2026/6/7
佐渡金山と参勤交代を支えた三国街道の道筋

三国街道とは何か??詳しく教えて欲しい。
キュリオす
江戸幕府が佐渡金山の金輸送のために整備した三国街道。群馬県高崎宿から新潟県寺泊宿までの約200kmを結び、険しい三国峠を越えて太平洋側と日本海側を結んだ。五街道とは異なる、特定の目的のために機能した脇往還の歴史を辿る。
上越国境、群馬と新潟の県境に立つと、目の前にそびえる山々は、ただの風景ではないことに気づかされる。そこには、かつて人々が命を懸けて往来した、幾重もの歴史が刻まれている。その中でも特に重要な道の一つが「三国街道」である。なぜこれほどまでに険しい山中に、重要な街道が整備されたのか。その問いは、日本の歴史における太平洋側と日本海側の繋がり、そして人々の暮らしと物資の流れを深く見つめ直すきっかけとなるだろう。
三国街道の歴史は、江戸時代の幕府による整備に始まると思われがちだが、その起源はさらに古い。群馬県と新潟県の魚野川流域に残る古墳の類似性から、5世紀頃には既にこの三国峠を越える交通があったと推定されている。古くは「三坂峠」とも呼ばれ、都へ通じる官道としての役割を担っていたとする説もあるほどだ。中世に入ると、越後の守護である上杉氏が関東管領と密接な関係を築き、戦国時代には上杉謙信が関東遠征の際に軍用道路として利用したことも知られている。この軍事的な要衝としての価値は、「越山」と呼ばれ、清水峠や土樽越えと並んで重視された。
江戸時代に入ると、三国街道の性格は大きく変わる。慶長10年(1605年)頃、関ヶ原の戦いで覇権を握った徳川家康が全国支配を強化する中で、江戸幕府は佐渡金山の金輸送を目的として、三国街道の本格的な整備を開始した。 佐渡で産出される金は幕府の財政を支える重要な財源であり、その輸送路の確保は喫緊の課題だった。街道は中山道の上野国高崎宿(現在の群馬県高崎市)から分岐し、三国峠を越えて越後国寺泊宿(現在の新潟県長岡市寺泊地域)に至る約200キロメートルに及んだ。 このルートは、太平洋側と日本海側を結ぶ最短路の一つであり、佐渡奉行の往来や、長岡藩、与板藩、村松藩などの越後諸藩の参勤交代路としても利用され、幕府からも五街道に次ぐ重要な脇往還として位置づけられたのである。
三国街道の最大の特徵であり、また最大の難所でもあったのが、その名の由来となった三国峠である。標高1,244メートルのこの峠は、上野国と越後国の境、そして文化・習俗・言語・気象に至るまで様々な境界として機能してきた。 険しい地形に加え、冬には豪雪と雪崩、夏には集中豪雨による土砂災害が頻発し、旅人にとっては街道最大の難所とされた。 文政13年(1830年)から明治2年(1869年)までの記録には、冬季の通行が極端に少なく、雪崩に巻き込まれて死亡した事例も残されているほどだ。
しかし、こうした困難にもかかわらず、三国街道は人々と物資を運び続けた。街道沿いには35もの宿場が設けられ、旅籠や茶屋、馬の乗り換え所などが整備された。 群馬県側の金井宿には、佐渡へ送られる罪人を一時収監するための地下牢の遺構が残されており、当時の厳しい実態を今に伝えている。 また、吾妻川の渡河点には杢ヶ橋関所、三国峠下には猿ヶ京関所が設けられ、人や物資の出入りが厳しく管理された。 越後からは米や海産物、越後上布などの織物が、江戸からは様々な文化や情報がこの道を通って運ばれていった。特に佐渡金山の金は、北国街道と並んで三国街道を主要な経路として江戸へ輸送されたが、その険しさゆえに北国街道が主要な運搬路となることもあったという。
江戸時代の主要な交通網といえば、江戸を起点とする東海道、中山道、日光道中、奥州道中、甲州道中の「五街道」が知られている。これらは幕府が直接管理し、宿場や一里塚の整備、道幅の確保など、体系的に整備された幹線道路であった。 大名の参勤交代や幕府の公用が優先され、その運営は厳格だった。
一方、三国街道は五街道に次ぐ「脇往還」の一つと位置づけられていた。 五街道が全国の大名を統制し、経済・文化の中心である江戸と各地を結ぶことを主眼としていたのに対し、三国街道はより具体的な目的に特化していた側面がある。それは佐渡金山の金輸送と、越後諸藩の参勤交代という、軍事的・経済的に極めて重要な役割だった。五街道が「広域的な統制と流通」を担ったとすれば、三国街道は「特定の重要拠点への最短ルート」という、より限定的だが不可欠な機能を持っていたと言える。五街道が比較的平坦な区間を多く含むのに対し、三国街道は常に山岳地帯の厳しい自然条件と向き合わなければならなかった点も、その性格を大きく異ならせる要因だった。
明治時代に入ると、日本の交通網は大きく変革期を迎える。1876年(明治9年)には三国街道も一時的に一等国道に指定されたものの、その後の鉄道網の発達により、その主要な役割は失われていった。1893年(明治26年)に碓氷峠を越える信越本線が開通すると、群馬・新潟間の交通は鉄道へとシフトし、宿場町は衰退の一途を辿る。 さらに昭和6年(1931年)に清水トンネルを通過する上越線が開通すると、三国街道は上越の交通路としての重要性を完全に失うこととなる。
しかし、その道筋が完全に消え去ったわけではない。現在、三国街道の多くは国道17号線として整備され、三国トンネルがその役割を担っている。 一方で、かつての旧街道の一部は「三国路自然歩道」として整備され、ハイキングコースとして利用されている。 群馬県みなかみ町から新潟県湯沢町にかけては、当時の街道の景観が比較的よく保全されており、文化庁の「歴史の道百選」にも選定されている区間がある。 湯沢町三俣地区には、江戸時代に建てられた三国街道の脇本陣跡「池田家」が現存し、当時の旅の様子を伝える貴重な文化財となっている。 川端康成の小説『雪国』の舞台となった湯沢温泉も、かつて三国街道の宿場町として栄えた場所である。
三国街道を辿ることは、単に過去の道を歩くことではない。それは、厳しい自然と向き合いながら、特定の目的のために道を整備し、維持してきた人々の営みを追体験することだ。佐渡金山の金が江戸の財政を支え、参勤交代の大名行列が権威を示し、罪人が流されていった現実。これらの具体的な事実は、現代の幹線道路が持つ効率性とは異なる、切実な必要性によって街道が形作られたことを物語る。
太平洋側と日本海側を結ぶ最短路という地理的条件が、軍事的な要衝、そして経済的な大動脈としての三国街道の価値を決定づけた。その重要性は、五街道という国の基幹インフラとは異なる文脈で、しかし同等かそれ以上に、当時の日本の政治と経済を支えていたと言えるだろう。現代の旅人が目にする旧街道の石畳や宿場の遺構は、単なる歴史の痕跡ではなく、峠を越えるたびに繰り返された決意と、その決意を支えた社会の構造を静かに問いかけてくるのだ。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。