2026/6/28
和歌山県みなべ・田辺の「南高梅」は、痩せた土地と偶然の発見から生まれた

和歌山の南高梅の栽培とその歴史について詳しく教えて欲しい。
キュリオす
和歌山県みなべ町・田辺市で栽培される「南高梅」。痩せた土地でも育つ梅の奨励から始まり、偶然発見された優良品種が、地域の人々の努力と自然との共生によって日本一のブランドへと成長した歴史を辿る。
降り注ぐ陽光と、甘酸っぱい香り
和歌山県の紀伊半島を南下すると、なだらかな山肌に沿って、一面に広がる梅林の風景が目に飛び込んでくる。早春には白く可憐な花が山々を覆い、「一目百万、香り十里」と形容されるほどの景観を呈する。初夏になると、その花は青々とした実へと姿を変え、やがて陽光を浴びて淡い紅色に染まっていく。この地に育つ梅の代表格が「南高梅」である。
全国の梅の収穫量の約6割を和歌山県が占め、その中心を担うのがみなべ町と田辺市だ。 特に「南高梅」は、その品質の高さから梅干しをはじめとする加工品の最高級ブランドとして知られている。 しかし、なぜこの特定の品種が、この和歌山の地でこれほどまでに発展し、日本の食文化に深く根付くことになったのか。その背景には、土地の条件と、幾人もの人々の地道な努力、そして時代が要請した偶然の重なりがあった。
痩せ地が育んだ梅の歴史
和歌山における梅栽培の歴史は、江戸時代初期にまで遡る。 当時の紀州田辺藩では、紀伊山地が海岸線に迫り平野部が少ない地理的条件に加え、土壌が痩せて米作りに適さない土地が多かった。 農民たちは重い年貢に苦しんでおり、この状況を打開するため、田辺藩主の安藤直次が、痩せ地や山の斜面でも育つ「やぶ梅」の栽培を奨励したのが始まりとされている。 当初、「やぶ梅」は果肉が薄く小粒であったが、その生育力の強さからこの地で次第に広まっていった。
梅が単なる観賞用から食用へと転換し、産業として確立していくのは、明治時代以降のことである。 明治期に入ると、コレラや赤痢といった伝染病対策、さらには日清・日露戦争における軍隊の常備食として梅干しの需要が飛躍的に増加した。 軍用食としての需要拡大は、梅栽培の規模を大きく押し上げる契機となった。 この頃、みなべ町晩稲(おしね)の内中源蔵が、約4ヘクタールの山林を開墾して梅畑を広げ、梅の生産から加工、販売までを一貫して行う事業に着手した。 彼の試みは、地域の梅産業発展の先駆けとなり、他の農家にも大規模栽培を奨励する動きに繋がった。
そして、現在の「南高梅」のルーツとなる品種の発見は、明治35年(1902年)にさかのぼる。 上南部村(現在の、みなべ町)の晩稲に住む高田貞楠が、購入した梅の苗木60本の中に、ひときわ豊かに実り、大粒で美しい紅色の優良な一本を見出したのだ。 高田貞楠はこの木を「高田梅」と名付け、母樹として大切に育て、その基礎を築いた。 昭和6年(1931年)には、農業経営を梅に託した小山貞一が高田貞楠から「高田梅」の穂木を譲り受け、苦労を重ねながら栽培を継承していった。
戦後、梅の品種改良と統一の機運が高まる中で、昭和25年(1950年)に上南部農業協同組合(現在の紀州農業協同組合)が「梅優良母樹調査選定委員会」を設立した。 当時、地域には114種類もの梅が栽培されており、品質が不揃いであったため、市場の安定化が課題となっていた。 この委員会は、南部高校園芸科の竹中勝太郎教諭を委員長とし、同校の生徒たちも実習として調査選定に協力した。 5年間にわたる詳細な調査の結果、37品種の中から最も優秀な品種として「高田梅」が選ばれ、その風土への適応性が高く評価された。 そして、この「高田梅」に、選定調査に貢献した「南部高校」の名を冠し、「南高梅」と命名されたのは昭和40年(1965年)のことである。 同年10月29日、農林省に品種登録され、今日の「南高梅」が正式に誕生した。
土地の恵みと人の知恵が交差する栽培
南高梅の栽培が和歌山、とりわけみなべ・田辺地域で隆盛を極める背景には、この土地が持つ独特の気候風土と、長年にわたる生産者の知恵が深く関わっている。
まず、気候条件が挙げられる。みなべ・田辺地方は紀伊水道に流れ込む黒潮の影響を受け、一年を通して気温の変化が少なく温暖な気候に恵まれている。 年間晴天日数が200日を超え、日照時間が長いことも梅の生育に適している。 梅は温暖な気候を好むため、この地域の気候は理想的と言える。
