2026/7/6
聖一国師が持ち帰った種は「本山茶」?近代の茶業界が作り出した物語とは

静岡で本山茶の茶祖聖一という看板を見たが、聖一が持ち帰ったものも本山茶なのか?
キュリオす
鎌倉時代の高僧・聖一国師が宋から持ち帰った茶の種が、現代の「本山茶」ブランドの起源とされる。しかし、両者の間には数百年もの隔たりがある。本記事では、「本山茶」という名称が誕生した背景と、その背後にある茶業界の戦略を探る。
看板の背後に潜む時間の断層
静岡の街を歩いていると、ふとした辻に「本山茶の茶祖 聖一国師」と大書された看板を見かけることがある。聖一国師、すなわち円爾(えんに)は鎌倉時代の高僧であり、京都・東福寺を開山した人物として知られる。彼が宋から持ち帰った茶の種を故郷に近い足久保の地に蒔いたことが、静岡茶の始まりであるという。この物語は、静岡の人々にとって一種の共通認識となっている。だが、その看板をじっと眺めていると、奇妙な違和感が首をもたげてくる。聖一国師が生きたのは13世紀。一方で「本山茶」という言葉が指すのは、現代の私たちが急須で淹れて飲む、あの鮮やかな緑の煎茶のブランド名だ。
鎌倉時代の僧侶が、数百年後のブランド名を冠した茶を「持ち帰る」ことなど物理的に不可能である。だとすれば、あの看板が語っているのは、単なる歴史的事実の記述ではないのではないか。聖一国師が宋から持ち帰った「茶」と、いま私たちが「本山茶」と呼んでいるものの間には、どのような断絶と接続があるのだろうか。問いを立ててみると、そこには単なる産地の歴史を超えた、ある「正統性」をめぐる静かな闘争の跡が見えてくる。彼が蒔いた種は、いつ、どのような意図を持って「本山」という名を背負わされることになったのか。その名前の由来を辿ると、明治から大正にかけての激動の茶業界が浮かび上がってくるのだ。
鎌倉の種が足久保に根を下ろすまで
聖一国師こと円爾が宋での修行を終えて帰国したのは、仁治2年(1241年)のことである。彼は博多に承天寺を開き、後に京都で東福寺を建立するが、その旅の途上で故郷である駿河国、現在の静岡市葵区にある足久保に茶の種を蒔いたと伝えられている。これが静岡茶の起源とされる出来事だ。当時の茶は、現代の煎茶とは似ても似つかないものだった。宋から伝わったのは、茶葉を蒸して乾燥させ、粉末にして湯に溶かす「点茶(てんちゃ)」の文化である。つまり、聖一国師が持ち帰ったのは、後の抹茶の原型となる製法と、そのための種子であった。
足久保の地が選ばれたのは、単に彼の故郷に近かったからだけではない。安倍川の支流に位置するこの地は、川霧が立ち込め、適度な湿潤さと寒暖差がある。茶の栽培に極めて適した土地であることを、円爾は宋での経験から見抜いていたのだろう。この足久保の茶は、室町時代から戦国時代にかけて、次第にその名を知られるようになる。今川氏が駿河を統治していた時代、京の文化を重んじた彼らは、足久保の茶を珍重した。そして今川氏が滅び、徳川家康が駿府に隠居するようになると、足久保の茶はさらなる飛躍を遂げる。
家康は足久保の茶を深く愛し、これを「御用茶」として定めた。彼は、春に摘んだ新茶を茶壺に入れ、夏の間は標高1200メートルを超える安倍奥の井川・大日峠にある「お茶蔵」で保管・熟成させた。秋になり、熟成によって角が取れ、香りが深まった頃に駿府城へと運ばせる。これがいわゆる「お茶壺道中」の始まりである。この時代、お茶は単なる飲料ではなく、将軍家の権威を象徴する政治的な道具でもあった。足久保の茶は、江戸時代を通じて宇治茶と並ぶ高級ブランドとしての地位を盤石なものにする。しかし、この時点でもまだ、この茶は「安倍茶」や「足久保茶」と呼ばれており、「本山」という名は影も形もなかった。
「本山」という名の誕生とブランドの防衛
「本山茶」という名称が公式に誕生するのは、それから数百年後、明治から大正にかけてのことである。名付け親は、現在の静岡市葵区清沢に生まれた茶農家、築地光太郎(あるいは築地静三郎、資料により表記が分かれるが、清沢の築地家の一族である)と言われている。なぜ、わざわざ新しい名前を付ける必要があったのか。そこには、明治維新以降の静岡茶を取り巻く環境の激変があった。
