2026/6/28
熊野の大馬神社、狛犬なき社が獅子岩を「狛犬」とする理由

熊野の大馬神社について詳しく教えてほしい。
キュリオす
熊野市井戸町にある大馬神社は、境内に狛犬がなく、6km離れた七里御浜の「獅子岩」を狛犬としている。坂上田村麻呂の伝説や自然信仰と結びついた、この特異な信仰の形を辿る。
巨岩が守る森の奥へ
熊野の地は、神話と信仰の層が幾重にも重なる場所だ。世界遺産に登録された熊野古道は、その深い森の奥へと人々を誘う。しかし、熊野三山と呼ばれる主要な社殿群から少し離れた三重県熊野市井戸町に、ひっそりと、しかし確かな存在感を放つ神社がある。それが「大馬神社」だ。その名は「おおまじんじゃ」と読む。多くの神社には境内に狛犬が鎮座するが、この大馬神社にはそれがない。代わりに、遥か6キロメートル先の七里御浜にそびえる名勝「獅子岩」が、古来よりこの社の「狛犬」とされているという。巨岩が守護する社とは一体どのような場所なのか、なぜ遠く離れた岩がその役割を担うのか。その問いを抱え、熊野の深い緑の中へと足を踏み入れる。
坂上田村麻呂と伝説の馬
大馬神社の創建は平安時代前期、第52代嵯峨天皇の御代、大同4年(809年)に遡ると伝えられている。この地の歴史を語る上で欠かせないのが、征夷大将軍・坂上田村麻呂だ。伝承によれば、当時この紀伊国室郡を荒らしていた賊を、勅命を受けた坂上田村麻呂が「鬼ヶ城」で討伐し、その首を地中に埋めた上に社殿を建立したのが始まりとされる。この賊は「南蛮の夷賊」とも、鬼ヶ城に伝わる海賊・多娥丸ともいわれる。
社名の「大馬」の由来については複数の説がある。一つは、坂上田村麻呂が大きな馬に乗っていたからというものだ。 また、田村麻呂の愛馬が一緒に埋められたからとする説や、「大魔を封じた社」が転じて「大馬」となったという説も存在する。
時代を下って、江戸時代には智興和尚という僧が熊野参詣の途中で大馬神社の話を聞き、参詣を志した。和尚が花の窟の汀あたりまで来た時、馬上の貴人が現れて和尚を大馬谷の奥にある当社まで案内し、その後に姿を消したという。 神官はこれを、帰京の際に「我は後世において、ここに再び悪鬼の出るのを防ぐため、熊野三所権現とともにここに居よう」と語ったという田村麻呂の霊が現れたものだと答えた。 この貴人が乗っていたのが大きな葦毛の馬であったため、「大馬権現」と称されるようになったとも伝えられている。
大馬神社は、花の窟神社や産田神社と共に「有馬三山」とも称され、古くからこの地域で崇敬されてきた神社である。 主祭神は天照大御神で、その他に水波能売神、天児屋根命、譽田別命、仁徳天皇、神武天皇、大山祗命、坂上田村麿将軍、白馬大明神、宇賀御霊大神、白龍大神など11柱が祀られている。
狛犬なき社の自然信仰
大馬神社の特異性は、境内に狛犬が存在せず、代わりに約6キロメートル離れた七里御浜にある「獅子岩」を狛犬としている点にある。 獅子岩は国の名勝・天然記念物に指定されており、熊野灘に向かって吠える獅子のような姿をしている。その隣にある神仙洞の岩が「吽」の形をとるとされ、二つの岩が阿吽の狛犬として機能しているという。 これは単なる奇岩崇拝に留まらない、この地の深い自然信仰の表れと見ることもできる。
本宮は熊野市井戸町の井戸川上流、山深い場所に鎮座しており、社叢は市の天然記念物に指定されている。 境内には「清滝」と呼ばれる滝が流れ落ち、その清冽な水は井戸川の源流でもある。 この滝自体が御神体とされており、坂上田村麻呂が鬼を封じたのも、この滝の霊力によって鎮守させるためであったという説もある。 社殿の背後に岩壁があり、傍らに滝があるという自然環境は、それ自体が神秘的な神威を宿している。 古くからこの清滝を聖地として崇めていた原始的な自然信仰があり、そこに後世になって祭神が加えられたという見方もできるだろう。
また、大馬神社では毎年1月6日に例大祭が執り行われる。 この祭礼では、井戸町内の氏子から選ばれた「当屋」が祭りを仕切り、弓引きと弓取りが選ばれて一年の平安を祈願する「弓引き神事」が行われる。 弓引きに選ばれた若者と弓取りの子どもたちは、まず境内の川で禊を行い、身を清める。 その後、本殿でお祓いを受け、約15メートルの距離から的をめがけて矢を放つ。 この古式ゆかしい神事もまた、熊野の地における自然と人々の営みの結びつきを示すものだ。
熊野三山と有馬三山
大馬神社が位置する熊野地域は、古くから「熊野三山」として知られる熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社を中心とした信仰圏を形成してきた。これらの三山は全国に4700社以上ある熊野神社の総本宮であり、平安時代には皇族・貴族、室町時代には武士や庶民に至るまで、「蟻の熊野詣」と称されるほど多くの人々が参拝に訪れたという。 熊野信仰は、身分や男女、浄不浄を問わず、全ての人を受け入れる懐の深さから、絶望からの再生を願う人々の拠り所となってきた。
