2026/6/7
立山と富山湾、古代から平安の越中を辿る

富山の歴史について詳しく教えて欲しい。古代から平安時代まで。
キュリオす
富山湾に面し立山連峰を背負う越中国の古代史を紐解く。旧石器時代からの交易、律令制下の成立と変遷、大伴家持が詠んだ万葉の世界、そして平安期の荘園制と立山信仰の深化まで、山と海が育んだ独自の歴史と文化の変遷を追う。
富山湾を望む高台に立つと、どこか遠い時代から続く風が肌を撫でるように感じる。背後には雄大な立山連峰がそびえ、眼下には広大な湾が広がる。この地は古くから、その特異な地形ゆえに独自の歴史を育んできた。本州の中央部に位置しながら、日本海に面し、険しい山々が連なるこの土地は、古代の日本においてどのような役割を担い、いかにして「越中国」としての形を成していったのか。その問いは、豊かな自然の中に埋もれた、人々の営みの痕跡をたどる旅へと誘う。
富山県の歴史は、旧石器時代にまで遡る。約3万8千年前の後期旧石器時代の遺跡が確認され、約1万5千年前の立美遺跡(南砺市)からは青森県産の黒曜石で作られた石器が出土している。これは、古代の広範な交易ネットワークの存在を示唆するものだ。縄文時代には、朝日町の不動堂遺跡で全国最大級の竪穴建物が営まれ、境A遺跡ではヒスイ装飾品が大量に作られ、全国に流通したことが知られている。弥生時代には稲作が伝わり、防御性の高い集落が築かれるようになる。古墳時代には、畿内ヤマト王権の支配体制に組み込まれ、日本海側最大級とされる柳田布尾山古墳(氷見市)をはじめとする大型古墳が築造された。
7世紀後半になると、後の越前国、越中国、越後国の前身となる行政区分が置かれたと考えられている。大宝元年(701年)から大宝2年(702年)にかけて大宝律令が制定され、全国的に施行されたことで、遅くともこの時期までには令制国としての越中国が成立した。当初の越中国は、現在の富山県域に加えて、越後国の一部(頸城郡・古志郡・魚沼郡・蒲原郡)を含んでいたが、大宝2年(702年)3月にはこれら4郡が越後国に移管されたという記録が残る。これにより、越中国は礪波郡、射水郡、婦負郡、新川郡の4郡で構成されることとなり、現在の富山県とほぼ同じ領域となった。
その後、養老2年(718年)には越前国から能登国が分立したが、天平13年(741年)には一時的に越中国に併合された。しかし、天平宝字元年(757年)には能登国が再び越中国から分立し、その領域が確定した経緯がある。越中国の国府は現在の高岡市伏木地区に置かれたと推定されており、発掘調査からは奈良・平安時代の掘立柱建物や柵、須恵器、土師器、円面硯などが出土している。国庁は国守などの国司が政務や儀式を行う空間であり、勝興寺境内地がその敷地を踏襲しているという見方もある。
奈良時代、越中国は都から派遣される国司によって統治されていた。その中でも特筆すべきは、天平18年(746年)に国守として赴任した大伴家持の存在である。当時29歳であった家持は、都のエリート官僚としての前途を期待されながら、越中での5年間を過ごした。この地での滞在期間中、彼は数多くの歌を詠み、そのうち約223首が『万葉集』に収められている。これは『万葉集』全体の10%以上を占める家持の歌(473首)の半数近くに相当する数だ。
家持が越中で詠んだ歌には、立山連峰や富山湾の美しい風景、そして布勢水海(現在の氷見市)のような風光明媚な地への深い愛着が感じられる。彼は越中の自然を「神が住む山」と表現し、その神々しさを歌に込めた。『万葉集』には「越中三賦」として「二上の賦」「立山の賦」「布勢の水海に遊覧する賦」が記されており、これらには「山」「川」といった越中の豊かな自然が共通して詠み込まれている。家持は越中での経験を通じて、それまでの恋愛中心の歌人から、自然を詠む歌人へと大きく成長したと言われている。
越中国府は、現在の高岡市伏木古国府に位置していた。発掘調査からは、国府に関連する大規模な集落遺跡や官衙関連遺跡、窯業生産遺跡などが数多く検出されている。特に、米田大覚遺跡は9世紀中頃を中心とする官衙関連遺跡であり、「新川郡家」に比定されている。これらの遺跡からは、文字が書かれた木簡や墨書土器、文字を書くための硯などが見つかっており、当時の行政や文化の一端を窺い知ることができる。出土した墨書土器には「墾田」といった文字も確認されており、神通川左岸の開発に携わった領主クラスの集落があったと推測される。越中の地は、律令制下の地方行政の拠点として機能しつつ、家持のような文化人を惹きつけ、日本最古の歌集に豊かな彩りを与える舞台となったのだ。
古代の日本において、越中国のような日本海側の国々は、畿内を中心とする中央政権からは「辺境」と見なされがちであった。しかし、その地理的条件ゆえに、他の地域とは異なる独自性を育む一方で、律令国家の普遍的な統治構造に組み込まれていった側面も持つ。
