2026/6/6
村上城下町と鮭、茶の歴史を辿る

新潟の村上の歴史について詳しく教えてほしい。
キュリオす
新潟県村上市の歴史を、臥牛山に築かれた城と目まぐるしい藩主交代、そして鮭と茶が育んだ独自の文化に焦点を当てて紹介。鮭の「種川の制」や北限の茶栽培、町屋の人形さま巡りなど、自然と共存し、地域を盛り上げてきた人々の知恵と営みを辿る。
新潟県村上市に足を踏み入れると、町並みのあちこちに古い城下町の面影を見出す。特に冬、雪に覆われた家々の軒先には、鮭が吊るされている風景が広がる。この町は「鮭のまち」として知られ、また「北限の茶処」としても名を馳せる。しかし、なぜこの地が、本州の日本海側という厳しい気候条件の中で、これほど多様で独特な文化を育んできたのか。その歴史を紐解くと、自然の恵みと、それに挑み、あるいは順応してきた人々の営みが浮かび上がってくる。
村上の歴史は、戦国時代に臥牛山(がぎゅうさん)に築かれた城から始まる。16世紀初頭、在地領主であった本庄氏が「本庄城」を築き、上杉謙信との攻防戦の舞台ともなった。この中世城郭が近世城郭へと大改修され、「村上城」となるのは、戦国の世が終わり、本庄氏が去った後のことである。
豊臣政権下の慶長3年(1598年)に村上頼勝が9万石で入封し、「村上」の地名が生まれたとされるが、この村上家は2代で改易された。その後、堀家、本多家、松平家、榊原家、間部家と、江戸時代初期から中期にかけて藩主が目まぐるしく入れ替わる激動の時代が続いた。特に堀直竒の時代、元和4年(1618年)から寛永19年(1642年)の24年間は、現在の城下町の骨格を形成する大規模な普請工事が行われ、本丸、二の丸、三の丸、新町曲輪を中心とした城郭が整備され、町人町の形態も整えられた。しかし、寛文7年(1667年)には落雷により天守が焼失し、再建されることはなかった。
藩政が安定期を迎えるのは、享保5年(1720年)に内藤家が5万石で入封してからである。以後、廃藩置県までの約150年間、9代にわたって内藤家が村上藩を統治し、地場産業の奨励や城郭の維持管理に努めた。この内藤家の時代に、村上の特産文化の多くが育まれていくことになる。
村上が独自の文化を築き上げた要因は複数あるが、特に「鮭」と「茶」は欠かせない。三面川(みおもてがわ)を遡上する鮭は、平安時代には既に京都の朝廷に租税として献上されていた記録が残るほど、古くからこの地の重要な資源であった。村上の人々は鮭を「イヨボヤ」(魚の中の魚の意とされる)と呼び、頭から尻尾、内臓に至るまで余すことなく食す文化を育んできた。その鮭料理は百種類を超えるという。
江戸時代中期、乱獲により三面川の鮭が激減した際、村上藩の下級武士であった青砥武平次(あおとぶへいじ)が、鮭の「回帰性」を発見し、産卵に適した分流「種川」を設ける「種川の制」を考案した。これは世界初の自然孵化増殖システムと言われ、鮭の遡上数を飛躍的に増加させ、藩の財政を立て直す大きな力となった。明治時代には、日本初の人工孵化にも成功し、遡上数はさらに増加したという。
一方、村上茶は「商業的な茶産地の北限」として知られる。その歴史は江戸時代初期、1620年代に遡る。当時の城主・堀直竒が江戸駒込の藩邸で栽培されていた種子を移植したという説と、藩の大年寄・徳光屋覚左衛門が宇治から茶の実を買い求めて植えさせたという二つの説があるが、いずれにせよ、藩が地場産業として奨励したことが始まりである。海岸側で比較的積雪が少なく、適度な積雪が茶の木を寒風から保護する、といった気候条件も幸いしたが、何よりも村上の人々が長年にわたり栽培技術を磨き続けてきたことが、この北限での茶栽培を可能にした。
村上の歴史を他と比較すると、その独自性がより鮮明になる。全国の多くの城下町が、特定の藩主のもとで安定した時代を経て発展したのに対し、村上藩は江戸時代初期に藩主が頻繁に入れ替わる不安定な時期を経験している。しかし、堀直竒による城下町の骨格形成、そして内藤家による150年にわたる安定統治が、その後の文化的な深まりを可能にした。この激動と安定のコントラストは、他の多くの城下町には見られない特徴かもしれない。
