2026/6/12
十返舎一九は本当に旅をした?『東海道中膝栗毛』の虚実

一九が『東海道中膝栗毛』を書いたのはどういう経緯で?本当に旅をして書いたの?
キュリオす
『東海道中膝栗毛』の作者・十返舎一九は、全行程を実体験したわけではない。既存の情報や想像力を駆使し、読者を楽しませる「滑稽本」として旅の物語を創作した。
戯作者の誕生と江戸の旅路
『東海道中膝栗毛』の作者、十返舎一九は、明和2年(1765年)に駿河国府中(現在の静岡市)で下級武士の子として生まれた。本名は重田貞一である。若い頃に江戸へ出て武家奉公を務めた後、大坂に移り住み、近松余七の名で浄瑠璃作者として活動した時期もある。寛政6年(1794年)に再び江戸へ戻ると、当時の有力な地本問屋である蔦屋重三郎のもとに寄食し、挿絵描きや書物のレイアウトといった出版実務を学んだ。
翌寛政7年(1795年)には黄表紙『心学時計草』を刊行し、戯作者としての道を本格的に歩み始める。この頃の江戸では、出版文化が大きく花開いていた。黄表紙や洒落本といった娯楽文学が町人層に広く受け入れられ、貸本屋を通じて多くの読者に届くようになっていたのだ。 そして享和2年(1802年)、一九は『東海道中膝栗毛』初編を世に送り出す。当初は版元が出版をためらうほど新奇な内容だったとされるが、蓋を開けてみれば、予想をはるかに超える大好評を博した。弥次郎兵衛と喜多八が江戸から伊勢、京、大坂へと東海道を旅する物語は、たちまち江戸の人々を熱狂させ、一九は一躍、流行作家の地位を確立する。その人気は凄まじく、その後20年以上にわたり続編が刊行され、正編8編18冊、『続膝栗毛』12編25冊という長期シリーズとなった。一九は、原稿料のみで生計を立てた最初の職業作家の一人とも言われている。
虚実が織りなす旅の景色
「東海道中膝栗毛」が描く弥次喜多の旅が、十返舎一九自身の実体験に基づいていたか否か、という問いには単純な答えが出せない。結論から言えば、一九は作品全体を通じて、自らがすべての行程を実際に旅したわけではないとされている。彼は自身の文中で、特定の地域については「土地不案内」であることを告白し、他者の記録や談話、あるいは既存の道中記などを参考にしたことを明かしているのだ。例えば、東北地方の仙台や羽黒山、秩父方面、伊豆地方などの描写は、そうした間接的な情報収集に依拠していたという。
しかし、一九が全く旅をしなかったわけではない。享和2年(1802年)に刊行された『南総紀行旅硯石』では、下総方面(鹿島、鹿取)に関する実地知識がうかがえる記述がある。また、『続膝栗毛』の執筆においては、文化11年(1814年)に松本を訪れ、木曽路や善光寺道、特に安曇野地域の取材を10日間ほどかけて行っている。さらに、文化9年(1812年)から文化10年(1813年)頃には播磨国(現在の兵庫県)への旅行も行い、『播州膝栗毛』の素材としたとも言われている。江戸市中の雑司が谷に関する紀行文も残しており、身近な場所への旅は日常的に行っていた可能性も高い。
結局のところ、『東海道中膝栗毛』は「滑稽本」というジャンルに属する。滑稽本は、庶民の日常や旅路における笑いを目的とした娯楽小説であり、厳密な紀行文とは性質を異にする。一九は、読者を楽しませるために、実体験と既存の情報を巧みに組み合わせ、狂歌や駄洒落、小咄を織り交ぜながら物語を紡ぎ出した。彼自身が挿絵も手掛けており、文章と絵の両面から、当時の街道筋の風俗や人々の様子を生き生きと描き出したのである。真実を報告するのではなく、読者の「旅への憧れ」と「笑いへの欲求」を満たすことが、この作品の主眼だったと言えるだろう。
旅を娯楽に変えた視点
江戸時代には、さまざまな形で「旅」を主題とした書物が存在していた。例えば、松尾芭蕉の『おくのほそ道』のような紀行文は、詩的な表現と精神性を伴う旅の記録として読まれた。また、『旅行用心集』のように、旅の服装や持ち物、宿場での注意点などを具体的に解説する実用的なガイドブックも流通していた。これらに対し、『東海道中膝栗毛』は、その性格において明確な対比をなす。
『膝栗毛』が他の旅の書物と決定的に異なっていたのは、その徹底した娯楽性にある。芭蕉の紀行文が内省的な旅の文学であったのに対し、弥次喜多の旅は、ひたすら外向きで、失敗や悪ふざけ、そしてそこから生まれる滑稽な状況が連続する。実用書が旅の「困難を避ける」ことに主眼を置いたのに対し、『膝栗毛』は旅の「困難を楽しむ」という、庶民的な視点に立脚していた。当時の東海道には、伊勢参りや金毘羅参りといった信仰の旅が盛んで、多くの庶民が実際に街道を行き交っていた背景がある。一九は、そうした大衆が共感し、笑えるような、身近な出来事を物語に落とし込んだのだ。
