2026/6/27
関宿の「関の戸」と「山菜おこわ」はなぜ名物になったのか

関宿の名物や銘菓について詳しく教えて欲しい。
キュリオす
三重県亀山市の関宿は、江戸時代に東海道の宿場町として栄えた。当時の旅人をもてなした銘菓「関の戸」や、旅籠の味を伝える「山菜おこわ」が、今もこの地の名物として残り続ける理由を、歴史的背景や他の地域の菓子との比較から探る。
白壁の町に残る旅の味覚
東海道五十三次の宿場町として、三重県亀山市の関宿を訪れると、その白壁と格子窓が連なる町並みに、時間が止まったかのような錯覚を覚える。国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されたこの地は、江戸時代の面影を色濃く残している。しかし、単に古い建築が保存されているだけではない。この町を歩くと、かつての旅人たちが求めたであろう、特定の味覚が今も息づいていることに気づく。なぜ、この歴史的な宿場町では、特定の菓子や食事が名物として残り続けているのか。その問いは、かつての往来の賑わいを想像させ、土地の歴史と人々の営みへと誘う。
古代から続く街道の交差点
関宿の歴史は古く、その名は7世紀に置かれた古代三関の一つ「鈴鹿関」に由来するとされる。以来、都と東国を結ぶ交通の要衝として栄えてきた。江戸時代に入ると、徳川幕府によって宿駅制度が整備され、関宿は東海道五十三次の日本橋から数えて47番目の宿場町となる。東西約1.8kmにわたる町並みには、本陣や脇本陣、旅籠、問屋場などが軒を連ね、旅の便宜を図る施設が集中した。
関宿は、単に東海道の宿場であるだけでなく、東の追分からは伊勢別街道が、西の追分からは大和街道が分岐する、交通の要衝でもあった。 このため、参勤交代の大名行列や伊勢参りの人々、商人など、あらゆる身分の旅人が行き交い、町は常に活気に満ちていた。彼らは長旅の疲れを癒し、故郷への土産を求める場所として、関宿を利用したのである。天保14年(1843年)の「東海道宿村大概帳」によれば、関宿には家数632軒、本陣2、脇本陣2、旅籠屋42があったと記録されており、その規模と重要性がうかがえる。 このような背景が、特定の品物が名物として定着する土壌を育んだと言えるだろう。
旅路を支えた甘味と滋味
関宿の名物としてまず挙がるのは、銘菓「関の戸」である。これは、寛永年間(1640年頃)に創業した老舗和菓子店「深川屋陸奥大掾」が380年以上にわたり作り続けてきた餅菓子だ。 小豆のこし餡を求肥餅で包み、その表面に徳島産の阿波和三盆糖をまぶした一口大の菓子は、鈴鹿山脈に降り積もる白雪に見立てられているという。 初代・服部伊予保重は伊賀流忍者の末裔とされ、菓子作りは忍びの隠れ蓑であったという伝承も残る。 参勤交代の大名たちにも愛され、京都の仁和寺の御用達菓子司に任命されたことで、深川屋は「陸奥大掾」の官位を拝命した。 「関の戸」という名は、関宿の東西にあった「関所の門(戸)」に由来すると言われ、この土地の歴史を菓子に込めたものである。
もう一つの名物として、「会津屋」の「山菜おこわ」が挙げられる。会津屋は、かつて「関で泊まるなら鶴屋か玉屋、まだも泊まるなら会津屋か」と謡われたほどの大旅籠の一つであった。 現在はお食事処として営業し、薪をくべた昔ながらの竈(かまど)で蒸し上げる山菜おこわを提供している。 三重県産のもち米とうるち米、地元の鶏肉、滋賀県唐戸川産の原木椎茸など、地元の食材を大切にしている点が特徴だ。 強い火力で蒸し上げられたおこわは、もちもちとした食感と豊かな風味が旅人の空腹を満たし、温かい出汁にこだわった「街道そば」もまた、会津屋の滋味深い一品として知られている。
さらに、前田製菓が復活させた「志ら玉」も関宿の銘菓として親しまれている。 こしあん入りの団子餅で、こちらも旅人が手軽に食べられる甘味として重宝されたのだろう。 これらの品々は、いずれも長距離を移動する旅人の「食」のニーズに応える形で発展してきたと言える。
街道の餅菓子と地域の差異
街道沿いの宿場町には、それぞれ独自の餅菓子や特産品が生まれた。関宿の「関の戸」もその一つだが、他の地域の銘菓と比較すると、その独自性がより明確になる。例えば、伊勢参宮街道で有名な伊勢の「赤福餅」は、餅の上に餡を乗せた形で、伊勢神宮への参拝客をもてなすために発展した。 赤福餅が伊勢神宮という特定の目的地と深く結びつき、その素朴な形で広く親しまれたのに対し、「関の戸」は、宿場町という通過点における「土産物」としての性格が強く、さらに大名や朝廷への献上品という格式を持つ点で異なる。和三盆の上品な甘さと、鈴鹿の雪に見立てた繊細な意匠は、単なる腹ごなしの菓子を超えた文化的な側面を帯びていたと言えるだろう。
