2026/7/6
花の御所では蚊帳と香りで虫を退けた?中世京都の知られざる防衛戦とは

花の御所には花がいっぱいあったということは虫もいっぱいいたと思うが、どのような虫がいたのか?今とあまり変わりがないのか?虫対策はどのようにしていたのか?蚊や蜂を中心に
キュリオす
花の御所は、水と花に溢れた美しい庭園だったが、同時に蚊や蜂などの虫の楽園でもあった。本記事では、当時の人々が蚊帳や蚊遣り火、建築様式などを駆使して虫とどのように共存していたのか、その知恵と工夫を探る。
花の御所を包む虫の羽音
京都の今出川通、室町界隈を歩いても、かつてそこに足利将軍家の巨大な邸宅があったことを示すものは、ひっそりと立つ石碑くらいしかない。足利義満が造営した「花の御所」は、東西一町、南北二町の広大な敷地を誇り、鴨川の水を引き込んだ池や、守護大名から献上された四季折々の花々が咲き乱れる、中世の美の極致そのものと言える。しかし、その優雅な記述を読み進めるほど、現代の感覚では一つの疑念が頭をもたげる。これほどまでに水と緑が豊かな空間で、人々はどうやって「虫」と折り合いをつけていたのだろうか。
現代の都市公園であっても、夏場に水辺や茂みに足を踏み入れれば、瞬く間に蚊の洗礼を受ける。ましてや舗装も殺虫剤もない14世紀の京都である。花の御所の華麗な庭園は、視覚的には楽園であっても、生態学的には蚊や蜂、あるいは衣類に潜むノミやシラミにとっての格好の繁殖地となっていたに違いない。将軍や公家たちが、蚊の羽音に苛まれ、蜂の巣に怯える姿は、教科書に載る肖像画の端然とした表情からは想像しにくい。
だが、古典を紐解けば、彼らが決して虫を超越していたわけではないことがわかる。むしろ、その生活は虫との果てしない攻防の上に成り立っていた。では、彼らは具体的にどのような手段で、この不快な隣人たちを遠ざけていたのだろうか。花の御所の「花」を愛でるためのコストは、単なる造園費用だけではなかったはずだ。
邸内の池と植栽が招く繁殖
花の御所の環境を物理的な側面から捉え直すと、そこが虫にとってどれほど理想的な環境であったかが浮き彫りになる。義満が永和4(1378)年に着工したこの邸宅は、単に広いだけでなく、水の制御にその特徴があった。邸内には鴨川の水が引き込まれ、一町(約100メートル)四方にも及ぶ広大な池が掘られ、滝がしつらえられた。水面は常に動き、滝の音が響く空間は、一見するとボウフラが湧きにくい清潔な水辺に見える。
しかし、実際の庭園構造はもっと複雑だ。池の周囲には、湿地を好む植物や、日陰を作る鬱蒼とした木々が配置されていた。発掘調査によれば、室町殿の庭園遺構からは巨大な景石や複雑な滝口の跡が見つかっており、そこには水の淀みや、石の隙間の湿り気が無数に存在したことが推測できる。特にヒトスジシマカ、いわゆる「ヤブカ」は、ほんのわずかな水たまりがあれば繁殖が可能だ。庭園に置かれた手水鉢や、石の窪みに溜まった雨水は、彼らににとって完璧な産卵場所となっただろう。
また、花の御所はその名の通り、梅、桜、牡丹、菖蒲、菊といった植物が季節ごとに咲き誇るよう設計されていた。これらの花々は、受粉を媒介する蜂や蝶を呼び寄せる。特にアシナガバチやスズメバチにとって、獲物となる他の昆虫が豊富で、かつ寝殿造の複雑な屋根裏や軒下という「安全な営巣場所」が提供されている環境は、これ以上ない生存拠点である。
中世の京都は、現代よりも気温の年較差が大きく、夏は高温多湿であったと言われている。鴨川の伏流水が豊富な上京の地において、義満が求めた「水と花の都」は、同時に虫たちの巨大なコロニーでもあった。貴族や武士たちは、この動植物が旺盛に活動する空間の中で、自らの居住域を死守しなければならなかった。その防衛線は、建築様式から日常の持ち物に至るまで、あらゆる場所に張り巡らされていたのである。
萌黄色の蚊帳と蚊遣り火の防衛線
蚊に対する最大の防御兵器は、古くから伝わる「蚊帳(かや)」であった。蚊帳の歴史は古く、奈良時代には中国から技術が伝わっていたとされるが、室町時代においてもそれは依然として上流階級のみが享受できる贅沢品にほかならなかった。花の御所に住まう将軍やその家族にとって、蚊帳は単なる寝具ではなく、物理的に虫を遮断する唯一の聖域、いわば「結界」のような役割を果たしていた。
