2026/7/2
神戸・甲陽学院はなぜ「自由と自律」を重んじるのか

神戸の甲陽学院中学・高等学校について詳しく教えてほしい。
キュリオす
神戸の甲陽学院中学・高等学校は、創設者の教育理念と地域の名家の支援により、独自の校風を築いてきた。この記事では、その歴史的経緯と、生徒の自律性を育む教育の骨子を辿る。
阪神間の丘に立つ学び舎
兵庫県南東部、大阪湾を望む阪神間には、古くから名門と呼ばれる私立学校が点在する。その中でも、西宮市に位置する甲陽学院中学・高等学校は、長年にわたり知的な探求と人間形成の場として、特別な存在感を放ってきた。阪神電車香櫨園駅から中学校へ、さらに阪急甲陽園駅から高校へと、生徒たちはそれぞれの校舎へ向かう。この地域が持つ文化的な土壌と、学校が掲げる教育理念がどのように結びつき、独自の校風を築き上げてきたのか。一般的な進学校とは異なる、その「自由」と「自律」のあり方が、甲陽学院を語る上で常に中心にある。
瓦斯王の私塾から旧制甲陽中学校へ
甲陽学院の歴史は、1917年(大正6年)に伊賀駒吉郎によって設立された「私立甲陽中学」に遡る。伊賀は、官立学校の画一的な教育に飽き足らず、型にはまらない自由な私学の創設を志したという。当初の学校は武庫郡今津村大字今津(現在の西宮市甲子園高潮町)に位置し、あたり一面がイチゴ畑というのどかな環境であった。しかし、第一次世界大戦終結後の不況により、学校経営は早くも窮地に陥る。
この危機を救ったのが、灘五郷の酒造家であり、「白鹿」の銘柄で知られる辰馬本家の十三代当主、辰馬吉左衛門であった。彼は教育・文化への造詣が深く、伊賀の教育理念に共感し、私財を投じて学校を支援することを決断する。1920年(大正9年)3月、辰馬吉左衛門は「財団法人辰馬学院甲陽中学校」を創設し、伊賀の私立甲陽中学を継承した。これにより、甲陽学院は安定した経営基盤を得ることとなったのだ。 初代理事長には縁戚の辰馬勇治郎が就任し、現在も辰馬家が理事長を務めている。
辰馬吉左衛門の支援は物質的なものに留まらなかった。1929年(昭和4年)には、彼個人の寄付により、甲子園に地上3階、地下1階の鉄筋校舎が建設された。 これは当時の建築技術から見ても画期的なものであったろう。しかし、第二次世界大戦後の学制改革は、学校の体制に大きな変化をもたらす。1947年(昭和22年)には、甲子園の旧制中学校を高等学校とし、西宮市中葭原町に新制の甲陽学院中学部が新設された。 これにより、甲陽学院は中高別々の学舎を持つことになったのである。
さらに時代が進むと、甲子園の高校校舎周辺の環境が悪化する。阪神電車や国道43号線に挟まれた立地は、騒音や排気ガスに悩まされ、教育の場としては不適切と判断されるようになった。そこで、辰馬家は再び学校の発展に寄与する。甲山山麓に辰馬家が所有していた「聖地」とも呼ばれる広大な土地を学校に提供し、1978年(昭和53年)4月に高等学校は現在の西宮市角石町へと新築移転した。 中学校も1993年(平成5年)8月に新校舎を竣工させ、旧校舎は講堂や体育館などに改築された。 このように、甲陽学院の歴史は、創設者の教育への情熱と、それを支え続けた地域の名家の篤志によって形作られてきたと言える。
自由と自律を育む教育の骨子
甲陽学院の教育は、「型にはまらないで自由に育てたい」という建学の精神に根ざしている。その実践は、生徒の自律性を重んじる校風と、それを支える独自のカリキュラムと教員体制に見て取れる。
まず、中学校と高等学校が物理的に離れた場所に設置されている点である。中学校は香櫨園の海側に、高等学校は甲陽園の山側に位置する。 これは、生徒の発達段階に合わせた教育環境を整えるためであり、中学校では基礎学力と生活習慣の確立に重点を置き、高等学校では自主性と創造性の伸長を重視している。 この中高分離が、一貫校にありがちな「中だるみ」を防ぐ効果も期待されているという。
学習指導においては、6年間一貫のカリキュラムが組まれているが、その運用は各教科の担当教員に大きく委ねられている。 教員は生徒の習熟度に応じて授業の進捗を調整し、国語、数学、英語の主要3教科では、中学1年から高校3年まで原則として同じ教員が担当することが多い。 これにより、教員は生徒一人ひとりの学習状況や精神的な成長を継続的に見守ることが可能となる。補習制度は原則として設けられていないが、必要に応じて個別指導が行われることもある。 この方針は、生徒が自ら予習復習を行い、主体的に学習に取り組む姿勢を育むことを目的としている。 習熟度別クラス編成や文理コース分けをせず、中学1年から高校3年まで全クラス平等編成であることも特徴だ。 これは、多様な能力を持つ生徒が互いに教え合い、学び合うことで絆を育むという考えに基づいている。