幕末の開港以降、茶は生糸と並ぶ日本の主要な輸出品となった。需要の急増に応えるため、静岡では大規模な開墾が始まる。明治初期、徳川幕府の瓦解によって職を失った幕臣たちが、それまで不毛の地とされていた牧之原台地に入植し、広大な茶園を作り上げた。これが現在の静岡茶の主力である「平野部・台地部のお茶」の始まりである。牧之原で作られた茶は、最新の機械導入によって大量生産され、輸出用として世界へ羽ばたいていった。
しかし、この大量生産の波は、古くからの産地である安倍川・藁科川流域の山間地の農家たちに危機感をもたらした。平地で作られる効率重視の茶と、急峻な斜面で手間暇かけて作られる伝統的な茶が、同じ「静岡茶」として一括りにされてしまう。価格競争になれば、山間地は勝ち目がない。そこで築地光太郎は、大正6年(1917年)頃、自分たちの茶を「本山茶」と命名した。「本山」とは地名ではない。「本場の山のお茶」あるいは「正統なる山の茶」という意味を込めた、極めて戦略的なネーミングであった。
彼らが「本山」という言葉に託したのは、単なる差別化ではない。それは「我々こそが、聖一国師以来の伝統を受け継ぐ本流である」という宣言でもあった。新興の牧之原(新山)に対し、古くからの安倍奥こそが「本山」であるという対抗軸を打ち立てたのである。このブランディングは見事に成功し、後に「本山茶」は川根茶、掛川茶と並ぶ静岡の三大地域ブランドとしての地位を確立していく。つまり、聖一国師が持ち帰ったのは「種」であり、その種に「本山」という物語を接ぎ木したのは、近代の茶農家たちの切実な生存戦略だったのである。
栂尾の「本茶」と静岡の「本山」
「本山」という言葉の響きには、どこか宗教的な、あるいは権威的な重みがある。この命名の背景を考える上で、無視できない比較対象がある。それは、京都・栂尾(とがのお)の高山寺を拠点とした明恵上人の茶である。日本茶の歴史において、明恵上人は聖一国師と並ぶ最重要人物の一人だ。栄西が持ち帰った種を明恵が栂尾に植え、それが日本最古の茶園となったという伝説がある。
かつて、京都では栂尾で採れた茶だけを「本茶(ほんちゃ)」と呼び、それ以外の場所(宇治などを含む)で採れた茶を「非茶(ひちゃ)」と呼んで厳密に区別していた時代があった。この「本」という一文字には、単なる品質の良し悪しを超えた、起源に対する独占的な正統性が込められている。静岡の茶農家たちが「本山」という名を掲げたとき、彼らの念頭には、この京都における「本茶」の概念があったのではないか。
面白いのは、京都では後に、かつて「非茶」とされた宇治茶が圧倒的なブランド力を持ち、現代では宇治こそが正統の座に君臨している点だ。一方で静岡では、新興の牧之原が生産量の大部分を占めるようになってもなお、安倍川流域の農家たちは「本山」という名を旗印に、自らの立ち位置を譲らなかった。京都における「本茶」が起源の場所そのものを指したのに対し、静岡の「本山」は、近代的な競争原理の中で「起源の物語」を再解釈し、ブランドとして再構築したものだと言える。
また、聖一国師が伝えたとされる足久保の茶は、江戸時代には碾茶(抹茶の原料)が主流であったが、明治以降は煎茶へと製法を変えている。京都の宇治が、抹茶や玉露という「覆下(おおいした)栽培」の伝統を堅持することで正統性を保ったのに対し、静岡の本山茶は、製法そのものは時代の要請(煎茶への移行)を受け入れつつ、その「場所の霊性」と「家康の御用茶」という歴史的なエピソードを「本山」という言葉に凝縮させることで、独自の正統性を守り抜いた。この、変容を受け入れながらも核心の名を守るという姿勢は、静岡という土地が持つ実利的な気風を反映しているようにも見える。
霧が育む「山の茶」の現在地
