2026/6/7
米どころ新潟、実は「黒い水」の産地だった?

新潟についてまだ知らないだろうことを教えて欲しい。詳しく。
キュリオす
新潟は米や酒で有名だが、古代から「燃える水」と呼ばれる石油・天然ガスが産出されてきた。地質構造と技術革新により、日本の近代化を支えたエネルギー供給地としての歴史と、現在も続くその痕跡を辿る。
新潟と聞いて多くの人が思い浮かべるのは、広がる水田とそこで育まれる米、そしてそれを醸す日本酒だろう。しかし、この土地にはもう一つ、はるか昔から人々の暮らしを支え、日本の近代化を陰で押し進めてきた「黒い水」の物語がある。田園風景の奥、あるいは海岸線に立つと、地面から湧き出す石油や天然ガスの気配を感じることがあるのだ。なぜ、米どころとして知られる新潟が、日本のエネルギー供給において特別な役割を担ってきたのか。その歴史と地質的な背景を辿ることは、この土地の持つ多面性を知るきっかけとなるだろう。
新潟における石油の歴史は、日本のどの地域よりも古い。西暦668年、天智天皇に「燃える土と燃える水」が献上されたという『日本書紀』の記述は、現在の胎内市にある黒川油田からのものだという説が有力視されている。この「燃える水」こそが原油であり、古くからその存在が認識されていた証左である。江戸時代に入ると、この自然に湧き出す石油は「くそうず」(臭水、草水)と呼ばれ、灯火や薬、あるいは農地の害虫駆除などに用いられていた。
近代的な採掘が始まるのは、明治維新以降、西洋から石油ランプが輸入され、灯油需要が急増した時期である。1873年には出雲崎町で採掘が開始され、1888年には内藤久寛らによって「有限責任日本石油会社」(現在のENEOSの前身)が設立される。この会社は1891年、出雲崎町の尼瀬油田でアメリカ式の機械掘削を日本で初めて成功させ、大量の原油採取を可能にした。この成功が、日本の近代石油産業の本格的な幕開けとなる。
その後、主要な油田は内陸部へと移り、特に新潟市秋葉区に位置する新津油田は、大正時代には日本一の産油量を誇った。1917年には年間約12万キロリットルもの原油を産出し、当時の日本の産業を支える重要なエネルギー源となった。新津油田では、手掘りから始まり、上総掘り、綱掘式、ロータリー式掘削といった様々な技術が導入され、2,000を超える坑井が掘られたという。また、長岡東部の山地では東山油田が開発され、長岡が石油関連の機械工業都市として発展する契機ともなった。
新潟が古くから石油・天然ガスの産出地として知られてきた背景には、特有の地質構造がある。日本列島は、海洋プレートの運動によって東西に圧縮され続けており、この地殻変動が新潟県内では新第三紀や第四紀といった比較的新しい時代の地層に、北北東から南南西に伸びる大規模な褶曲構造を形成した。この褶曲によって、地下に石油や天然ガスが溜まりやすい「背斜構造」と呼ばれる「油の壺」が数多く作られたのだ。
さらに、日本海拡大に伴って形成された堆積盆地も、石油生成に有利な条件をもたらした。有機物を多く含む地層が堆積し、それが地熱と圧力によって時間をかけて石油や天然ガスへと変化する。新潟の地下には、こうした油田やガス田の形成に必要な「根源岩」「貯留岩」「帽岩」という三つの地層が揃っていたのである。
採掘技術の進歩も、新潟の石油・天然ガス開発を加速させた要因だ。明治時代に導入された機械掘削技術は、それまでの手掘りでは到達できなかった深部の油層からの採油を可能にした。例えば、新津油田では、中野貫一が米国から綱堀式掘削機を導入し、生産量を拡大したことが知られている。また、天然ガスにおいては、地層にガス単独で貯留される「構造性ガス」だけでなく、地下水に溶解している「水溶性天然ガス」が豊富に存在することも新潟の特徴である。この水溶性天然ガスは、かん水(地下水)ごと汲み上げてガスを分離し、残ったかん水を再び地下に戻す「全量還元方式」で採取される。