また、「明朗・潑溂・無邪気」という校風のもと、生徒たちは学校行事やクラブ活動の企画・運営に主体的に関わる。 体育祭や音楽と展覧の会といった主要行事は、生徒による実行委員会が中心となって運営され、全員が積極的に参加することが奨励されている。 クラブ活動も入部制限がなく、兼部も可能であり、活動時間は最終下校時刻の17時までと定められている。 学業成績不振者に対しても、即座に活動停止とせず、学習とクラブ活動の両立ができるよう個々に判断されるなど、生徒の自主性を尊重する姿勢が貫かれている。
甲陽学院には寮制度がない。 これは、生徒が家庭生活の中で自らを律し、学校と家庭の双方でバランスの取れた成長を促すという教育方針の表れとも解釈できる。 このように、甲陽学院の教育は、単に進学実績を追求するだけでなく、生徒が自ら考え、行動し、社会で活躍できる「気品高く教養豊かな有為の人材」を育成することを目指していると言えるだろう。
灘、開成、そして甲陽の道
日本の最難関私立男子中高一貫校として、甲陽学院はしばしば他の名門校と比較される。特に兵庫県内で並び称される灘中学校・高等学校、そして関東を代表する開成中学校・高等学校との比較は、それぞれの学校が持つ教育理念や校風の独自性を浮き彫りにする。
灘中学校・高等学校は、甲陽学院と同様に兵庫県に位置し、全国トップクラスの大学進学実績を誇る。 灘もまた「自由な校風」を掲げ、個々の自主性を重んじた教育が行われている点では甲陽と共通する。 しかし、灘が特に理系分野、とりわけ東京大学理科三類への圧倒的な合格者数で知られるのに対し、甲陽学院は京都大学や大阪大学、そして国公立大学医学部への高い進学率を誇るという傾向が見られる。 灘の創立が1927年であるのに対し、甲陽は1917年創立とやや歴史が長い。 また、灘が教員と生徒の距離が近く、議論を重んじる校風であるのに対し、甲陽は教員が「目は離さないが干渉せず、失敗さえも黙って見守る」という、より生徒の内発的な成長を待つ姿勢が強いとも評される。 灘と甲陽の間では、1953年(昭和28年)から毎年サッカーの定期戦が行われており、両校の交流の歴史は長い。
一方、関東の雄である開成中学校・高等学校もまた、自由と自主を重んじる教育で知られる。開成は1871年(明治4年)創立と、甲陽よりもさらに長い歴史を持つ。 開成は東京大学への合格者数で長年全国一位を維持しており、その学力水準は極めて高い。 開成も甲陽と同様に、生徒の自主的な活動を奨励し、学習面でも生徒自身が課題を見つけ、解決する力を育むことに注力している。しかし、開成が東京という大都市の中心に位置し、多様な情報や刺激に触れる機会が多いのに対し、甲陽は西宮の閑静な住宅街に校舎を構え、落ち着いた環境で学びに集中できるという地理的な違いがある。
これらの学校に共通するのは、単なる知識の詰め込みではなく、生徒の知的好奇心を刺激し、自ら学ぶ力を養うことに重きを置いている点だろう。同時に、それぞれの創立の経緯や地域性が、教育の特色に影響を与えている。灘が講談社によって創立され、学問探求に特化した教育を目指したのに対し、甲陽は新聞事業で成功した村山龍平の教育への思いと、辰馬吉左衛門の篤志によって支えられ、「在野精神」や「起業精神」を育むことを重視してきた。 また、甲陽が中高の校舎を分けることで、生徒の発達段階に応じた環境を整備しているのは、他の多くの完全中高一貫校とは異なる特徴である。 このように、各校がそれぞれの道を歩みながら、日本のエリート教育の一翼を担っているのだ。
阪神間の住宅街に溶け込む学園
甲陽学院の現在の姿は、阪神間の高級住宅街に静かに溶け込みながらも、その教育活動は活発である。中学校は西宮市中葭原町に、高等学校は西宮市角石町にそれぞれ独立したキャンパスを構えている。 中学校は阪神本線香櫨園駅から徒歩10分、JR神戸線さくら夙川駅から徒歩17分、阪急神戸線夙川駅から徒歩20分と、比較的交通の便が良い場所にあり、通学路には桜の名所である夙川オアシスロードが含まれる。 一方、高等学校は阪急甲陽線甲陽園駅から徒歩20分と、やや坂道を登る立地だが、その分、西宮市北西部の緑豊かな小高い丘に位置し、京阪神間を一望できる景観を持つ。 授業中にウグイスの鳴き声が聞こえることもあるという、静かで落ち着いた環境だ。