当時の蚊帳は、主に絹や麻を素材としていた。特に「萌黄(もえぎ)色の蚊帳」は、その色彩の美しさとともに、視覚的な涼しさを演出する装置としての側面も持つ。室町時代の風俗を描いた史料や日記を辿ると、蚊帳の中で過ごす時間は、一日のうちで最も安らげるひとときであったことが伺える。しかし、蚊帳はあくまでも寝室という限定的な空間を守るためのものであり、日中の活動範囲すべてをカバーできるわけではない。
蚊帳の外、つまり広大な寝殿の居室や回廊において、人々が頼ったのは「蚊遣り火(かやりび)」であった。これは、ヨモギの葉、杉や松の青葉、あるいはカヤの木などを火鉢で燻し、その煙で蚊を追い払う手法である。現代の蚊取り線香のような殺虫成分(ピレスロイドなど)は含まれていないため、あくまでも煙による忌避効果に過ぎない。想像してみてほしい。夏の盛り、風通しが良いはずの寝殿造の建物の中に、目に染みるような青臭い煙が立ち込めている光景を。
この蚊遣り火の煙は、決して快適なものではなかった。平安時代の清少納言が『枕草子』の中で、蚊の羽音を「にくきもの」として挙げているが、室町時代の人々も同様の不快感を抱えていた。煙で喉を痛め、目をこすりながら、それでも蚊に刺される痒痛よりはマシだと耐える。それが、花の御所の日常の光景だった。さらに、貴族たちは衣服に「香」を焚き染めていたが、これには体臭を消すだけでなく、ある種の防虫効果も期待されていた。白檀や丁子といった香料には、昆虫を遠ざける成分が含まれており、優雅な香りの裏には極めて実利的な生存戦略が隠されていたのである。
檜皮葺の屋根に潜む蜂とノミ
蚊と並んで、あるいはそれ以上に脅威であったのが蜂である。花の御所のような大規模な木造建築において、蜂の営巣を防ぐのは至難の業と言わざるを得ない。寝殿造の屋根は檜皮葺(ひわだぶき)や板葺きであり、その構造上、無数の隙間が生じる。アシナガバチは軒下に、より攻撃的なスズメバチは屋根裏や床下に巣を作る。
当時の人々が蜂に対してどのような具体的な駆除を行っていたか、その詳細は意外なほど史料に残っていない。しかし、いくつかの断片的な記述や当時の生活習慣から推測することは可能だ。まず、物理的な排除である。将軍の身辺を警護する「同朋衆」や従者たちは、庭園の整備とともに、蜂の巣の有無を日常的に見守っていたと考えられる。長い竿の先に火をつけた布を巻き、煙で蜂を怯ませてから巣を落とすといった原始的な手法が取られていた。
また、蜂を「神の使い」や「怨霊の化身」として恐れる側面もあった。蜂に刺されることは、単なる事故ではなく、何らかの不吉な予兆や罰として捉えられることもあった。そのため、呪術的な防除も行われていた。例えば、特定の呪文を記した札を貼る、あるいは特定の植物を軒に吊るすといった行為である。蜂の毒に対する医学的な知識も限られており、刺された際には味噌を塗る、あるいは薬草の汁をつけるといった民間療法が主流を占めていた。
さらに、現代人が見落としがちなのが、衣服や寝具に潜むノミやシラミの存在だ。花の御所の住人たちは、毎日風呂に入る習慣を持たなかった。平安時代以来の「風呂」は蒸し風呂が主流であり、お湯に浸かって全身を洗う行水は、特定の日に限られた儀式に近いものだった。豪華な絹の着物は、頻繁に洗濯できるものではない。そのため、一度ノミやシラミが入り込めば、それは瞬く間に広がった。
室町時代の僧侶たちの記録には、瞑想中にノミの痒みに耐えかねる描写がしばしば登場する。将軍といえども例外ではない。彼らは「梳き櫛」を使って髪からシラミを落とし、衣服を太陽に干すことでノミを駆除しようとした。花の御所の華やかな庭園を歩く将軍の足元では、常に小さな虫たちが血を求めて跳ねていたのである。
アスファルトの下に埋もれた中世の生態系
現代の京都、かつて花の御所があった上京区の住宅街を歩くと、当時とは全く異なる生態系に気づく。地面の大部分はアスファルトで覆われ、鴨川の水は護岸された水路を流れている。かつてのような「淀み」や「湿地」は激減し、それに伴って虫の種類も大きく変化した。