また、近隣の滋賀県や京都府で広く親しまれる「丁稚羊羹」は、小豆餡に小麦粉などを混ぜて蒸し、竹の皮で包むのが特徴だ。 寒天が貴重であった海のない地域で、その代わりとして小麦粉を使ったという由来や、丁稚奉公の少年が安価な土産として持ち帰ったという説がある。 このように、丁稚羊羹が庶民的で日持ちがするという実用性から発展したのに対し、関の戸は、より上質な材料と手間をかけ、格式ある贈答品としての需要に応えた。同じ餅菓子や餡菓子であっても、それぞれの土地の歴史的背景や、利用した人々の階層、求める用途によって、その姿と性格は多様に分かれていったのである。
食事においても、会津屋の「山菜おこわ」は、旅籠で提供された「旅人の食事」の典型を今に伝える。竈で炊き上げるという伝統的な調理法は、現代の効率的な調理とは一線を画し、手間ひまかけた滋味深さを追求する姿勢が見て取れる。旅籠の食事は、その土地で手に入る食材を使い、旅の疲れを癒す栄養と温かさが求められた。山菜おこわは、そうした宿場町の食文化の一端を、具体的な形で現代に伝えていると言える。
変わらぬ製法と新たな試み
現在、関宿の町並みは、1984年(昭和59年)に国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されたことで、その歴史的景観が保たれている。 この保存活動は、単に建物を維持するだけでなく、そこに息づく文化や生業をも守り伝えることにつながっている。
「深川屋陸奥大掾」では、今も江戸時代に書かれた「菓子仕法控」に忠実に、貫や匁といった昔の単位で材料を計量し、夜明け前から餅粉と水あめを練り上げて求肥を作り、北海道産小豆のこし餡を包んで和三盆をまぶすという伝統の製法を守り続けている。 水を一切使わずに炊き上げる赤小豆のこし餡は、糖度が高く日持ちも長いが、口溶けの良い上品な味わいを保つ。 このように、手間を惜しまず、品質を守り抜く姿勢が、400年近い歴史を支えてきたのだ。近年では、伝統の味に加えて、地元産の「亀山茶」の石臼挽き粉末茶をまぶした「お茶の香 関の戸」なども開発し、新たな魅力を発信している。
「会津屋」もまた、江戸後期に建てられた旅籠の建物を活用し、昔ながらの竈を使った調理を続けている。 地元の食材を活かした山菜おこわや街道そばは、観光客に往時の旅人気分を味わわせる。また、会津屋の先代が考案した、料理のアク取りに使うキッチンツール「アクピタ」は、地元の食文化に根ざした知恵が現代にも生きている例と言えるだろう。 これらの店は、単なる土産物店や飲食店ではなく、関宿の歴史と文化を伝える「生き証人」として、現代の旅人たちを迎えている。
街道に息づく味の記憶
関宿を歩き、その名物や銘菓を味わうことは、単に舌を満たす行為に留まらない。そこには、古代から交通の要衝として栄え、江戸時代には東海道の重要な宿場として機能したこの地の歴史が凝縮されている。鈴鹿の山並みに見立てた「関の戸」の和三盆の白さには、旅人が越えてきたであろう険しい峠の情景が重なり、竈で炊かれた「山菜おこわ」の滋味には、長旅の空腹を満たした宿場の温かさが宿る。
これらの味覚は、かつて旅人たちが道中で求めた「特別」であり、同時に「日常」であった。大名への献上品として磨き上げられた「関の戸」の洗練と、庶民の旅路を支えた「山菜おこわ」の素朴さ。その両方が、この小さな宿場町で育まれ、現代にまで伝えられている。関宿の食文化は、単一の要素で語れるものではなく、多様な人々が行き交う街道の交差点であったがゆえに、様々な需要に応えながら発展してきた複雑な歴史の層を映し出しているのだ。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
参考
- 【歴史スポット】旅行で訪れたい三重・亀山の関宿を紹介 | 隠れ家ヴィラ、別荘をシェアする会員制リゾート「GFC」gfc.co.jp
- 関宿を歩くkankomie.or.jp
- 関宿 | あいち歴史観光rekishi-kanko.pref.aichi.jp
- 歴女も圧巻の宿場町関宿/ホームメイトtouken-world.jp
- 関宿(東海道 - 亀山~関) - 旧街道ウォーキング - 人力jinriki.info
- 東海道関宿(亀山市)でグルメ・お土産・町歩きを満喫!駐車場や撮影スポットも紹介します | 取材レポート | 観光三重(かんこうみえ)kankomie.or.jp
- 深川屋 陸奥大掾 - 日本と世界を繋ぐ国際交流メディア ― スポーツ・観光journal-one.net
- 伊勢街道巡り旅40.~銘菓「関の戸」 | 熊野エクスプレスkumano-express.com