現在、本山茶として定義されているのは、静岡市を流れる安倍川と藁科川の上流域で生産される茶である。この地域を実際に訪れてみると、大規模な平地の茶園とは明らかに異なる風景が広がっている。急峻な山の斜面に張り付くようにして、小さな茶畑が点在している。機械が入り込めないような場所も多く、今でも手摘みや小型の機械による作業が中心だ。この地形的制約こそが、本山茶の個性を形作っている。
山間地の茶園は、朝夕に深い川霧に包まれる。この霧が天然のカーテンとなり、茶葉に降り注ぐ直射日光を適度に遮る。これにより、茶葉の中のアミノ酸(旨味成分)が分解されずに残り、渋みが抑えられた、まろやかで香りの高い茶が育つ。また、山の斜面は水はけが良く、適度なストレスが茶樹に与えられることで、根が深く張り、土壌のミネラルを豊富に吸収する。これが、本山茶特有の「山の香り」と呼ばれる、透き通るような芳醇な香りの源泉となっている。
しかし、この伝統的な産地も、現代特有の課題に直面している。急斜面での作業は重労働であり、農家の高齢化と後継者不足は深刻だ。平地の茶園に比べて生産効率が低いため、価格競争では常に不利な立場に立たされる。かつて築地光太郎たちが「本山」という名を掲げて対抗したときと同じ、あるいはそれ以上に厳しい局面にあると言ってもいい。現在では、この「本山」のブランドを守るため、JA静岡市などが中心となり、厳しい品質基準を設け、熟成茶の復活や新しい飲み方の提案など、多様な取り組みが行われている。聖一国師の看板は、今や単なる歴史の紹介ではなく、この土地で茶を作り続けることの覚悟を象徴する、一種のモニュメントとして機能している。
正統性という名の接ぎ木
聖一国師が持ち帰った種が、そのまま現代の「本山茶」であるかという問いに戻れば、その答えは「イエスであり、ノーでもある」ということになるだろう。植物学的な系譜としては、彼が蒔いた種がこの地の茶の始祖であることに疑いはない。しかし、「本山茶」という概念そのものは、後世の人々が、自分たちのアイデンティティを守るために歴史から召喚し、形作ったものである。
私たちは、古い歴史を持つものに対して、あたかもそれが最初から完成された形で存在していたかのような錯覚を抱きがちだ。だが実際には、歴史とは常に、その時々の必要性に応じて書き換えられ、補強されるものである。聖一国師という「茶祖」の存在も、江戸時代には将軍家の御用茶としての権威を裏付けるために、明治以降は新興産地に対する「本家」の誇りを示すために、繰り返し語り直されてきた。
「本山」という名は、単なる産地の分類ではない。それは、800年前の僧侶の足跡と、近代の農家のプライド、そしてこの険しい地形がもたらす独特の風味を一つに束ねるための、強力な接着剤のような言葉だ。静岡の街角で目にするあの看板は、過去の事実を伝えているのではない。今ここにある茶が、どこから来て、どのような意志によって守られているのかという「物語の正統性」を、道行く人々に静かに宣言し続けているのである。その物語の重みを、私たちは一杯の茶の、あの青く澄んだ香りの奥に、確かに感じ取ることができる。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
参考
- 本山茶について | 静岡茶商工業協同組合ocha.or.jp
- お茶の歴史 | お茶のはなし | 静岡製茶問屋 岩崎功商店 テ・ド・いわさきmarubun-iwasaki.jp
- 茶の歴史|緑茶|株式会社トモニtomoni-happy.jp
- 歴史 | 静岡茶発祥の地 足久保 ASHIKUBOashikubo.com
- 本山茶の由来│松井製茶・茶樹の会~いい時、いい味、静岡のお茶ocha365.world.coocan.jp
- お茶のまち静岡市 | 茶産地の紹介ochanomachi-shizuokashi.jp
- 【ブログ】茶処のおはなし(その1) | 香味老舗 網代園〈急須で淹れる茶 はかり売り〉ajiroen.jp
- 本山茶の特徴と歴史|徳川家康が愛した、味わい深い静岡茶 | CHANOYUe-cha.co.jp