これに対し、大馬神社は、同じ熊野市内の「花の窟神社」と「産田神社」と共に「有馬三山」と称されることがある。 花の窟神社は日本書紀に登場するイザナミの御陵ともいわれ、産田神社はイザナミがカグツチを産んだ場所とされるなど、いずれも日本神話に深い縁を持つ古社だ。 熊野三山が広大な地域と時代を超えて「再生」や「救済」といった普遍的なテーマを掲げてきたのに対し、有馬三山はより古層の、この土地固有の神話や伝承、そして自然そのものへの畏敬に根差した信仰の形を示していると言える。
熊野三山が神仏習合の時代を経て、権現信仰として発展したのに対し、大馬神社に見られる獅子岩を狛犬とする信仰や、清滝を御神体とする様は、より原始的な自然崇拝の姿を色濃く残している。境内に人工的な狛犬を置かず、自然の造形物である獅子岩をその代わりとするのは、熊野の地が本来持っていた、自然そのものを神と見なす信仰形態が色濃く現れているからだろう。これは、人が作り出した社殿や像に神が宿るというよりも、山や岩、滝といった自然そのものに神聖な力が宿ると考える、より根源的な信仰の形を示唆している。
森と海の境界に立つ社
現在、大馬神社は三重県熊野市井戸町の山中に本宮が鎮座し、麓には里宮がある。 本宮への道は市街地から山道へと入り、鬱蒼とした森の中を進むことになる。 かつて紀伊半島大水害に見舞われた際には、道が不通になるなどの被害も受けたが、現在は整備され訪れることが可能だ。 しかし、その道中には熊の出没情報があるほど、自然が色濃く残る場所である。
本宮の境内は巨木が立ち並び、特に巨大な杉が参拝者を迎える。 清滝のせせらぎが聞こえる静謐な空間は、訪れる者に日常からの隔絶を感じさせるだろう。 氏子組織によって維持され、地域の人々の信仰の場として今日まで受け継がれている。 本宮から離れた場所には、足の不自由な氏子も参拝できるよう遥拝所が設けられている。
一方で、大馬神社の「狛犬」とされる獅子岩は、熊野灘に面した国道42号線沿いにあり、多くの観光客がその雄大な姿を目にする。 神社本体が山深く、容易に辿り着けない場所にあるのに対し、その狛犬は海沿いの開けた場所に立つという対比は、大馬神社が単なる山中の社ではなく、山と海、そしてこの熊野の広大な自然全体を包含する信仰の対象であることを示唆している。
見えない境界線が示すもの
大馬神社を巡る旅で浮かび上がるのは、私たちが普段意識しない「境界線」の曖昧さだ。境内に狛犬を持たず、遥か離れた海岸の自然の造形物をその代わりとするという事実は、神社という「聖なる空間」の認識そのものを揺さぶる。一般的に神社は鳥居をくぐり、結界の内側に入ることではじめて聖域と認識されるが、大馬神社の場合、その聖域は物理的な社殿の枠を超え、広大な自然の中に開かれている。
坂上田村麻呂による鬼退治の伝説は、中央の権力が地方の「異物」を鎮圧し、秩序をもたらすという物語として語られてきた。しかし、その鬼の首を埋めたとされる場所に社殿を築き、さらにその社の守護を自然の巨岩に委ねるという構造は、単なる征服の物語では終わらない。むしろ、鎮められた「魔」の力や、その土地が元来持っていた自然の霊力を、信仰の形に変えて取り込み、共存しようとした古代の人々の知恵と畏敬の念が見て取れる。
熊野三山が「蟻の熊野詣」に象徴されるように、多くの人々を迎え入れ、救済の場として機能してきたのに対し、大馬神社は、より限定された地域に根差し、土地固有の伝承と自然信仰を色濃く残している。それは、普遍的な救いを求める信仰と、足元の土地に宿る具体的な神性への畏れが、熊野という地で並存してきた証左だろう。私たちが目にするのは、単なる社殿ではなく、山と海、そして目に見えない境界線によって結びつけられた、広大な自然そのものが織りなす信仰の風景なのである。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
参考
- 大馬神社(熊野市)の御朱印と見どころ - 神社と御朱印、ときどき寺院jinjyagoshuin.com
- 大馬神社 由緒oomajinja.com
- 大馬神社 - Wikipediaja.wikipedia.org
- 紀伊半島旅行記 大馬神社 神秘と歴史が交差する旅|H.Nickynote.com
- 大馬神社:八雲ニ散ル花 木ノ国篇 12 – 偲フ花omouhana.com
- 大馬神社 | まっぷるウェブmapple.net
- 大馬神社・埋められた鬼の首と巨大な自然石狛犬 - 神秘と感動の絶景を探し歩いて Beautiful superb view of Japansazanami217.blog.fc2.com
- 大馬神社 | 熊野市オープンフォト | OpenPhotoopenphoto.app