次に、土壌の特性がある。この地域の土壌は、保水力と保肥力が比較的弱いものの、水はけの良い微酸性の土壌が広がる。 特に、みなべ町に多く見られる「瓜溪石(うりだにいし)」という、主に炭酸カルシウムからなる地層が重要だ。 梅は成長過程でカルシウムを多く必要とするため、この炭酸カルシウムを豊富に含む土壌が、良質な梅の栽培に適しているのである。 また、梅の根は浅く、地中40センチメートルまでに大部分の根が分布するため、水はけの良さが重要となる。 養分に乏しく崩れやすい斜面が多いという、米作には不利な条件が、梅栽培にはかえって有利に働いたという側面もある。
さらに、南高梅の栽培には、その品種特性に合わせた独自の工夫が凝らされている。南高梅は「自家不和合性」であり、自分の花粉だけでは受粉して実を結ぶことができない。 このため、開花時期が一致する別の品種、例えば小粒南高や白玉などの受粉樹を梅林の中に植える必要がある。 この受粉を助けるのが、地域の山林に生息するニホンミツバチである。
みなべ・田辺地域では、梅林の周辺にウバメガシなどの薪炭林(しんたんりん)を残す「梅システム」が古くから実践されてきた。 この薪炭林は、痩せた山地の保水力を高め、土砂崩れなどの災害を防ぐ役割を果たすだけでなく、ニホンミツバチの生息地ともなっている。 ミツバチは気温12℃以上、風速3m/秒以下の暖かな日中に活発に活動し、梅の花の受粉を担う。 このように、自然の生態系と農業が共生する循環型のシステムは、2015年に国際連合食糧農業機関(FAO)によって「みなべ・田辺の梅システム」として世界農業遺産に認定された。 これは、単なる栽培技術の枠を超え、地域全体で自然と共存しながら持続可能な農業を営む知恵が評価された証と言えるだろう。
他の梅品種との差異に見る南高梅の特質
南高梅が日本を代表する梅のトップブランドとしての地位を確立しているのは、その優れた品質特性に加えて、他の品種との比較によって際立つ特徴があるからである。 日本には100種類ほどの梅品種が存在するとされるが、中でも南高梅は、その用途の広さと食味の良さで特筆される。
例えば、東日本を中心に栽培される「白加賀梅(しらかがうめ)」は、果実が中〜大粒で、皮が厚くしっかりとした肉質が特徴だ。 加工しても型崩れしにくいため、梅干しだけでなく、梅シロップや梅酒にも適している。 さっぱりとした味わいが持ち味とされる。 また、山梨県などで栽培される「甲州小梅(こうしゅうこうめ)」や長野県の「竜峡小梅(りゅうきょうこうめ)」は、その名の通り小粒で種が小さく、果肉が緻密である。 これらは主にカリカリ梅の原料として利用され、歯ごたえが特徴とされる。
これに対し、南高梅の最大の特徴は、大粒で皮が非常に薄く、果肉が厚くて柔らかい点にある。 種が比較的小さいため、可食部が多いことも利点だ。 この薄皮と肉厚でとろけるような果肉は、梅干しにした際に他の品種では得られない独特の食感と風味を生み出す。 完熟すると果実の陽光面が鮮やかな紅色に色づく特性も持ち、「紅南高(べになんこう)」として珍重されることもある。 このような特性から、南高梅は梅干し用の最高品種とされながらも、梅酒、梅ジュース、梅ジャムなど、様々な加工品にオールマイティに利用できる汎用性の高さも兼ね備えている。
他の品種が特定の加工法や食感に特化しているのに対し、南高梅は「皮が薄く、果肉が柔らかい」という特性が、梅干しとして口に入れた際の舌触りや、梅酒・梅ジュースにした際の果汁の豊富さ、まろやかさに直結している。この「とろけるような肉質」と「豊かな香り」が、多くの消費者にとっての価値となっているのだ。 また、白加賀が比較的丈夫で型崩れしにくいとされるのに対し、南高梅は繊細なため、収穫方法にも特徴が見られる。完熟して自然に木から落下した梅を、畑に敷いたネットで受け止める「拾い梅」という方法が一般的である。 これは、完熟した梅の最高の肉質を保つための工夫であり、青梅を収穫して追熟させる方法では得られない、とろけるような食感を生み出すとされる。 このように、品種固有の特性を最大限に引き出すための栽培・収穫方法が確立されている点も、南高梅の優位性を裏付けている。
現代に息づく梅の里と新たな課題
現在、和歌山県における梅の収穫量は全国の約6割を占め、そのうちみなべ町が約3割を生産する、名実ともに「日本一の梅の町」である。 町の全世帯の約8割が何らかの形で梅産業に携わっていると言われ、梅は地域経済にとって不可欠な存在だ。 梅林の広がる風景は観光資源ともなっており、2月には「南部梅林」に多くの観梅客が訪れる。
