2026/7/16
祇園祭の孟宗山は、なぜ真夏に雪景色を再現するのか?

祇園祭の孟宗山について詳しく教えて欲しい。
キュリオす
祇園祭の孟宗山は、真夏の京都で雪景色を再現し、雪の中で筍を掘る物語を表現する。その背景には、困難な時代を生き抜くための希望や、誠実さの象徴としての意味合いがある。
猛暑のなかに現れる雪山の静寂
京都の夏、アスファルトの照り返しが肌を刺す烏丸通を歩いていると、ふと視界の端に「白」が混じる。祇園祭の山鉾巡行を控えた宵山、立ち並ぶ巨躯のなかで、孟宗山(もうそうやま)は一際異質な空気を纏っている。他の多くの山鉾が金銀の装飾や極彩色の刺繍で夏の太陽を跳ね返しているのに対し、この山には「雪」が積もっているのだ。
真松(しんまつ)の枝先には、ちぎった白い綿がふわりと乗り、御神体である孟宗の笠や、彼が右手に掲げた筍(たけのこ)までもが白く覆われている。七月という一年で最も暑い盛りに、京都のど真ん中で冬の光景を再現する。その光景は、単なる季節外れの演出というにはあまりにストイックで、どこか現実離れした静けさを湛えている。
なぜ、京都の町衆はあえてこの「雪の中で筍を掘る」という地味な、しかし過酷な物語を自分たちの祭の主役に据えたのだろうか。二十四孝という中国の古い道徳譚は、他にも劇的なエピソードに満ちている。虎に襲われる父を救う話や、氷の上に寝て魚を獲る話。そのなかで、地面を掘って野菜を得るという、一見すると地味極まりない行為が、応仁の乱以前から今日に至るまで、この烏丸の地で守り継がれてきた。
「筍山(たけのこやま)」という親しみやすい別名を持ちながら、その実体は他のどの山よりも冷たく、静かな内面性を秘めているように見える。この山が立つ「笋町(たかんなちょう)」という地名との関わりを含め、孟宗山が京都という都市のなかで果たしてきた役割は、単なる「親孝行の推奨」だけでは説明がつかない。そこには、都市の喧騒を無効化するような、ある種の「反転」の論理が働いているのではないか。
笋町と孟宗像の再建
孟宗山の歴史を遡ると、その足跡は室町時代の中期には既に確認できる。応仁の乱以前の山鉾の配置を記した「祇園社記」には、既に「まうそ山」の名が登場している。当時の京都は、町衆と呼ばれる新興の商工業者たちが自らの自治組織を固め、祭礼をアイデンティティの核としていた時期だ。
この時代、大陸から渡来した「二十四孝」の物語は、単なる教訓話としてではなく、一種の「奇跡の物語」として受容された。孟宗の物語は、病の母が冬に筍を食べたいと願い、孝行息子の孟宗が雪の竹林で絶望しながら地を掘ったところ、天がその心に感じて筍を芽吹かせたというものだ。この「天が動く」という構造は、疫病や戦乱に翻弄される当時の町衆にとって、理不尽な現実を突破する希望のメタファーとして機能したのだろう。
江戸時代に入ると、孟宗山はさらにその姿を整えていく。現在の御神体である孟宗像は、寛政八年(1796)に七条大仏師、康朝左京によって作られたものだ。それ以前の像は火災によって失われたが、町衆はすぐに再建に動いた。興味深いのは、この山が位置する場所の町名が「笋町(たかんなちょう)」であることだ。「たかんな」とは筍の古い呼び名であり、山があるから町名がついたのか、あるいはその逆かという議論は尽きないが、少なくともこの界隈では、筍というモチーフが土地の記憶と深く結びついていたことは確かである。
幕末の戦火、いわゆる元治の兵火(1864)でも多くの山鉾が被災したが、孟宗山は明治二年には早くも復興を遂げている。この驚異的な回復力は、烏丸通という京都のメインストリートを拠点とする町衆の経済力もさることながら、彼らがこの「雪のなかの筍」という風景を失うことを何より恐れたからではないかと思わされる。彼らにとって、孟宗山は単なる出し物ではなく、困難な時代を生き抜くための「誠実さの証明」のような存在だったのかもしれない。