また、鮭の増殖システム「種川の制」は、その画期性において特筆すべきである。日本各地で鮭漁は行われてきたが、江戸時代中期に鮭の回帰性を利用した自然孵化増殖システムを考案し、実践した例は他に類を見ない。これは、天然資源の枯渇に対し、単なる漁獲規制に留まらず、生態系を理解し、積極的に手を加えることで持続可能性を追求した先進的な取り組みと言えるだろう。これは明治以降の近代的な水産増殖技術の萌芽とも捉えられ、その先見性は注目に値する。
なお、「村上」という名を聞いて、瀬戸内海の「村上水軍」(村上海賊)を連想する読者もいるかもしれない。しかし、新潟県村上市の歴史と瀬戸内海の村上水軍は、全く別の歴史的背景を持つ。瀬戸内海の村上水軍は、南北朝時代から戦国時代にかけて、芸予諸島を拠点に海上交通の警護や交易を担った武士団であり、その活動は主に西日本に限定されていた。地名が同じであるだけで、両者に直接的な歴史的繋がりはない。この違いは、地名が必ずしも単一の歴史を指し示すものではないという、歴史認識の多様性を示す一例とも言えるだろう。
現在の村上市には、歴史が積み重ねた風景が今も息づいている。国指定史跡である村上城跡の石垣が残る臥牛山からは、かつての城下町を一望できる。山麓には武家屋敷や寺町、そして町人町が広がり、旧成田家住宅などの武家屋敷、そして町屋と呼ばれる商家が点在する。これらの町並みは、城下町の四大要素(城跡・武家屋敷・町屋・寺町)が残る、全国的にも希少な場所として評価されている。
しかし、歴史的景観の維持は容易ではない。かつてはシャッターを下ろす店舗も増え、中心市街地の活気は失われつつあったという。こうした状況に対し、平成10年(1998年)には地元の商人たちが「村上町屋商人会」を結成し、自分たちの手で町を活性化させる取り組みを始めた。彼らは、普段は生活の場である町屋の内部を公開する「町屋の人形さま巡り」を企画。各家に伝わる雛人形や屏風を展示することで、多くの観光客を呼び込み、町に賑わいを取り戻した。これは、行政主導ではない、市民自らの手による歴史資源の活用と町おこしの成功例として、全国的にも注目されている。
また、明治維新後も村上には、旧士族の住む「本町」と町人の住む「町(まち)」という、かつての階級意識に基づく分離が続き、昭和21年(1946年)に至るまで別々の自治体として存在したという稀有な歴史を持つ。これは、城下町特有の社会構造が、近代化の波の中でも長く残り続けたことを示す。今では解消されているが、その意識が人々の間に色濃く残っていた事実は、村上の歴史が単なる過去の出来事ではなく、現在まで続く人々の意識に影響を与え続けていることを示唆している。
村上の歴史を辿ると、この地が常に厳しい自然条件と向き合い、それと共存するための知恵を育んできたことがわかる。豪雪地帯でありながら茶を栽培し、時に枯渇の危機に瀕した鮭を独自のシステムで再生させた。これらの営みは、単なる資源の利用に留まらず、その土地の気候や生態系を深く理解し、持続可能な関係を築こうとする具体的な努力の積み重ねであった。
また、藩主の頻繁な交代といった政治的混乱を経て、内藤家による安定期に文化が花開き、近代に入ってからは、市民自身がその歴史的資産の価値を再認識し、現代の生活の中に活かそうと動いている。これは、歴史が一部の権力者によってのみ作られるのではなく、それぞれの時代に生きる人々の小さな創意工夫や継続的な努力によって形作られていくことを示している。村上の町並みや食文化、そして人々の間に残る記憶は、そうした知恵と営みの連なりが、時を超えて土地の個性となり、受け継がれている証左と言えるだろう。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。