2026/6/28
なぜ尾鷲のヒノキは育ち、マグロは獲れるのか?多雨と黒潮が育んだ港町の歴史

三重の尾鷲の歴史について詳しく教えてほしい。
キュリオす
年間降水量4000ミリを超える尾鷲。その多雨と黒潮が、良質なヒノキを育む林業と、遠洋漁業を基盤とした港町としての歴史を形作ってきた。本記事では、尾鷲の産業と文化を支える自然条件と、その変遷を辿る。
雨に濡れる港と森の境
紀伊半島の東側、熊野灘に面した尾鷲の町を訪れると、その湿潤な空気にまず気づく。年間降水量が4000ミリを超えることも珍しくないこの地は、日本有数の多雨地帯として知られる。山は深く、海岸線は複雑に入り組んだリアス式海岸を形成し、平地は極めて少ない。このような地形と気候が、尾鷲の歴史を形作ってきたことは想像に難くない。なぜこの厳しい自然環境が、独自の産業と文化を育んできたのか。その問いは、雨に濡れる石畳や、深く青い湾の向こうに広がる森の姿に込められているように思える。
黒潮と修験の道が交わるまで
尾鷲の歴史は、その地理的条件と密接に結びついている。古くから熊野灘に面した要衝であり、深い入り江を持つ尾鷲湾は天然の良港として機能してきた。特に中世においては、熊野三山への参詣道である「熊野古道伊勢路」の一部がこの地域を縦断し、修験者や巡礼者が行き交う地であった。尾鷲は、伊勢と熊野を結ぶ海上交通の拠点でもあり、陸路と海路が交わる結節点として、人や物の往来が活発であったことがうかがえる。
江戸時代に入ると、紀州藩の支配下で、尾鷲は一層その重要性を増した。紀州藩は、尾鷲を材木の積出港として位置づけ、周辺の豊かな森林資源を活用する拠点としたのである。特に「尾鷲ヒノキ」と呼ばれる良質な材木は、藩の重要な財源となり、尾鷲の港から江戸や大阪へと運ばれた。この時期、尾鷲の町には、材木商や船問屋が集まり、経済的な活況を呈したという。また、江戸時代中期には、尾鷲の漁業も発展を遂げ、特にカツオ漁が盛んになり、遠洋漁業の技術が培われ始めた。黒潮がもたらす豊かな漁場は、尾鷲の人々に海の恵みをもたらし、漁師たちは遠く沖合まで船を出すようになった。
明治時代以降、近代化の波は尾鷲にも押し寄せた。1889年(明治22年)には尾鷲町が発足し、地方行政の中心地としての地位を確立していく。この時期、森林鉄道の敷設や道路網の整備が進み、山間部からの材木輸送が効率化された。また、漁業においても動力船の導入や漁法の改良が進み、まき網漁や延縄漁が本格化。カツオ漁に加え、マグロ漁も盛んになり、遠洋漁業の基地としての性格を強めていく。第二次世界大戦後、高度経済成長期には、尾鷲港は中近海漁業、特に遠洋マグロ漁業の拠点として全国的に名を馳せた。1960年代には、尾鷲港に水揚げされるマグロの量が日本有数となり、活気にあふれる港町の風景が広がっていたのである。
多雨が育んだ林業と深海に挑む漁業
尾鷲の産業が特異な発展を遂げた背景には、その自然条件が深く関わっている。まず、年間降水量が極めて多いという気候条件は、尾鷲林業の根幹をなす「尾鷲ヒノキ」の育成に不可欠であった。多量の雨は、山の土壌を豊かにし、ヒノキの生育を促進する。しかし、同時に急峻な地形と相まって、土砂災害のリスクも高めるため、林業従事者たちは常に自然との対峙を強いられてきた。尾鷲ヒノキは、その成長の過程で、年輪が密になり、強度と耐久性に優れた材木として知られるようになる。江戸時代から続く紀州藩の保護政策や、明治期以降の計画的な植林が、この地域の森林を豊かな資源へと育て上げたのだ。
一方、漁業においては、尾鷲湾が持つ「深さ」と「黒潮」の影響が大きい。尾鷲湾は、湾口からすぐに水深が深くなり、最深部は100メートルを超える。この地形が、多様な魚種が生息する環境を生み出し、また外洋の黒潮が直接湾内に流れ込むことで、カツオやマグロといった回遊魚の通り道となる。江戸時代から続くカツオ漁は、一本釣りや延縄漁といった伝統的な漁法で営まれ、特に戦後は遠洋漁業へと発展した。遠洋マグロ漁業は、長い航海と高度な技術を要するものであり、尾鷲の漁師たちは、その過酷な環境に耐えうる強い精神力と、経験に裏打ちされた知識を培ってきた。また、港の背後に山が迫り、平地が少ないという地理的制約は、産業の集約と効率化を促したとも考えられる。限られた土地の中で、林業と漁業がそれぞれ独自の進化を遂げ、互いに補完し合いながら発展してきたのだ。