また、文章表現においても、『膝栗毛』は会話体を中心とし、狂言や小咄を交えることで、難解さを避け、老若男女問わず誰にでも分かりやすい娯楽作品として成立した。これは、当時の出版文化が知識階級から庶民へと読者層を拡大していく中で生まれた、新しい「笑い」の形式でもあった。旅の情景描写よりも、登場人物たちの掛け合いや駄洒落に重点を置くことで、読者はあたかも自分たちが旅に同行しているかのような気分を味わい、日々の閉塞感から解放される感覚を得たのだろう。この大衆に寄り添う姿勢こそが、『東海道中膝栗毛』が単なる旅行記に留まらない、一大ベストセラーとなった理由である。
街道に息づく弥次喜多の影
『東海道中膝栗毛』は、刊行から二世紀以上を経た現代においても、その存在感を失っていない。弥次郎兵衛と喜多八のコンビは、お調子者で失敗ばかりしながらも憎めない旅人の代名詞として定着している。彼らの姿は、落語や歌舞伎、あるいは現代の旅番組や漫画など、様々なメディアで形を変えて描かれ続けてきた。これは、江戸時代に確立された「会話による笑い」の一つの原型が、現代のエンターテイメントにも通じる普遍性を持っていたことを示している。
文学的な価値だけでなく、『東海道中膝栗毛』は江戸時代の旅の様相や庶民の暮らしぶりを知る上で、貴重な資料としての側面も持つ。作中に描かれる宿場の様子、旅籠でのやりとり、道中での出会い、そして当時の流行歌や狂歌は、当時の社会や文化を映し出す鏡である。例えば、大井川の川越しの様子や、日坂宿の旅籠での騒動など、具体的なエピソードは、当時の東海道旅行の実態を伝えるものとして読み取れる。
もちろん、物語はフィクションであり、誇張や脚色が多分に含まれている。しかし、当時の人々の間で共有されていた旅への期待、道中での楽しみ、そして思わぬトラブルへの対処法といった「旅の空気」は、この作品の中に確かに息づいている。街道を歩く人々の服装や持ち物、関所の様子など、細かな描写は、当時の人々の生活を鮮やかに現代に伝える役割を果たしているのだ。
道中が映す、旅の本質
十返舎一九が『東海道中膝栗毛』を執筆する際、全ての道を自ら歩んだわけではないという事実は、現代の私たちに一つの問いを投げかける。それは、旅の物語において「作者の移動距離」がどこまで重要なのか、という問いである。一九は、限られた自身の旅の経験に加え、当時の豊富な情報源——すでに刊行されていた多くの道中記や地誌、人々の語り、そして自身の想像力——を駆使して、弥次喜多の旅を構築した。
この作品の成功は、単なる地理的な正確さや作者の踏破経験に依存するものではなかった。むしろ、当時の庶民が抱いていた旅への憧れ、非日常への期待、そして何よりも「笑い」という普遍的な欲求に焦点を当てたことで、圧倒的な支持を得たのである。弥次喜多の旅は、読者が現実の旅で経験しうる、あるいは経験したいと願うであろう滑稽な出来事を凝縮し、それを娯楽として提供した。それは、現実の旅が持つ制約や困難を乗り越え、誰もが気軽に楽しめる「仮想の旅」を創り出したことに他ならない。
一九の創作手法は、旅の物語の本質が、物理的な移動の記録だけではないことを示唆している。それは、人々の心の中に存在する「旅への想像力」を刺激し、共感を呼び起こすことにあるのかもしれない。実際の足跡を辿らずとも、その時代の空気、人々の感情、そして文化的な背景を捉え、巧みに物語に昇華させることで、『東海道中膝栗毛』は江戸の旅文化の象徴となった。この物語は、作者が旅をしたか否かという問いを超え、人々の心に深く刻まれた「旅の情景」そのものとして、今もなお語り継がれている。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
参考
- 「東海道中膝栗毛」を書いた十返舎一九とはどういう人ですか?ktr.mlit.go.jp
- 『東海道中膝栗毛』を生んだ江戸の大人気作家・十返舎一九の生涯|デビュー前は蔦重のところに寄食【日本史人物伝】 | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイトserai.jp
- 十返舎 一九|安曇野ゆかりの先人たち - 安曇野市公式ホームページcity.azumino.nagano.jp
- 十返舎一九|日本大百科全書・世界大百科事典・国史大辞典|ジャパンナレッジjapanknowledge.com
- 十返舎一九について |静岡市立図書館toshokan.city.shizuoka.jp
- 十返舎一九(重田幾五郎)/名古屋刀剣博物館・名古屋刀剣ワールドmeihaku.jp
- 十返舎一九 - Wikipediaja.wikipedia.org
- 江戸時代後期の天才戯作者、十返舎一九の生涯と業績|松尾靖隆note.com