2026/6/28
なぜ白浜は「日本三古湯」とリゾート地を両立できたのか

和歌山の白浜の歴史について詳しく知りたい。
キュリオす
和歌山県白浜の歴史を、飛鳥時代の「牟婁の温湯」から現代のリゾート開発まで辿る。温泉と白良浜の景観、交通網の整備が、この地を独自の魅力を持つ場所へと変えていった経緯を解説する。
白い砂と古の湯が語るもの
紀伊半島の南西に位置する白浜を訪れると、まず目に飛び込むのは、その名の通り白く輝く砂浜「白良浜」の光景だろう。石英質の砂が約620メートルにわたって広がり、青い海とのコントラストが南国のリゾート感を演出している。しかし、この地が単なる観光地として認識される以前から、白浜は独自の歴史を刻んできた。なぜこの場所が、これほどまでに人々を惹きつけ、時代とともにその姿を変えながらも、常に「特別な場所」であり続けてきたのか。その問いの答えは、遠い飛鳥時代にまで遡る温泉の歴史と、近代の交通網整備、そして時代ごとの人々の欲望が交錯する点に見出すことができるだろう。この白い浜辺に、古の天皇から現代の旅行者まで、多くの足跡が残されているのはなぜか。その背景には、一見すると分かりやすいリゾート地のイメージとは異なる、重層的な歴史が横たわっている。
「牟婁の温湯」から湯崎へ
白浜の歴史は、約1400年前の飛鳥時代にまで遡る。この地の温泉は『日本書紀』や『万葉集』に「牟婁の温湯(むろのゆ)」あるいは「紀の温湯(きのゆ)」としてその名が記されているのだ。斉明天皇3年(657年)には、孝徳天皇の皇子である有間皇子がこの牟婁の温湯に湯治のため滞在したと伝えられている。翌年には斉明天皇自身が、さらに持統天皇、文武天皇も行幸に訪れた記録が残る。日本という国家が形成される混乱期にあって、都の権力者たちが遠路はるばるこの地を目指した事実は、温泉が持つ特別な価値を物語るものだろう。白浜温泉は、兵庫県の有馬温泉、愛媛県の道後温泉と並び「日本三古湯」の一つに数えられ、その歴史の深さは他の追随を許さない。
当時の温泉利用は、現代のようなレジャー目的ではなく、病気や疲労の回復を目的とした「湯治」が中心だった。特に、海辺に自然に湧き出す高温の湯は、その効能が経験的に知られていたと考えられる。現在も残る「崎の湯」は、この古の湯治場の姿を今に伝える貴重な存在である。 太平洋の波が打ち寄せる岩場に設けられた湯壺は、自然の恵みをそのまま享受できる場所であり、当時の人々が感じたであろう「聖なる湯」としての感覚を現代に伝える。江戸時代に入ると、この湯崎温泉には文人や藩の武士、武家の女中などが訪れるようになり、湯治場としての賑わいを見せるようになった。 当時の交通手段は主に海路で、田辺市から船で渡るのが一般的だったという。
この時代、白浜はまだ「白浜」という総称ではなく、「湯崎」という地区名で呼ばれることが多かった。白浜という地名が広く使われるようになるのは、近代以降の観光開発と、それに伴う行政区画の再編が大きく関係している。古くは瀬戸村や鉛山村といった村名が存在し、現在の「白浜町」という名称が定まるまでには、地元の合意形成に紆余曲折があったことも資料から読み取れる。 温泉が湧き出す地質的な背景も重要だ。紀伊半島には火山帯がないにもかかわらず、白浜には豊富な温泉が湧出する。これは約1400万年前に発生した熊野カルデラなどの火山活動が、地下に温泉の通り道を作り、紀伊半島に沈み込むプレートの地熱によって温められた地下水や海水が湧き出すためと考えられている。 この地質的な条件が、太古の昔からこの地を特別な「温湯」たらしめてきた根源にあると言えるだろう。
汽船と鉄道が拓いた「リゾート」の道
白浜が古代からの湯治場から、現代的な観光リゾート地へと変貌を遂げる転換点は、明治時代以降の交通インフラの整備にあった。まず大きな変化が訪れたのは明治20年(1887年)のことである。紀州航路が開設され、大阪方面から汽船で直接白浜へ来ることができるようになると、温泉地としての発展は急速に進んだ。 それまで海路でのアクセスはあったものの、より大規模で定期的な航路の開設が、広域からの来訪者を促したのである。