しかし、その梅の里もまた、現代社会が抱える様々な課題に直面している。 最も顕著なのが、農業従事者の高齢化と労働力不足である。 特に、高所作業を伴う青梅の収穫は負担が大きく、後継者確保は喫緊の課題だ。 この問題に対し、和歌山県では樹高を低く抑える「カットバック処理」や「摘心処理」といった省力化技術の普及を推進している。
気候変動もまた、梅栽培に大きな影響を与えている。近年、暖冬による開花時期の早期化や不完全な花の増加、さらには雹(ひょう)による実の損傷、カメムシなどの害虫の大量発生といった被害が報告されている。 2024年には暖冬と雹被害が重なり記録的な不作となり、2025年も再び雹の被害で大きな打撃を受けた。 雹による梅の被害総額は、2025年だけで約47億円にも上るとされ、生産量の減少と品質の低下は、梅の価格高騰を招き、農家の収入減に直結している。 雹の被害は山間部の傾斜地にある梅畑では対策が困難であり、この問題は「将来への試験研究としての大きな課題の1つ」と認識されている。
このような状況下で、産地では新たな取り組みも進められている。例えば、南高梅の自家不和合性という欠点を克服するため、バイオ技術を駆使して「南高梅どうしで実をならせる」新品種「スーパー南高」の開発が試みられている。 また、黒星病に強く、自家和合性を持つ「星高」「星秀」といった新品種の導入も進められている。 雹で傷がついた梅を「訳あり品」として販売し、消費者に理解を求める動きも出ており、産直通販サイトなどを通じて生産者と消費者の新たな関係が構築されつつある。 「みなべ・田辺の梅システム」が世界農業遺産に認定されたことは、この地域の梅栽培が持つ伝統的価値と持続可能性が国際的に評価されたことを意味するが、そのシステムを次世代に継承していくためには、これらの現代的課題への対応が不可欠となっている。
偶然と必然が結実する風景
和歌山の南高梅の歴史を辿ると、いくつかの「偶然」が重なり、やがて「必然」へと転じていった過程が見えてくる。稲作に不向きな痩せた土地という地理的条件は、江戸時代の田辺藩主による梅栽培奨励という政策的な偶然を呼び込んだ。 その後、軍用食としての梅干しの需要拡大という時代の要請が、梅栽培を地域の一大産業へと押し上げたのも、その後の発展を決定づける偶然であったと言える。
しかし、最も決定的な偶然は、高田貞楠が畑に植えた60本の苗木の中から、ひときわ優れた一本の梅の木を発見したことだろう。 その一本が「高田梅」となり、小山貞一によって受け継がれ、さらに「梅優良母樹調査選定委員会」によって最優良品種として選定され、「南高梅」と命名されるに至った。 これは、一人の農民の観察眼と、その後の研究者、そして地域の人々の地道な努力がなければ、単なる一本の優れた梅の木で終わっていた可能性もある。
そして、南高梅の自家不和合性という品種特性が、周辺の薪炭林に生息するニホンミツバチによる受粉を必要とし、結果として「みなべ・田辺の梅システム」という独自の循環型農業を生み出した。 これは、品種の特性と地域の自然環境が、互いを補完し合う形で結びついた、まさに生態系と農業の協働が生んだ必然の結果である。脆弱な土地条件を逆手に取り、梅という作物に活路を見出し、その梅の特性に合わせて自然環境を保全し、活用する。この一連の動きは、人間が自然とどのように向き合い、その中でいかに持続可能な営みを築いてきたかを示す具体的な例と言えるだろう。
現代の課題に直面しながらも、この地で培われてきた梅栽培の知恵と努力は、単なる農産物の生産にとどまらない。それは、土地の条件を受け入れ、それを最大限に活かし、さらに改良を重ねてきた人々の歴史そのものなのだ。和歌山の梅林が広がる風景は、そうした幾重もの偶然と必然が結実した結果なのである。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
参考
- みなべ郷と梅|なんでも梅学minabe.net
- wakayama.lg.jppref.wakayama.lg.jp
- 月~金曜日 20時54分~21時00分asahi.co.jp
- 第157回 いよいよ収穫がスタート!「南高梅」の名前の由来とは? | アズマハウス株式会社azumahouse.com
- 和歌山で梅が有名な理由って?背景を知って和歌山の梅をおいしく食べよう! | おいしく食べて和歌山モールoishii-wakayama.com
- wakayama.lg.jppref.wakayama.lg.jp
- 梅の生産量日本一・和歌山で梅の収穫してみませんか|マイナビ農業agri.mynavi.jp
- 梅屋の梅干しができるまで|梅屋 公式オンラインショップumeya.shop