2026/6/7
滑川のホタルイカと売薬、宿場町としての歴史を辿る

滑川の歴史について詳しく教えて欲しい。
キュリオす
富山湾に面した滑川市は、ホタルイカ漁と売薬業で発展した。江戸時代には北陸街道の宿場町として栄え、年貢米の集積地としても機能した。現代もホタルイカは観光資源として活用され、歴史的景観の保全と新たな賑わい創出が課題となっている。
富山湾に面した滑川の海岸線に立つと、沖合の暗闇が不思議な期待感を誘う。春先の夜、この海に現れるホタルイカの群れは、単なる自然現象を超え、この地の歴史そのものと深く結びついているように感じられる。なぜ、この小さな港町が、特定の時期にのみ現れる光の生物によって、これほどまで語られるようになったのか。その問いは、日本海に開かれたこの地の歩みを紐解く鍵となるだろう。
滑川市は富山県の東部に位置し、早月川と上市川によって形成された複合扇状地の上に広がる。北西側で富山湾に面し、「天然の生簀」と称される豊かな漁場を擁してきた。その歴史は古く、旧石器時代から縄文時代にかけての遺跡が台地上に点在し、数千年前から人々がこの地に暮らしていたことがわかる。奈良時代には越中国守大伴家持が新川郡を巡回し、早月川を短歌に詠んだ記録も残る。
滑川の歴史を語る上で、まず重要なのは中世から近世にかけての変遷である。平安時代から室町時代にかけて、現在の滑川市域は京都の祇園社の荘園「堀江荘」の一部として、穀倉地帯として開発された。戦国時代を経て、豊臣秀吉の天下統一後、新川郡は前田利家の領地となり、滑川は江戸時代を通じて加賀藩主前田氏の支配下に置かれることとなる。
江戸時代に入ると、滑川は北陸街道の宿場町として栄えた。寛永2年(1625年)には大町の綿屋九郎兵衛が藩より「御旅屋」を仰せ付けられ、のちに本陣と定められ藩主の休泊に利用されたという。中心部である大町には旅籠や問屋場が設けられ、東側の吾妻町(当時の東町)には加賀藩の東御蔵所(御台所)として6棟21倉もの米蔵が置かれ、周辺の年貢米が集積された。中川河口の「橋場」は、この年貢米や物資を積み出す港として機能し、物流の拠点として賑わったことが記録されている。
明治時代に入ると、廃藩置県を経て行政区域の再編が繰り返され、明治16年(1883年)には現在の富山県が成立する。この時期、滑川は米の集積地・沖への積み出し港として中新川郡役所や警察が置かれるなど、郡内の政治・経済の中心地として発展した。鉄道の開通も町の発展に大きな影響を与えた。明治39年(1906年)、滑川町長らが上京し、逓信大臣に対し滑川駅の開設を請願した記録がある。その請願書には、当時の滑川が「戸数二千、人口壱万余」を有し、「郡役所、警察署、区裁判所、新聞社、富山県水産講習所、郵便局、米穀検査所、銀行、会社、羽二重製造所等在リ郡内第一殷賑ノ地」であり、「商工業極メテ敏活貨物人衆ノ集散繁激ナル郡内其比ヲ見サル所」と記されている。大正2年(1913年)には立山軽便鉄道(後の富山地方鉄道)の駅が開業し、富山電気鉄道が滑川まで開通した昭和6年(1931年)には国鉄滑川駅との共同駅となった。
滑川の歴史を深く特徴づけるのは、ホタルイカ漁業と売薬業という二つの産業の発展である。ホタルイカと滑川の関わりは古く、天正13年(1585年)頃にはすでに漁獲の記録が残されている。富山湾のホタルイカ群遊海面は、大正11年(1922年)に国の天然記念物、昭和27年(1952年)には「ホタルイカ群遊海面」として国の特別天然記念物に指定された。その中心が滑川沖であり、青白く発光する神秘的な様子が「ホタル」に似ていることから命名されたという。
明治時代後期から、滑川町はホタルイカを観光資源として着目し、観光事業を開始した。明治42年(1909年)には町役場が『二大奇観』という小冊子を編集し、蜃気楼とともにホタルイカを「珍しい眺め」としてアピールした。この冊子は好評を博し、昭和8年(1933年)の第6版まで改訂されたという。昭和9年(1934年)には高月海岸での地曳網漁の様子がラジオで実況放送されるなど、滑川のホタルイカは全国に知られるようになっていった。ホタルイカ漁では現在も定置網が用いられ、奥の捕獲網へ誘導する「わら網」は、ホタルイカが藁を光る壁のように認識する性質を利用したものだという。
一方、滑川は「くすりのまち」としても発展した。富山藩の薬種商から薬の製法を習ったことが、滑川の売薬の始まりとされている。享保18年(1733年)に高月村の高田千右衛門が富山の薬種商松井屋源右衛門から「反魂丹」の製造を習い、「反魂丹屋千右衛門」と名乗って製造販売を開始したのがその起源とされる。その後、反魂丹のほか、熊胆(ゆうたん)を原料とした熊胆丸や実母散、寄応丸なども生産されるようになり、滑川の売薬人たちは全国へと営業範囲を広げていった。嘉永6年(1853年)の記録によれば、滑川の売薬に携わった親方と奉公人を含めた人数は、高月村で140名、滑川町で148名に上り、その盛況ぶりがうかがえる。明治以降も法人化されるなどして業容を拡大し、昭和初期には県下の薬生産額の2割に達するまでに成長した。