この時期、湯崎海岸の岩場に自然噴出していた湯は、小石を敷いた共同の外湯として利用されていた。 しかし、明治末期から大正時代にかけては、温泉地としての整備が進み、大正11年(1922年)には「白浜館」が白浜で初めて源泉を掘削し、内湯を持つ旅館として開業している。 これは、従来の共同浴場中心の湯治文化から、個別の宿泊施設で温泉を楽しむという、より現代的な温泉旅館の形態への萌芽であった。
決定的な変化は、大正12年(1923年)の道路網の完成と、特に昭和8年(1933年)の鉄道開通によってもたらされた。 紀勢本線が白浜口駅(現在の白浜駅)まで延伸されると、阪神地方からの観光客が鉄道で容易にアクセスできるようになり、白浜は関西屈指の温泉観光地として広く認知されるようになったのだ。 鉄道は、それまでの海路や限られた道路に比べ、大量の旅客を安定的に輸送する能力を持っていた。これにより、白良浜を中心とした現在の白浜温泉街の骨格が形成され、大浦温泉や古賀浦温泉などの新たな温泉開発もこの頃に進められた。
この時期の白浜は、単なる湯治場に留まらず、「海」という新たな魅力を加えたリゾート地としての個性を確立していった。白良浜の白い砂浜と温暖な気候は、海水浴客を惹きつけ、「温泉と海水浴」という組み合わせが、他の温泉地にはない白浜独自の価値となった。 これにより、年間を通じて観光客が訪れる基盤が築かれ、町全体が「白浜温泉」として大きく発展する契機となったのである。 このように、交通インフラの飛躍的な進展が、白浜の温泉文化を湯治からリゾートへと転換させる決定的な要因となったことは明らかだ。
異なる魅力を競う温泉地
白浜温泉の発展を考える上で、他の著名な温泉地との比較は、その独自性を浮き彫りにする。日本三古湯とされる有馬温泉(兵庫県)や道後温泉(愛媛県)もまた、古代からの歴史を持つ温泉地である。有馬温泉は古くから都に近い温泉として、皇族や貴族に利用されてきた歴史があり、その湯は療養泉としての評価が高い。道後温泉もまた、聖徳太子が訪れたという伝説を持ち、道後温泉本館のような象徴的な共同浴場を中心に独自の文化を育んできた。これら三古湯は、いずれも長い歴史と皇室との関わりを持つ点で共通するが、白浜の特異性は、その「海辺のリゾート」としての性格にある。
有馬温泉が山間に湧く金泉・銀泉で知られ、道後温泉が都市型の共同浴場文化を発展させたのに対し、白浜は「白良浜」という美しい砂浜と、太平洋を望む景観を最大の魅力としてきた。 これは、温泉地としての機能に加えて、海水浴やマリンスポーツといった「海辺のレジャー」を組み合わせた、複合的なリゾートとしての発展を可能にした。大正時代以降の交通網整備が、この「海と温泉」という組み合わせを関西圏に広く知らしめる上で決定的な役割を果たしたことは前述の通りだ。
また、熱海温泉や別府温泉といった、明治以降に急速に発展した大規模な温泉観光地と比較すると、白浜の発展過程には異なる側面が見えてくる。熱海は東京からのアクセスの良さと相まって、歓楽街としての性格を強め、団体旅行や企業の保養所が多く立地した。別府は「地獄めぐり」に代表されるように、温泉そのものの多様な景観を観光資源として前面に押し出した。これに対し、白浜は温泉と自然景観(白良浜、円月島、千畳敷、三段壁など)を両立させ、さらに後述するテーマパークの導入によって、より多様な客層を取り込む戦略をとってきた。
さらに、白浜の温泉は、火山帯に位置しない紀伊半島において、プレートの沈み込みによる地熱で温められた地下水が湧出するという、地質学的な興味深さも持つ。 このように、白浜は単に古くから温泉があったというだけでなく、その立地条件と自然環境が、他の温泉地とは異なる独自の発展経路を辿らせたと言えるだろう。海と温泉、そして豊かな自然景観という三つの要素が重なり合うことで、白浜は単なる湯治場でも、単なる海水浴場でもない、独自の「リゾート」としての地位を確立していったのだ。
団体旅行からワーケーションへ
昭和に入り鉄道が開通し、関西有数の温泉地としての地位を確立した白浜は、戦後、さらなる発展を遂げる。特に高度経済成長期には、「新婚旅行のメッカ」として全国的な知名度を得た。 この時期、白良浜周辺には大型ホテルや旅館が次々と建設され、団体旅行客を主なターゲットとした観光開発が進められた。 1960年には年間の宿泊客数が100万人を突破し、東京オリンピック(1964年)や大阪万国博覧会(1970年)といった好景気も相まって、白浜は観光地として最盛期を迎える。