竹内栖鳳と平山郁夫の競演
孟宗山を「動く美術館」と称される山鉾のなかでも特異な存在にしているのは、その懸装品(けそうひん)の選択である。多くの山鉾が西欧のタペストリーや豪華な金糸の刺繍で飾られるなか、孟宗山の見送(みおくり・山の背面に垂らす布)は、昭和十五年(1940)から竹内栖鳳(たけうちせいほう)による「白地墨画竹林図」が用いられている。
近代京都画壇の巨匠、栖鳳が喜寿の記念に描いたこの墨絵は、極彩色の山鉾が連なる巡行の列において、驚くほどの「空白」を提示する。風にそよぐ竹林を墨一色で描いたその潔さは、雪の積もった山のテーマと完璧に共鳴している。他が「足し算」の美学で権威を競うなか、孟宗山は「引き算」によって、観る者の視線を物語の内側へと誘う。
さらに、近年この山に加わった新たな層が、胴懸(どうかけ)に採用された平山郁夫の原画による「砂漠らくだ行」である。平成二十年(2008)と二十一年にかけて新調されたこの綴織は、昼の砂漠を行く「日」と、月夜の砂漠を行く「月」の対になっている。一見すると、雪の積もった中国の故事と、熱砂のシルクロードは矛盾するように思える。しかし、平山郁夫が描いたのは、極限の状況下で一歩一歩を進めるキャラバンの姿だ。
雪のなかで筍を探す孟宗と、果てしない砂漠を行くラクダ。両者に共通するのは、目に見えないゴールを信じて歩き続ける「静かな持続」である。孟宗山は、栖鳳の墨絵によって「季節の静寂」を、平山の綴織によって「空間の広がり」を手に入れた。この二つの現代的な感性が、江戸時代から続く彫金金具(幸野楳嶺の下絵による群鳥図など)と組み合わさることで、孟宗山は単なる古典の再演ではない、重層的な時間軸を持つ装置へと進化した。
黄金の釜と冬の筍
祇園祭には、孟宗山と同じく「二十四孝」をテーマにした山がもう一つ存在する。四条西洞院に立つ郭巨山(かっきょやま)だ。郭巨の物語は、貧しさゆえに老母を養うため、我が子を埋めようと穴を掘ったところ、土の中から黄金の釜が現れたという、孟宗以上に衝撃的なエピソードに基づいている。
この二つの山を比較すると、京都の町衆が「奇跡」というものをどう捉えていたかが透けて見える。郭巨山が「黄金」という現世利益の極致を掘り当てるのに対し、孟宗山が掘り当てるのは「筍」という、ありふれた、しかしその瞬間には得難い食べ物である。郭巨の物語が「貧困からの脱却」という劇的な転換を描くならば、孟宗の物語は「切実な願いの成就」という、より情緒的で献身的な救いを描いている。
郭巨山はその由来から「金運向上」のご利益を謳い、屋根をかけるなど、山の構造自体も重厚だ。一方で孟宗山は、屋根を持たず(舁山としての標準的な形ではあるが)、雪の綿を冠した松が天に向かって伸びる、開放的でどこか頼りなげな姿をしている。この「黄金」と「筍」の対比は、町衆のなかにあった二つの願望を象徴しているようにも思える。一方は商売繁盛という現実的な成功であり、もう一方は家族の無事や誠実な生き方が報われることへの祈りだ。
また、雪の表現についても対照的だ。郭巨山にも雪をテーマにした装飾はあるが、孟宗山のように山全体が「冬の空気」に支配されているわけではない。孟宗山において雪は、単なる背景ではなく、克服すべき障壁として、あるいは奇跡を引き立てる静寂として、山のアイデンティティそのものになっている。同じ「掘り当てる」という行為を軸にしながら、一方は富を、一方は慈しみを強調する。この二つの山が共存していること自体が、祇園祭という装置の持つ懐の深さを示している。
烏丸のビル風に揺れる真綿