滑川の歴史を、他の海辺の町と比較することで、その独自性と普遍性が見えてくる。日本海沿岸には、北前船の寄港地として栄えた港町が数多く存在する。例えば、石川県の輪島や福井県の敦賀なども、廻船問屋が軒を連ね、物資の集散地として発展した歴史を持つ。これらの町と滑川の共通点は、地理的な条件を活かした海上交通の要衝であったことにある。滑川もまた、加賀藩の年貢米の積出港として、また北陸街道の宿場町として、人や物の往来が活発な場所であった。
しかし、滑川が際立つのは、ホタルイカという特異な自然資源を観光の核として確立した点だろう。ホタルイカ漁は兵庫県の浜坂漁港でも盛んだが、富山湾でのホタルイカ漁は定置網が中心であり、漁場から港までの距離が近いため、活きの良い状態で水揚げされる特徴がある。この地理的優位性と、明治期から始まった観光事業への積極的な取り組みが、単なる漁業の町に留まらない滑川の姿を形作った。多くの港町が漁業資源の枯渇や物流の変化によって衰退する中で、自然の恵みを観光という形で再構築した滑川の戦略は、他の地域には見られない特徴と言える。
また、富山湾沿岸には、滑川以外にも売薬業で栄えた地域が存在する。富山市を中心に、水橋、東岩瀬、四方なども売薬商人の出身地として挙げられる。これらの地域が売薬業に従事したのは、北アルプスから流れ下る急流河川による頻繁な洪水や冬場の積雪など、農業だけでは生活が成り立ちにくい地理的・気象的条件があったため、出稼ぎが重要な生活手段となっていた背景がある。滑川の売薬業も同様の理由から発展したと推測されるが、反魂丹の製法を習得し、独自の薬種を開発していった点で、単なる富山売薬の一部に留まらない専門性を確立していったことがうかがえる。
今日の滑川市を訪れると、歴史が育んだ多様な表情が見えてくる。市制施行は昭和29年(1954年)だが、その基盤は明治期の町村合併によって形成された滑川町にある。旧北陸街道沿いには、江戸期の国登録文化財が点在し、古い町並みの景観を活かした店舗が増え、賑わいが生まれつつある。特に「なめりかわ宿場回廊めぐり」として整備された旧街道沿いでは、江戸時代に本陣を務めた桐沢家や、売薬商の商家など、歴史的な建造物を見ることができる。旧宮崎酒造の建屋のように、映画のロケ地にも使われる国登録有形文化財も存在する。
ホタルイカは、今も滑川の観光と産業の大きな柱である。道の駅ウェーブパークなめりかわに併設された「ほたるいかミュージアム」では、ホタルイカの生態や歴史を学べるだけでなく、タッチプールで生きたホタルイカに触れる体験もできる。また、毎年春には「ほたるいか海上観光」が実施され、早朝、観光船に乗って定置網での漁の様子や、ホタルイカの幻想的な発光を間近で観覧できる。この海上観光は、明治時代後期から続く歴史を持つ、滑川独自の取り組みである。
一方で、滑川の漁業は定置網漁業が基幹であり、ホタルイカ漁が漁獲量の約7割を占めるなど、特定の資源への依存度が高い側面もある。近年は岩礁地帯や藻場の減少が進み、アワビやサザエなどの魚介類が減少しているという課題も抱えている。こうした状況に対し、漁協はヒラメやクロダイの種苗放流、藻場回復を目指す活動に取り組んでいる。また、北陸新幹線開業後の交通網の変化や、郊外への宅地開発、大型店の進出などにより、旧市街の賑わいをどう維持・再生していくかという課題も抱えている。中滑川駅周辺では、複合施設「メリカ」のオープンなど、賑わい創出に向けた動きも見られる。
滑川の歴史を振り返ると、この町が常に自然条件と人間の知恵によって形作られてきたことがわかる。富山湾の豊かな漁場、特にホタルイカというユニークな資源。そして、北陸街道という陸路と、中川河口の港という水路が交差する地理的条件。これらの要素が、宿場町としての機能、年貢米の集積地としての役割、さらには売薬業やホタルイカ観光といった独自の産業を生み出してきた。
滑川の歴史は、単に過去の出来事の羅列ではない。それは、海と陸、自然と人間の営みが複雑に絡み合い、変化に対応しながら生き抜いてきた一つの物語である。ホタルイカの群遊海面が特別天然記念物に指定され、その神秘的な光が観光客を惹きつける一方で、古くからの定置網漁は今も続けられている。宿場町の面影を残す街道筋では、かつての繁栄を偲ばせる建物が点在し、新しい息吹も生まれている。滑川の歴史は、こうした過去と現在が織りなす風景の中に、静かに息づいているのだ。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。