この時期の白浜の発展を象徴する施設の一つが、昭和43年(1968年)に開港した旧南紀白浜空港である。 これにより、東京羽田からわずか1時間40分でアクセスできるようになり、遠方からの観光客誘致に大きな役割を果たした。 さらに、昭和53年(1978年)には「南紀白浜ワールドサファリ」として開業したアドベンチャーワールドが誕生。 動物園、水族館、遊園地を併設するこのテーマパークは、特にジャイアントパンダの飼育繁殖で知られるようになり、温泉や海に加えて、ファミリー層を強く惹きつける新たな観光の核となった。
しかし、1973年の石油危機以降、日本の観光の形態は団体旅行から小グループや家族旅行へと変化していく。 これに対応するため、白浜も多様なニーズに応えるべく変革を迫られた。バブル経済崩壊後、多くの企業の保養所が閉鎖されるなど、厳しい時期も経験している。 2005年度には宿泊人数が100万人を割り込むなど、一時期はかつての賑わいを失いかけたこともあった。
現代の白浜は、こうした変化に適応しながら新たな価値を模索している。2019年には南紀白浜空港がコンセッション方式で民営化され、運営会社が空港の活性化に取り組んでいる。 また、近年ではテレワークの普及に伴い、観光地で余暇を楽しみながら仕事をする「ワーケーション」という新しい働き方が注目され、白浜もその受け入れに力を入れている。 温泉、白良浜、円月島、千畳敷、三段壁といった景勝地、そしてアドベンチャーワールドという多様な観光資源を組み合わせることで、年間を通じて観光客が訪れる地域へと進化を続けているのだ。
移ろう風景と変わらぬ引力
白浜の歴史を辿ると、この地が常に「人々の求めるもの」に応えながら変化してきたことがわかる。古代には病を癒す「牟婁の温湯」として都の貴人たちを惹きつけ、江戸時代には文人墨客の訪れる湯治場となった。 明治以降は、汽船や鉄道といった交通網の発展とともに「海辺の温泉リゾート」としての顔を持ち、戦後は団体旅行や新婚旅行のブームの中で大規模な観光開発が進められた。
現代においても、白浜は変化を続けている。アドベンチャーワールドのようなテーマパークや空港の整備は、かつての湯治場とは異なる客層を呼び込み、多角的な魅力を創出してきた。 そして、近年ではワーケーションといった新たなライフスタイルに対応しようとする動きも見られる。 しかし、その根底には、太古から変わらず湧き続ける温泉と、石英質の白い砂が織りなす白良浜の景観という、この地の本質的な魅力が存在し続けている。
白浜の歴史は、単一の要素で語り尽くせるものではない。温泉という自然の恵み、白良浜という稀有な景観、そしてそれらをつなぐ交通網の整備が、時代ごとの人々の移動や余暇のあり方と複雑に絡み合ってきた。その結果、白浜は「日本三古湯」の一つという歴史的な重みと、「南紀リゾート」としての現代的な開放感を併せ持つ、独特の場所として存在している。海と温泉という二つの軸を核に、変化を恐れず、常に新しい「顔」を創り出してきたことが、この地が今日まで多くの人々を惹きつけ続ける理由ではないだろうか。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
参考
- 白浜温泉の歴史 – 海ゆぅ庭kaiyutei.jp
- 白浜温泉:日本三大古湯のひとつで、関西屈指のリゾート - 日本の観光情報メディア"att.JAPAN"att-japan.net
- 名湯と名物:JR西日本westjr.co.jp
- 源泉豊富な南紀白浜 - 南紀白浜観光協会nankishirahama.jp
- 白浜温泉街はどのように発展したのか?温泉観光地の歴史を探る|白浜温泉 紀州半島note.com
- 【絶景温泉】1300年の歴史を誇る白浜温泉「崎の湯」に入浴! | ニッポン旅マガジンtabi-mag.jp
- 【温泉突撃リポート#12】日本三古湯のひとつ、白浜温泉の「最新&定番」ガイド | ゆこたびyukotabi.yukoyuko.net
- 白浜温泉の始まりとは?飛鳥時代から続く南紀の湯文化をたどる旅|白浜温泉 紀州半島note.com