材木を運んだ川と海の道
尾鷲の林業と漁業の歴史を考える上で、他の地域との比較は、その独自性を浮き彫りにする。例えば、同じく質の高いヒノキ材で知られる奈良県の吉野地域では、吉野川を利用した筏流しが材木運搬の主要な手段であった。吉野ヒノキは、その特有の緻密な年輪と美しい木目で評価され、古くから高級材として利用されてきたが、その生産体制は尾鷲とは異なる。吉野では、山間部の急峻な斜面を利用した独特の育林技術が発達し、密植による細やかな管理が行われてきた。
これに対し、尾鷲の林業は、急峻な山々から切り出された材木を、尾鷲湾へと直接運び出す経路が発達した。尾鷲地域は、河川の規模が小さく、吉野川のような大規模な筏流しには不向きであったため、森林鉄道や林道が整備され、最終的には港へと集積されたのである。尾鷲湾の深い水深と天然の良港という地理的条件が、材木輸送の終着点としての役割を強固にしたと言える。
漁業においても、その特徴は際立つ。例えば、東北地方の三陸海岸もリアス式海岸で知られ、豊かな漁場を持つが、そこでは養殖業が盛んであるという違いがある。対して尾鷲は、黒潮の恩恵を直接受ける立地から、遠洋漁業、特にマグロやカツオといった回遊魚を追いかける漁業が発展した。これは、尾鷲の漁師たちが、より広範囲な海域へと活動の場を求め、長距離航海と高度な漁獲技術を磨いてきたことを示している。他の漁港が近海漁業や定置網漁を中心に発展する中で、尾鷲が遠洋漁業に特化していったのは、黒潮という海流の存在と、深い湾がもたらす外洋との近接性が大きく作用した結果だろう。こうした比較から見えてくるのは、尾鷲がその特異な地形と気候条件を最大限に活用し、他の地域とは異なる戦略で産業を発展させてきた歴史である。
現代に息づく森と海の営み
現代の尾鷲においても、林業と漁業は地域経済の重要な柱であり続けている。尾鷲ヒノキは、「木の国」三重の代表的なブランド材として、建築資材や家具材として今も高い評価を得ている。しかし、国産材の需要低迷や後継者不足といった課題は、尾鷲の林業も例外ではない。これに対し、地元では、尾鷲ヒノキの新たな活用方法を模索する動きが見られる。例えば、間伐材を利用した木質バイオマス発電事業や、地域材を使った製品開発などが進められている。また、森林保全活動を通じて、持続可能な林業のあり方を追求する試みも行われている。
漁業においては、遠洋マグロ漁業の規模は縮小傾向にあるものの、近海漁業や養殖業への転換も進んでいる。特に、尾鷲湾内では、マダイやカンパチなどの養殖が盛んに行われ、新たな漁業振興の形が模索されている。尾鷲港は、現在も周辺海域で獲れる魚介類の水揚げ拠点であり、朝市には新鮮な海の幸が並び、多くの観光客や地元住民で賑わう。また、尾鷲市は、この豊かな海の恵みを活かした観光振興にも力を入れており、道の駅や魚市場が地域の魅力を発信する拠点となっている。歴史的な建造物や町並みが残る中心市街地では、かつての賑わいを偲ばせる風景が点在し、訪れる人々に尾鷲の歩みを伝えている。
雨が磨き上げた土地の芯
尾鷲の歴史をたどると、その成り立ちが極めて固有の条件によって形作られてきたことがわかる。年間降水量の多さ、急峻な山々、そして黒潮が流れ込む深い湾。これら一見すると厳しい自然環境は、尾鷲の人々にとって、単なる制約ではなく、むしろ独自の産業と文化を育むための源泉であった。多雨は良質なヒノキを育て、深い湾と黒潮は遠洋漁業の可能性を開いた。
他の地域がそれぞれの地理的条件に適応してきたように、尾鷲もまた、その土地が持つ特性を最大限に引き出し、林業と漁業という二つの柱を確立したのである。特に、山から港へ、そして遠い海へと視線を広げるそのスケール感は、限られた平地の中で営みを築いてきた人々の、したたかな知恵と実行力を示している。尾鷲の歴史は、自然の厳しさと恵みが交錯する場所で、人間がいかにして生きていくかという問いに対する、一つの具体的な答えを提示しているように見える。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。