現在、京都の都市部で最も一般的な蚊は、アカイエカとヒトスジシマカである。アカイエカは下水溝などの汚れた水を好み、夜間に屋内に侵入して人を刺す。一方、ヒトスジシマカは昼間に活動し、空き缶や古タイヤの溜まり水などで繁殖する。これらは中世にも存在したが、その個体数バランスは今とは異なっていたはずだ。かつては、より自然豊かな環境を好むヤマトヤブカや、水田の拡大とともに増えたコガタアカイエカなどが、花の御所の周辺に溢れていたと考えられる。
蜂についても同様だ。現代の都市部では、軒下に巣を作るアシナガバチが最も身近だが、中世の広大な森のような庭園には、より大型のスズメバチが頻繁に出没していた。当時の人々にとって、蜂は「たまに見かける厄介者」ではなく、生活空間を共有する「危険な隣人」としての実感がより強かっただろう。
しかし、現代の方が虫対策が万全かと言えば、必ずしもそうではない。殺虫剤への耐性を持つ蚊の出現や、温暖化による生息域の北上など、新たな問題が発生している。一方で、私たちは中世の人々が持っていた「虫を遠ざけるための身体感覚」を失ってしまった。彼らは扇子や団扇を単なる涼を取る道具としてだけでなく、飛んでくる虫を追い払うための武器として、無意識のうちに使いこなしていた。袖を振る、裾を払うといった所作の一つ一つに、虫との距離を測る知恵が組み込まれていたのである。
花の御所から虫がいなくなったわけではない。むしろ、当時の人々は虫がいることを前提として、その中でいかに「人間としての尊厳」を保つ空間を切り出すかに腐心していた。現代の私たちが、網戸やエアコンで外界と完全に遮断された空間を標準としているのに対し、彼らの生活は、常に外気と、そこに浮遊する無数の生命に対して開かれていた。
境界を管理する高床と煙の知恵
花の御における虫対策を俯瞰すると、そこには「根絶」ではなく「境界の管理」という思想が見て取れる。彼らは、庭園から虫を駆逐することは不可能であることを知っていた。だからこそ、蚊帳という物理的な膜、蚊遣り火という嗅覚的な膜、そして建築様式という空間的な膜を幾重にも重ねることで、不快な存在を外側へと押し流そうとした。
この「膜」の思想は、中世日本の衛生観そのものを象徴している。高床式の建築は、地面からの湿気と這い上がる虫を遠ざける。吹き抜けの構造は、煙を滞留させつつ風を呼び込み、飛行する虫の侵入を物理的に困難にする。これらは現代的な「衛生」の概念とは異なるが、環境を制御し、人間が快適に過ごせる領域を確保するための高度な技術体系を成していた。
また、虫との関わり方は、階層意識とも密接に結びついていた。高価な蚊帳の中で眠り、上質な香を焚き染めることができるのは、限られた権力者のみである。花の御所の外、鴨川の河原や狭い路地にひしめく庶民たちは、蚊帳も持たず、ただひたすらに煙を焚、あるいはノミに噛まれるままに夜を過ごしていた。将軍が愛でた「花」の美しさは、そうした過酷な生態系から、富と権力によって強引に切り出された特権的な静寂の上に成立していた事実に突き当たる。
読み終えて気づくのは、私たちが「歴史」として想像する華やかな舞台装置のすべてに、実はこうした微細な生物たちのノイズが混じっていたということだ。義満が眺めた池の面には、ボウフラを狙うアメンボが走り、満開の牡丹の影では蜂が羽音を立てていた。その羽音は、優雅な管弦の響きをかき消すほどに激しかったかもしれない。
花の御所という空間は、自然を征服した結果ではなく、制御しきれない生命の奔流の中に、かろうじて打ち立てられた「人間の領域」であった。その境界線で、人々は団扇を振り、煙を上げ、蚊帳の隙間を閉じた。歴史の記述から削ぎ落とされたその小さな動作の積み重ねこそが、中世という時代の皮膚感覚を形作っていたのである。今出川の交差点に立つと、かつてこの地で人々が団扇を振り、蚊帳の隙間を閉じながら、花の香りと共に羽音と向き合っていた時間が想起される。

枕草子で蚊の記述は有名だが、蜂の記述がないのが不思議。スズメバチもこの頃からいたのね。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。