交通インフラが整備されていたことが挙げられる。しかし、液晶産業の市況悪化や経営環境の変化により、2012年以降はスマートフォン用ディスプレイが主力となり、テレビ事業は縮小されるなど、その道のりは決して平坦ではなかった。
現代の亀山市では、こうした移り変わる産業の風景の中に、歴史の痕跡を見出すことができる。旧東海道沿いでは、市民有志のボランティアグループ「宿場の賑わい復活一座」が、かつての宿場町を偲ばせる屋号の木札を約400枚掲げる活動を行っている。これは、失われつつある宿場町の記憶を呼び覚まし、地域の個性を再認識しようとする試みである。また、古くから続く亀山茶の生産も、現代の技術を取り入れながら、地域の特産品として受け継がれている。県下最大規模を誇る「中の山パイロット茶園」は、上品で濃厚な味わいの亀山茶の生産拠点となっているのだ。
常に「境界」に立つ町
亀山の歴史を辿る中で見えてくるのは、この土地が常に「境界」に位置し、その中で自らの役割を変化させてきた姿である。古代の鈴鹿関は、畿内と東国の物理的な境界であり、政治的・軍事的な防衛ラインであった。中世から近世にかけては、城下町と宿場町という二つの異なる機能が重なり合う境界の町であった。武士と町人、支配者と旅人、それぞれの文化が交錯する場でもあったと言える。
明治以降の近代化の波は、亀山を交通インフラの境界へと押し出した。街道の要衝から鉄道の要衝へと転換し、東海道と関西・紀勢線が交わる地点となった。現代においても、東名阪自動車道、新名神高速道路、名阪国道などが交差する交通網の結節点であり、日本の東西を結ぶ物流の大動脈の「境界」を形成している。
そして、二十一世紀の産業構造の変化の中では、伝統的なものづくりと最先端のテクノロジーが共存する、ある種の「産業の境界」を体現している。古くからの茶業が続く一方で、かつて「世界の亀山モデル」と呼ばれた液晶工場が立地し、その技術は常に進化を続けている。
亀山が持つ歴史は、単に過去の出来事の羅列ではない。それは、物理的な地形がもたらす必然性と、その中で人々が社会や経済の変動に対応し、自らのあり方を変えてきた過程の記録である。この町が常に「境界」に立ち続けてきたという事実は、変化を恐れず、新たな価値を取り込みながら発展を続けてきた亀山の本質を捉える視点ではないだろうか。多聞櫓が建つ亀山城跡の丘から、シャープ亀山工場が広がる風景を眺めるとき、この土地が持つ静かな熱量を感じ取ることができる。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
参考
- 亀山へのアクセス | 亀山市フィルムコミッション | 亀山市観光協会kameyama-kanko.com
- 【4K動画】1300年以上前からの交通の要衝だった東海道五十三次「関宿」:三重県亀山市関町 | nippon.comnippon.com
- 亀山城の歴史/ホームメイトtouken-collection-kuwana.jp
- 「亀山城跡」~城主たちの物語と、時代を越える祈り~ - ゴールドライフlife.goldage.co.jp
- 亀山城 (伊勢国) - Wikipediaja.wikipedia.org
- 伊勢亀山城|歴史と見どころ 美しい写真で巡る - お城めぐりFANshirofan.com
- kameyamarekihaku.jp
- 亀山藩(かめやまはん)とは? 意味や使い方 - コトバンクkotobank.jp