2026/7/1
江戸時代の遊行者・比丘尼は関所をどう越えたのか?

江戸時代に遊行者たちは関所を通れたのか?比丘尼も通れたのか?
キュリオす
江戸時代、関所は厳格な通行手形制度で管理されていた。しかし、勧進比丘尼や虚無僧らは、その信仰や芸能の性質から、特別な許可を得て関所を通過していた。
箱根の山を越える旅人の視線
東海道を歩く旅人が、箱根の山を越えようとするとき、その足元には石畳が続いていた。険しい山道に設けられた関所は、旅の安全を確保する場所であると同時に、自由な移動を制限する明確な境界でもあった。旅人たちは、それぞれの身分や目的によって異なる手続きを踏み、この門をくぐり抜けていったのである。武士は、その格式に応じた厳重な確認を受け、商人は荷物の検査に時間を要した。では、定まった住居を持たず、信仰や芸能を携えて各地を巡る人々、とりわけ「遊行者」や「比丘尼」といった存在は、この関所をどのように通過したのだろうか。彼らは、世俗のしがらみから離れた存在として、特別な扱いを受けたのか。あるいは、逆に警戒の対象とされたのか。その問いは、江戸時代の社会が、流動する人々をどのように位置づけ、管理しようとしたのかという、より大きな構図を浮き上がらせる。
「入鉄砲出女」が築いた境界
江戸時代の関所は、徳川幕府が全国支配を確立する過程で、その機能を大きく強化した制度であった。戦国時代の名残としての防衛機能に加え、幕府の統治体制を維持するための重要な役割を担っていたのである。特に重視されたのは「入鉄砲出女(いりでっぽうでおんな)」という原則であった。これは、江戸に鉄砲が流入するのを防ぎ、また、大名の妻子など、人質として江戸に置かれていた女性が、無断で国元へ帰ることを阻止するためのものであった。この原則に基づき、主要街道には箱根、碓氷、今切、木曽福島など、全国に50ヶ所以上の関所が設置された。
関所を通過するためには、通常、「通行手形」が必要とされた。これは、身分や目的、旅程などを記した公的な証明書であり、寺社や所属する藩、あるいは村役人によって発行された。手形には、旅人の氏名、年齢、身体的特徴、そして旅の理由などが詳細に記され、関所の役人はこれと本人を照合し、厳しく審査したのである。武士であれば、藩からの許可状が、一般の庶民であれば、寺請制度によって所属寺院から発行される手形が一般的であった。特に女性の通行は厳しく、大名家の女性が江戸を出る際には、老中が発行する「女手形」が必要とされるほどであった。これは、単なる身元確認以上の、政治的な意味合いを強く持っていたのである。関所は、単に地理的な境界線を画するだけでなく、社会の秩序と安定を維持するための、目に見える権力の装置であったのだ。
信仰と芸能がもたらす「例外」
遊行者や比丘尼が関所を通過する際の扱いは、一般の旅人とは異なる複雑な側面を持っていた。彼らは、特定の寺社に所属しながらも、その活動の性質上、各地を巡回することが常であったからだ。例えば、勧進比丘尼(かんじんびくに)は、寺社の修復や再建のための寄付を募るために諸国を巡った。彼女たちは、通行手形を必要としたが、その手形には「勧進のため」という特殊な目的が明記され、比較的スムーズな通行が認められることが多かったという。これは、幕府が寺社勢力との関係を維持し、また、宗教活動の一定の自由を認めていたことの表れでもあった。
一方、絵解き比丘尼(えときびくに)のように、絵図を用いて仏教説話などを語り聞かせることで生計を立てる比丘尼もいた。彼女たちもまた、寺社発行の手形を持っていたが、その身分は勧進比丘尼よりも曖昧な場合があったとされる。また、虚無僧(こむそう)は、普化宗の僧侶であり、尺八を吹きながら諸国を巡ることを生業とした。彼らは、顔を天蓋で覆い、身分証明としての「通関証」を携帯していた。これは、宗門の特権として関所の通過が許可されていたもので、一般の通行手形とは性質が異なった。虚無僧は、その独特の姿から、密偵や逃亡者が身を隠すために利用することもあったため、関所では特に厳重な取り調べを受けることもあったという。
さらに、山伏(やまぶし)は、修験道の行者として山野を巡り、病気平癒や厄除けの祈祷を行った。彼らもまた、所属する修験道の寺院から発行された手形を携えていた。彼らの通行が比較的自由であったのは、その信仰活動が、民衆の生活に深く根ざしており、社会の安定に寄与すると見なされていたためだと考えられる。このように、遊行者や比丘尼といった人々は、一括りにはできない多様な存在であり、その信仰や芸能の性質、あるいは所属する宗派の力関係によって、関所における扱いは微妙に異なっていたのである。彼らは、幕府の管理体制の「隙間」を縫うようにして、あるいは「公認された例外」として、その移動の自由を確保していたと言えるだろう。
旅の自由と管理の狭間で