日本国内で石油や天然ガスが産出される地域は、新潟のほか、秋田、山形、北海道などに限られている。これらの地域に共通するのは、日本海側に位置し、新生代の堆積盆地が発達している点だ。しかし、新潟の油田・ガス田開発には、他地域とは異なるいくつかの特徴が見られる。
まず、歴史の長さが際立つ。秋田の八橋油田や北海道の勇払油ガス田なども有名だが、新潟の黒川油田における『日本書紀』の記述は、国内最古の石油に関する記録とされている。これは、新潟の石油が、近代産業としてではなく、古代から人々の生活に密着した形で存在し、利用されてきたことを物語る。自然の湧出が顕著であったため、特別な技術がなくてもその存在が容易に認識され、利用されてきたのだろう。
また、新潟は陸上油田の規模が大きく、特に新津油田は大正時代に日本一の産油量を誇った。秋田の油田も重要であったが、新潟の油田は、製油所が信濃川沿いや関屋に多く建てられ、船で原油が運ばれるなど、水運と結びついた広範な産業集積を形成した点で特徴的である。これは、米や酒、さらには北前船の寄港地としての歴史を持つ新潟が、物流の要衝であったことと無関係ではない。資源の存在だけでなく、それを加工し、流通させるインフラが早くから整っていたことが、新潟の石油産業の発展を後押ししたと言える。
さらに、新潟では水溶性天然ガスの埋蔵量が非常に豊富であり、国内生産量の大部分を占めている。これは、他の産油地域ではあまり見られない特徴であり、新潟の地質が持つ多様性を示している。水溶性天然ガスは、石油とは異なる地層構造や採取技術を要するため、新潟のエネルギー産業は、単一の資源に依存しない多角的な発展を遂げてきたと言えるだろう。
かつて日本有数の産油地であった新潟の風景は、現在では大きく変わった。しかし、その痕跡は今も各地に残されている。新潟市秋葉区の新津油田金津鉱場跡は、1996年まで操業が続けられ、現在は国の史跡に指定されている。ここでは、機械掘り井戸やポンピングパワー、集油所といった採油から精製までの一連の施設が良好な状態で保存され、「石油の里公園」として一般に公開されている。また、出雲崎町には「石油産業発祥地記念公園」があり、日本初の機械掘削成功の地として、記念碑や当時の掘削道具が展示されている。胎内市には「黒川石油公園・シンクルトン記念館」があり、日本最古の油田の歴史を伝えている。
現代においても、新潟は日本の主要なエネルギー生産地であり続けている。国際石油開発帝石(INPEX)や石油資源開発(JAPEX)といった大手企業が、岩船沖油ガス田や南長岡ガス田などで、原油や天然ガスの生産を継続している。特に南長岡ガス田は国内最大級の埋蔵量を誇る大型ガス田であり、国内最深部の深部火山岩中に天然ガスを貯留しているという。2024年度の新潟県の原油生産量は国内生産の60%強を占め、天然ガスに至っては国内生産の74.2%を占める。
一方で、かつての油田跡地では、閉鎖された井戸から自然に原油やガスが湧き出す現象も確認されており、新潟市ではオイルフェンスや分離槽の設置など、その対策に追われている。これは、地下に眠る資源が、産業としての役割を終えた後も、土地と深く結びついていることの表れだろう。
新潟のエネルギー資源の物語は、単に地下から燃料を掘り出す歴史に留まらない。それは、この土地が持つ地質的な特性と、それを見出し、利用しようとした人々の営みが、長い時間をかけて織りなしてきた歴史である。米どころ、酒どころという一面の裏に、古代から続く「燃える水」との関わりがあり、それが近代日本の産業を支える礎となった。
現在の新潟を訪れる時、広がる田園風景や日本海の荒波の向こうに、かつて隆盛を極めた油田のやぐらや、地中深くから現代の暮らしを支えるガスが供給され続けている事実を想像することは、この土地の持つ厚みを再認識させるだろう。それは、目に見える観光資源だけではない、地底に息づくもう一つの新潟の姿なのである。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。