2026/6/5
宇都宮オトワレストラン、故郷で美食文化を育んだ軌跡

宇都宮のオトワレストランについて詳しく教えて欲しい。
キュリオす
宇都宮出身の音羽和紀が、フランス修行を経て故郷で開業したオトワレストラン。栃木の風土を映す料理哲学と、家族による世代を超えた継承、地域への貢献を通じて、地方における美食の持続可能性を追求する。
オトワレストランの創業者である音羽和紀は、1947年に宇都宮で生まれた。大学卒業後、1970年にヨーロッパへ渡り、ドイツ、スイスで修行を重ねた後、フランスへと向かう。当時、海外での料理修行が容易ではなかった時代に、彼はフランス料理界の巨匠として知られる故アラン・シャペルに日本人として初めて師事した。 シャペルの元で3年間を過ごしたことは、音羽の料理人としての基盤を築く上で決定的な経験となった。
しかし、彼を大きく変えたのは、シャペルが店を構えるリヨン郊外のミヨネー村での生活だったという。何もないような田舎の村にもかかわらず、地元の人々が自分たちの故郷とその風土に心から誇りを持っている姿に音羽は深く感銘を受けた。 この経験が、後に彼が東京ではなく、生まれ育った宇都宮でレストランを開業する決意を固める原点となる。
1978年に帰国後、音羽はすぐに故郷で開業するのではなく、新宿中村屋で3年間勤務し、料理以外の経営やマネジメント、マーケティングといったビジネスの側面を学んだ。 これは、単に料理を作るだけでなく、レストランを地域に根ざした事業として成立させるための準備期間だったと言える。そして1981年、34歳で宇都宮に最初のレストラン「オーベルジュ」をオープンした。 フランスの地方でオーベルジュが地域に深く関わる姿に倣い、この店は地元の食材を使い、地域に根ざした店作りを目指す、いわば「地産地消」の先駆けとなったのだ。 その後、いくつかの店舗展開を経て、2007年に現在の「オトワレストラン」を開店し、自身の美食哲学を集約したグランメゾンとして確立した。
オトワレストランの料理哲学の核心にあるのは、「テロワール」という概念を栃木の地に置き換えることだ。フランス料理におけるテロワールとは、特定の土地の土壌、気候、地形、そしてそこで育まれる文化が食材やワインの風味に与える影響を指す。音羽和紀は、この考え方を宇都宮、ひいては栃木県全体に適用した。
彼がアラン・シャペルから学んだ最も重要なことの一つは、「地元の食材を大切にすること」だった。 シャペルは生産者を店に招き、共に食について語り合うことで、料理には生産者だけでなく地域のすべてが反映されていることを音羽に実感させたという。 この教えを受け継ぎ、音羽は自ら数百カ所にも及ぶ生産現場や市場を訪ね、栃木県内の魅力的な食材を発掘し、生産者との関係を築いてきた。
栃木県は、野菜、乳製品、畜産、川魚など、多様な農産物が身近にある豊かな土地である。 オトワレストランでは、とちぎ和牛、ヤシオマス、地元の野菜やハーブ、果物といった栃木産の食材を最大限に活かし、それをフランス料理の技法で昇華させる。 例えば、栃木で育った旬の野菜を生、焼く、煮る、揚げるなど、それぞれの野菜に最も適した調理法でまとめ、伊達鶏のブイヨンと栃木産豆乳をベースにしたソースを合わせた「栃木旬野菜」は、まさにその哲学を象徴する一皿と言えるだろう。 単に地元の食材を使うだけでなく、その土地の風土や歴史を皿の上で表現しようとする姿勢が、オトワレストランの料理を唯一無二のものにしている。
地方都市に根ざした高級フランス料理店という存在は、世界的に見ても決して珍しいものではない。フランス本国では、リヨン郊外のミヨネー村にアラン・シャペルの店があったように、豊かな自然や地域固有の食材に恵まれた場所で、その土地のテロワールを表現するグランメゾンが数多く存在する。日本においても、例えば長野県の軽井沢や新潟県の糸魚川、静岡県の焼津など、地方の豊かな食資源を背景に「デスティネーションレストラン」として注目される店が増えている。 これらのレストランは、その場所でしか味わえない料理を求めて、遠方から客が訪れることを前提としている。
しかし、オトワレストランが宇都宮という都市で約40年にわたりその地位を確立してきた背景には、他の地方フレンチとは異なる特異性がある。多くの地方レストランが、その地域の「自然」や「希少な食材」を前面に押し出すのに対し、音羽和紀は宇都宮という「都市」にありながら、栃木県全体の「農」と「食文化」を深く掘り下げてきた。
かつては東京に一流の食材が集まると考えられていた時代に、音羽は「地方にある食材は東京の数分の一かもしれないが、突き抜けているものばかり」と語り、積極的に地元の生産者と連携した。 これは、単なる地産地消という言葉が一般化するずっと以前から、その本質を捉えていたと言える。また、多くのフレンチレストランが都市部での開業を目指す中、故郷にこだわり続けた音羽の選択は、当時の日本の料理界においては異例だった。 この地方への強いコミットメントが、結果として宇都宮という地で独自の美食文化を育む土壌となったのだ。
現在のオトワレストランは、音羽和紀とその息子たち、長男の元、次男の創、そして長女の香菜という家族で運営されている。 和紀が厨房の指揮を長男の元に譲り、次男の創がサービスと料理のサポート、長女の香菜がウェディングやマネジメント業務を担当するなど、それぞれの役割を分担しながら、世代を超えて店の歴史を紡いでいる。
これは、日本の和食の世界では珍しくないが、1980年代以降に普及した街場のフレンチでは、代を重ねて継承される店はまだ少ないと言われている。 音羽和紀は「レストランは世襲でないと質を保って向上させ、スピリッツを継承していくことが難しい」という考えを持っており、その信念が家族経営という形に繋がっている。
オトワレストランは、2014年には世界的なホテル・レストラン組織「ルレ・エ・シャトー」に加盟し、その国際的な評価を確立した。 また、音羽和紀自身も「料理マスターズ」ゴールド賞や「ゴ・エ・ミヨ」トランスミッション賞など、数々の栄誉を受けている。 これは、単に美食を追求するだけでなく、食育活動や地域の農業振興、生産者との協働を通じて、栃木の食文化全体を底上げしようとする長年の活動が評価された結果でもある。 現在も、地元の小学校での料理教室や生産者との勉強会などを精力的に行い、食を通じた社会貢献を続けている。
宇都宮のオトワレストランの軌跡は、一人の料理人の個人的な選択が、いかにして地域全体の食文化に深く影響を与え得るかを示している。アラン・シャペルが示した「地方性への誇り」という概念を、音羽和紀は自身の故郷である栃木の地に持ち帰り、約40年かけて実践してきた。 この過程で、「地産地消」や「食育」といった言葉が一般的になる以前から、それらを先取りする形で取り組みを進めてきたことは、特筆すべき点だろう。
オトワレストランの存在は、美食が東京のような大都市に集中するという一般的な通念を覆し、地方の豊かな風土と、そこに根ざした料理人の情熱が、世界に通用する価値を生み出せることを証明している。それは、単に美味しい料理を提供するだけでなく、生産者との対話、次世代への継承、そして地域社会への貢献という多角的な活動を通じて、地方の食文化を持続可能なものへと昇華させる試みだ。音羽和紀が描いた「三世代100年かければ、宇都宮にもリヨンで見たような美食文化が定着するかもしれない」という夢は、彼と家族の活動を通じて、着実に現実の風景となりつつある。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。