現在の孟宗山が立つ場所は、京都でも屈指のビジネス街である。四条烏丸の交差点から北へすぐ、銀行やオフィスビルが立ち並ぶエリアに、祭の期間だけ突如として木組みの山が現れる。ビルの谷間を吹き抜ける風が、真松につけられた綿を微かに揺らす光景は、現代の都市生活と中世の価値観が衝突する、最も京都らしい瞬間の一つと言える。
保存会の人々の活動は、この「異物」を日常のなかに着地させるための繊細な手仕事に支えられている。例えば、孟宗山の粽(ちまき)には、他にはない特徴がある。粽の笹の端に、雪に見立てた白い綿があしらわれているのだ。この小さな工夫一つをとっても、彼らが「雪の山」という独自の記号をいかに大切にしているかがわかる。授与品としての粽が、単なる厄除けの道具を超えて、孟宗の物語を各家庭に持ち帰るための装置として機能している。
また、孟宗山は巡行の順番を決める「くじ取り式」において、戦後「山一番(山鉾のなかで最初に巡行する名誉ある順番)」を十回以上も引き当てているという記録がある。これは確率論を超えた、ある種の前兆のようなものとして地元では語り継がれている。烏丸通という、かつては物流の拠点であり、今は経済の拠点である場所を守り続ける町衆にとって、自分たちの山が先頭を切ることは、土地の誇りを再確認する儀式でもある。
宵山の夜、駒形提灯に灯が入ると、雪の白さは闇の中に浮かび上がり、昼間とは異なる幻想的な表情を見せる。ビルの窓明かりと提灯の火影が混ざり合うなかで、孟宗の像は穏やかな笑みを浮かべている。その表情は、過酷な冬のなかで希望を見出した者の安堵であり、同時に、どれほど街の姿が変わろうとも、変わらない価値を掘り起こし続ける町衆の自負のようにも見える。
猛暑に立ち上がる雪の山
孟宗山という存在を改めて眺めると、それは京都の町衆が発明した「季節の反転装置」であったことに気づかされる。夏の猛暑という、身体を蝕むような現実に対し、彼らは「冬の雪」というイメージをぶつけることで、感覚的な涼しさを提供するだけでなく、精神的な避難所を作り出した。
この「反転」は、単なる視覚的な遊びではない。二十四孝という、ともすれば権威主義的になりがちな儒教道徳を、彼らは「筍を掘る」という具体的で土着的な行為に落とし込むことで、自分たちの等身大の物語へと書き換えた。黄金ではなく筍を、権力ではなく誠実さを。その選択こそが、幾多の戦火や災害を乗り越えてこの山を存続させてきた原動力だったのではないか。
竹内栖鳳の墨絵が示す「無」の境地と、平山郁夫の綴織が示す「旅」の持続。これらが孟宗山という一つの器に収まっている事実は、京都という街が持つ、異質なものを受け入れ、独自の美意識で統合していく力を象徴している。雪は冷たいが、それを綿で表現する手つきには温かみがあり、冬の竹林を舞台にしながらも、そこには春の訪れを告げる筍が握られている。
巡行の日、孟宗山が御池通や河原町通を進むとき、観衆はそこに「ありえない冬」を見る。しかし、その「ありえない」を形にするために積み重ねられた数百年分の手間と時間は、何よりもリアルな重みを持って、京都の夏を通り過ぎていく。私たちはその白く覆われた山を見送るとき、冷たさを感じるのではなく、むしろ、この街が守り抜いてきた「信じることの熱量」に触れているのだ。
孟宗が掘り当てたのは、単なる野菜ではなかった。それは、絶望の淵にあっても、地の下には必ず命の息吹が隠されているという、普遍的な確信だったのである。その確信を「雪の山」という美しい嘘で包み込み、真夏の烏丸通に孟宗の像を据え続けること。その一点に、この山が守り継がれる理由が集約されている。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。