キャンパス内には、それぞれに講堂、体育館、テニスコート、プール、図書室、食堂などが独立して整備されており、生徒たちは発達段階に適した環境で学校生活を送っている。 特に中学校では、2017年に創立100周年を記念して新講堂が建設されるなど、施設の充実も図られている。 生徒たちは「明朗・溌溂・無邪気」という校風のもと、学業だけでなく、クラブ活動や学校行事にも積極的に参加している。 例えば、文化祭では生徒たちが段ボール紙で人が乗れる船を作りプールに浮かべたり、ペットボトルのキャップ15万個を使って巨大アートを制作したりするなど、独創的な活動が見られる。 クラブ活動も多様で、入部制限がなく兼部も可能であり、テニス部など実績のあるクラブも存在する。
現在の甲陽学院は完全な中高一貫校であり、高等学校での生徒募集は行われていない。 中学校で一定の条件を満たした生徒は、無試験で高等学校に進学できる仕組みである。 卒業生は、例年多くの生徒が東京大学、京都大学をはじめとする国公立大学や難関私立大学に進学しており、特に医学部への進学者が多い傾向にある。 例えば、2025年度の合格実績では、京都大学に47名(うち現役34名)、東京大学に32名(うち現役22名)が合格している。
現代の教育課題としては、少子化や大学入試改革への対応などが挙げられるが、甲陽学院では「大学進学の際に生徒の希望を叶える」という教育方針のもと、従来の学習方法を継続し、新テストにも対応できる力を養うことを重視している。 担任団は原則として6年間持ち上がり制で、生徒の学習面だけでなく精神面も継続的にケアする体制が整えられている。 教員の質も高く、生徒の興味を引き出す工夫が随所に見られるという評価もある。 甲陽学院は、その立地、施設、そして教育内容において、生徒たちが自律し、深く学び、社会で活躍するための基盤を築き続けていると言えるだろう。
創業者の精神が息づく場所
甲陽学院が、単なる進学校の枠に収まらない独自の存在感を放つ理由は、その創立の理念と、それが時代を超えて受け継がれてきた経緯にある。多くの名門校が、特定の学問分野や特定の階層の子弟教育を目的として始まったのに対し、甲陽学院の根底には「生徒を型にはめないで自由に育てたい」という、個人の天賦の才能を最大限に開花させようとする強い意志が存在した。
この精神は、創設者の伊賀駒吉郎が官立学校の画一性を批判し、自由な私学を追求したことに始まり、それを経済的に支えた辰馬吉左衛門の「天下の英才を教育して、各其の天稟を發揮せしめ、光彩陸離百花爛漫の偉観を現出するは、啻に国家百年の大計たるのみならず、人生の快事之れより大なるは無かる可し」という言葉に集約されている。 この言葉は、教育が個人の幸福と国家の繁栄双方に寄与するという、壮大なビジョンを示している。
甲陽学院の「自由な校風」は、放任とは異なる。むしろ、中学段階では規律や礼儀作法を重んじ、基礎的な学力と生活習慣を徹底することで、高校での「自主性」と「創造性」を育む土台を築いている。 中高で校舎を分けるという物理的な配置も、この発達段階に応じた教育方針の表れである。 教員が「目は離さないが干渉せず、失敗さえも黙って見守る」という姿勢は、生徒が自らの内なる声に耳を傾け、自律的に成長する機会を与えるものだ。 これは、銘酒の醸成のように、焦らず競わず衒わず、長期的展望に立った人間教育を目指すという理念とも通じる。
甲陽学院は、単に大学合格実績の数字だけで語られるべきではない。そこには、創立以来変わることのない、個人の尊厳と可能性を信じる教育哲学が息づいている。阪神間の静かな丘に立つ校舎から、今日も「明朗・潑溂・無邪気」な生徒たちの声が響く。彼らは、与えられた道を歩むのではなく、自らの力で未来を切り拓くための「在野精神」と「起業精神」を、この学び舎で静かに育んでいるのだろう。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
参考
- 蔵元が育んだ名門校のいま/学校法人 辰馬育英会 甲陽学院中学校・高等学校 校長 山下正昭さん | 神戸っ子kobecco.hpg.co.jp
- 甲陽学院中学校・高等学校 - Wikipediaja.wikipedia.org
- 学校法人辰馬育英会 甲陽学院中学校・甲陽学院高等学校koyo.ac.jp
- 文教都市西宮で100年の歴史を刻む紳士の学校|連載 神様に愛された地、夙川③ | 神戸っ子kobecco.hpg.co.jp
- 甲陽学院中学校・高等学校 | 中学受験ニュース【浜学園】hamagakuen.co.jp
- 甲陽学院中学校:2024学校説明会レポート|受験ライフをサポートする 進学情報誌 さぴあsapia.jp
- 甲陽学院中学校 - 私立中学・高校へ行こう! 関西の私立中学・高校を目指す受験生、保護者を応援する中高進学・入試説明会最新情報ksf-site.com
- 学校法人辰馬育英会 甲陽学院中学校・甲陽学院高等学校koyo.ac.jp