2026/6/11
なぜ東三河は「乾いた土地」から豊かな農業地帯へ変貌したのか

東三河についてまだ知らないことを掘り下げて詳しく教えてほしい。
キュリオす
かつて水不足に悩まされた東三河が、一世紀近い構想と四半世紀の歳月をかけた豊川用水事業により、農業・工業・生活用水を安定供給する地域へと変貌を遂げた経緯を辿る。
東三河の平野を車で走ると、広大なビニールハウスが延々と続く光景に出くわす。特に冬の時期、電照菊の明かりが夜空に浮かび上がる様は幻想的ですらある。この地が、かつて水不足に悩まされ、「乾いた三河」とまで呼ばれた歴史を持つことを知る者は、今では少ないかもしれない。なぜこの土地が、これほどまでに豊かな農業地帯へと変貌を遂げたのか。その問いの答えは、一世紀近い歳月をかけて実現された、ある巨大な土木事業の中に横たわっている。
東三河地域の水不足は古くから深刻な問題であった。特に豊橋平野は、豊川と矢作川という二つの大きな川に挟まれながらも、その恩恵を十分に受けられず、台地状の地形から水を得にくい「天水依存」の農業が長く続いてきた。江戸時代には既に、新田開発と水の確保が地域の課題として認識されており、限られた水源を巡る争いも少なくなかったという。明治以降、近代化が進むにつれて工業用水や生活用水の需要も高まり、抜本的な解決策が求められるようになった。
豊川の水を引く構想自体は、明治時代後期には既に存在していた。1898年(明治31年)には、現在の豊橋市出身の農学者である松永安左衛門(後の電力王)が、豊川の水を引く灌漑計画を提唱している。しかし、その壮大な計画は当時の技術力や資金力をはるかに超えるもので、実現には至らなかった。転機が訪れるのは、昭和初期に入ってからである。食糧増産が国家的な課題となる中、1940年(昭和15年)には農林省(当時)が「愛知用水調査事務所」を設置し、豊川用水の調査も本格化する。太平洋戦争による中断を挟みながらも、戦後の復興期には食糧難を背景に再び計画が浮上。1949年(昭和24年)には「豊川用水建設促進期成同盟会」が結成され、地域の強い要望が国を動かした。
そして1950年(昭和25年)、農林省による「豊川用水事業」が正式に採択され、翌年には建設工事が着工される。しかし、この事業は単なる灌漑用水路の建設に留まらなかった。農業用水だけでなく、工業用水、上水道、さらには水力発電をも含む多目的ダム・水路建設という、当時としては画期的な規模のプロジェクトであったのだ。総事業費は当時の国家予算の数パーセントに相当する膨大な額に上り、その完成までにはおよそ25年の歳月が費やされることになる。
豊川用水の建設は、まさに困難の連続であった。主な水源となるのは、愛知県と長野県の県境に近い奥三河に位置する大野頭首工で豊川から取水し、そこから東三河の広範囲に水を供給するため、複雑な地形を克服する必要があった。特に難工事とされたのは、鳳来寺山の麓を貫く宇連ダムの建設と、そこから豊橋平野へと水を送るためのトンネルやサイフォンの掘削である。総延長約110キロメートルにも及ぶ幹線水路には、いくつもの山を貫くトンネルや、谷を越えるためのサイフォンが設けられ、その数は大小合わせて300箇所近くに及んだ。
この事業の特色は、単一の目的に特化せず、農業・工業・生活用水の三本柱で地域の発展を支えようとした点にある。当時、高度経済成長期を迎えていた日本において、工業用水の確保は産業誘致の重要な鍵であり、生活用水の安定供給は都市化の進展に不可欠であった。豊川用水は、まさにそうした時代の要請に応える形で計画され、実行された。水源から取水された水は、幹線水路を経て各地に分岐し、最終的には末端の畑や工場、家庭へと届けられる。その配水網は、まるで人体の血管網のように東三河全域を覆い、文字通り地域の生命線となったのだ。
日本において、大規模な水利事業は各地で行われてきた。例えば、琵琶湖疏水は明治期に京都の近代化を支え、愛知用水は知多半島や西三河地域の農業と工業を大きく変えた。これらはいずれも、水不足に悩む地域に豊かな恵みをもたらし、その後の発展の礎を築いた点で共通している。しかし豊川用水の場合、その多目的性が際立っている。琵琶湖疏水が主に水運と水力発電、そして京都への生活用水供給を目的としたのに対し、豊川用水は当初から農業用水の確保を最大の目標としつつ、同時に工業と生活用水の需要にも応えるという、より広範な地域開発の視点を持っていた。
また、地形的な困難さも特筆すべき点である。琵琶湖疏水が比較的標高差を利用しやすい立地であったり、愛知用水が木曽川という巨大な水源からの取水であったりするのに対し、豊川用水は、比較的規模の小さい豊川を水源とし、かつ複雑な山間部を迂回または貫通して、広大な平野部に水を送る必要があった。このため、宇連ダムのような大規模な貯水池の建設に加え、数多くのトンネルやサイフォン、橋梁といった土木構造物が連続して必要とされたのである。その技術的な挑戦と、完成までの長期にわたる粘り強い取り組みは、他の水利事業と比較しても際立つものと言えるだろう。
この豊川用水の成功は、単に水が供給されたという以上の意味を持つ。それは、地域住民が長年にわたって抱いてきた「水への渇望」が、具体的な形となって結実した瞬間でもあった。この巨大なインフラが、単なる土木構造物ではなく、地域の歴史と未来を繋ぐシンボルとして、住民の心に深く刻まれているのである。
豊川用水の完成から半世紀以上が経過した現在、その恩恵は東三河の風景の中に深く根付いている。かつて「乾いた土地」と呼ばれた豊橋平野は、今や全国有数の農業地帯へと変貌した。特に、電照菊やミニトマト、キャベツなどの施設園芸が盛んで、安定した水供給がその発展を支えている。ビニールハウスの内部では、自動で水や養分が供給されるシステムが導入され、効率的な農業が展開されている。
工業面では、臨海部の豊橋港周辺に自動車関連産業や食品加工業が集積し、これらの工場群も豊川用水からの工業用水に依存している。また、豊橋市や豊川市といった都市部では、安定した上水道供給が人口増加と都市機能の維持に貢献してきた。しかし、現代には現代の課題も存在する。高度経済成長期に建設された施設群は老朽化が進み、維持管理には莫大な費用と労力がかかる。また、農業や工業の構造変化に伴い、水需要のあり方も変化しつつある。環境負荷の低減や、渇水時の効率的な水運用など、新たな視点での管理が求められているのだ。
東三河の地を歩くと、豊川用水の存在は一見すると目立たないかもしれない。しかし、その水路がなければ、現在の豊かな田園風景も、活気ある工業地帯も、そして安定した都市生活も成り立たない。この巨大なインフラは、単なる水の供給システムではなく、地域の自然条件と、それに抗い、あるいは適応しようとした人々の歴史、そして未来への展望が凝縮されたものだ。
かつて水に苦しんだ地域が、一世紀近い構想期間と四半世紀の建設期間を経て、自らの手で水脈を切り拓いた。その事実は、自然の制約を乗り越えようとする人間の意志と、長期的な視野に立った地域開発の重要性を示唆している。東三河の地を潤す水路は、静かに、しかし確かに、この地域の物語を語り続けているのだ。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。