江戸時代の関所における遊行者や比丘尼の扱いは、他の時代の国境管理と比較すると、その特異性が際立つ。例えば、中世ヨーロッパの都市国家間における移動は、ギルドや領主の許可が不可欠であり、外国人や異教徒に対する排他的な側面が強かった。特定の職能集団や宗教者が、その身分ゆえに自由な通行を許されるという概念は、限定的であったと言える。彼らの通行は、基本的に経済的な目的や、巡礼といった宗教的動機に強く紐づけられていた。
これに対し、江戸時代の日本においては、遊行者や比丘尼といった特定の宗教的・芸能的集団に対し、一定の移動の自由が与えられていた。これは、日本の社会が持つ多層的な構造と、宗教が社会生活に深く浸透していたことの現れだ。彼らは、単なる旅人ではなく、情報伝達者、文化の担い手、あるいは民衆の精神的拠り所としての役割も果たしていた。そのため、彼らの移動を完全に制限することは、社会の流通を阻害し、かえって混乱を招く可能性があったのである。
しかし、この「自由」は、無条件のものではなかった。虚無僧の例に見られるように、その特権が悪用される可能性を幕府は常に警戒していた。彼らの通行を許可する手形には、発行元や目的が明記され、身分詐称や犯罪行為への利用を防ぐための監視は怠られなかった。これは、幕府が、社会の秩序維持と、特定の集団の活動を許容するバランスを常に模索していたことを示している。関所は、単なる物理的な障壁ではなく、社会の多様性と、それを管理しようとする権力のせめぎ合いが具現化した場所であったと言えるだろう。
残された痕跡と現代の視線
江戸時代の関所は、明治維新とともにその役割を終え、多くが廃止された。しかし、その痕跡は今も各地に残されている。箱根関所跡のように、当時の建物を復元し、資料館として公開している場所も多い。そこには、通行手形や、旅人が携帯したとされる道具などが展示され、当時の旅の様子を偲ぶことができる。これらの資料は、幕府がどれほど厳重に人々の移動を管理しようとしていたか、そして、それに抗うように、あるいは巧みに順応しながら旅を続けた人々の姿を静かに伝えている。
現代において、国境や地域を越える移動は、パスポートやビザといった国際的なルールに則って行われる。身分証明の厳格化は、テロ対策や不法移民の問題など、現代社会が抱える複雑な課題と密接に結びついている。江戸時代の関所が果たした役割は、現代の出入国管理とは異なる文脈にあるものの、人々の移動を管理しようとする国家の意思と、それを掻い潜ろうとする個人の営みという普遍的なテーマをそこに見出すことができる。廃止された関所の跡地に立ち、当時の旅人の心境に思いを馳せる時、私たちは現代社会における「移動の自由」と「管理」の均衡について、改めて問い直すきっかけを得るのかもしれない。
権力と流動性の間に
遊行者や比丘尼が関所を通過できたのか、という問いは、江戸時代の社会が持つ二重性を浮き彫りにする。一方には、幕府による厳格な身分制度と、それに基づく人々の移動管理があった。関所は、その象徴であり、社会の安定と秩序を維持するための強固な装置であったことは間違いない。しかし、その一方で、宗教や芸能といった特定の領域では、流動性が許容され、時には奨励さえされていたのである。
比丘尼が勧進のために各地を巡り、虚無僧が尺八を携えて往来を許されたのは、彼らが担う文化的・精神的な役割が、社会にとって不可欠であったからだ。彼らは、情報や文化、そして信仰を運ぶ媒体であり、その移動を完全に止めることは、かえって社会の活力を奪うことになりかねなかった。この事実は、権力がすべてを均一に管理しようとしても、社会の多様な側面や人々の営みは、常にその隙間を見つけ、あるいは「公認された例外」として、その存在を主張し続けるという現実を示している。関所という境界線は、単なる物理的な障壁ではなく、江戸社会が抱える「管理」と「流動性」の間の複雑な均衡を映し出す鏡であったと言えるだろう。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
参考
- 「出女だけでなく"入り女"もダメ」江戸時代の関所が女性には異様に厳しかった本当の理由 妻子や母の逃亡の防止だけではない (3ページ目) | PRESIDENT Online(プレジデントオンライン)president.jp
- 箱根関所|関所ってなに?hakonesekisyo.jp
- 第6回 江戸時代の関所:株式会社日立システムズhitachi-systems.com
- city.kosai.shizuoka.jp
- 関所とはkaido-walking.com
- 箱根関所資料館 | スポット一覧 | かながわ 横浜観光ならアットヨコハマ【公式】at-yokohama.net
- 箱根関所資料館 | 箱根ナビhakonenavi.jp