例えば、畿内周辺の国々が、都との距離の近さから迅速な情報伝達と文化の流入を享受したのに対し、越中国は、その険しい地形が中央からの影響を緩やかにする要因となった。それでも、大伴家持のような都の高級官僚が国守として赴任し、5年間もの間、この地で政務を執り、文化活動を行ったことは、越中国が律令国家の地方統治において重要な位置を占めていたことを示している。家持の越中赴任については、当時の最高権力者である橘諸兄が藤原氏に対抗するための布石として要地に派遣した「栄転」とする説と、「左遷」とする説が併存するが、いずれにせよ、中央の政治情勢が地方の人事にも影響を与えていたことは確かだろう。
また、越中国は古くから「立山信仰」という独自の山岳信仰を育んできた。立山は富士山、白山と並ぶ「日本三霊山」の一つに数えられ、1300年前から山岳信仰の舞台となってきた。古代の人々は、立山を「神が住む山」として遙拝し、恵みをもたらす一方で、死者の魂が集まる「あの世」とも考えていた。平安時代には、地獄谷の荒涼とした景観を地獄に、浄土山の高山植物が咲き誇る様子を極楽浄土に見立てるなど、仏教思想と結びつき、修験道の修行の場となっていった。このような信仰のあり方は、同じく霊山を戴く出羽三山や熊野三山にも見られる普遍的な構造でありながら、終年雪を抱く立山ならではの自然景観がその信仰に独自の色彩を与えたと言えるだろう。
古代中国の「越」という国との地名の共通性も興味深い。日本の「越国」(越前・越中・越後)の地名由来を古代中国の越族と結びつける説も存在する。古代中国の越は、長江流域に栄え、稲作や銅の生成で発展した民族で、中原の漢民族とは異なる習俗を持っていたとされる。日本海に面し、豊かな水資源に恵まれた越中国が、遠く離れた中国の越と直接的な関係があったと断定することはできないが、水稲文化が根付いた地域としての共通性は、古代の広範な文化交流の可能性を示唆するのかもしれない。
平安時代に入ると、律令制の緩やかな崩壊とともに、越中国の社会構造にも変化が生じていく。中央からの派遣官である国司による地方支配は続くものの、その実態は変質していった。9世紀末以降、税制や地方行政の改革が進む中で、国司の権限は拡大し、「受領」(ずりょう)と呼ばれる国司の長官は、任期中に私財を蓄えることが可能になったとされる。越前国が大国として「実入りのよい国」とされたように、越中国もまた、国司にとって重要な赴任地であったことが窺える。
地方では、開墾された土地の私有が認められるようになり、「荘園」が形成されていった。有力な貴族や寺社は、国からの重い税負担を避けるため、自らが開墾した田畑を都の有力者に寄進し、荘園として保護を求めた。これにより、荘園には「不輸の権」(租税を朝廷に納めなくてよい権利)や「不入の権」(朝廷の役人の立ち入りを拒否する権利)が付与され、国司の支配が及ばない領域が拡大していった。越中国においても、平安時代には大規模な集落遺跡が繁栄し、任海宮田遺跡からは約200棟の竪穴住居や掘立柱建物が検出され、墨書土器からは「墾田」といった文字も確認されている。これは、地方の有力者による土地開発と荘園形成の動きが越中国でも活発であったことを示唆している。
また、立山信仰は平安時代を通じてさらに深化していく。古代には「神の山」として仰ぎ見られた立山が、平安時代には地獄や浄土信仰を背景とした神仏習合の密教や修験道の影響を受け、「仏の山」へとその性格を変えていった。山麓の芦峅寺や岩峅寺は、立山禅定登拝の拠点となり、多くの宿坊が建ち並んだという。これらの寺院は、立山信仰を全国に広める役割を担い、立山曼荼羅を用いてその世界観を布教していった。中央の律令体制が揺らぐ中で、地方に根ざした信仰や経済活動が、越中国の社会を支える新たな力となっていったのである。
富山の古代から平安時代にかけての歴史をたどると、そこには峻厳な立山連峰と豊かな富山湾という、二つの地理的条件が常に影響を与え続けてきたことがわかる。中央の律令国家の統治機構に組み込まれつつも、この土地固有の自然環境が、独自の文化や社会のあり方を形作ってきたのだ。
大伴家持が越中で詠んだ数多くの歌は、都の文化が地方に伝播し、新たな創造を生み出す様子を具体的に示している。しかし、その歌の背景には、万年雪を抱く立山の神々しさや、富山湾の雄大な景色といった、この地でしか得られない感覚があった。また、立山信仰のように、自然への畏敬の念から生まれた信仰が、時代とともに仏教や修験道と結びつき、独自の発展を遂げたことは、地方が中央文化を受容しつつも、それを自らの風土に合わせて再構築していった証左だろう。
平安時代に荘園制が進展し、地方の有力者が力を蓄えていく中で、越中国は中央からの支配が相対的に弱まる一方、地域内での経済活動や文化の独自性が一層強まっていったと見ることができる。現代の富山に息づく、山と海、そしてそこに暮らす人々の営みは、遠く古代から平安時代にかけて培われた、この土地固有の歴史的基盤の上に成り立っているのだ。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。