2026/6/8
三方五湖周辺の梅栽培、江戸時代から続く歴史と土地の条件

三方五湖周辺で梅を沢山見た。福井の梅はなぜあそこで作られるのか?いつ頃から作られているのか?
キュリオす
福井県若狭町が日本海側最大の梅産地となった背景を探る。江戸時代天保年間に始まった梅栽培の歴史、山と湖が育む栽培環境、そして和歌山県との比較から、この土地ならではの梅の発展と課題を追う。
三方五湖周辺を巡ると、湖面を縁取るように広がる梅林の風景が目に入る。特に春先の開花期には、白や淡いピンクの花が湖の青と重なり、その景観は多くの人の足を止めるものだ。福井県若狭町が日本海側最大の梅の産地であることは知られているが、なぜこの地域でこれほどまでに梅栽培が盛んになったのか、そしてその歴史はいつから始まったのか、現地に立つとそうした疑問が浮かび上がる。
福井での梅栽培の歴史は、江戸時代の天保年間(1830~1844年)にまで遡るとされている。若狭町(旧三方町伊良積)がその発祥の地であり、伊良積地区に住んでいた平太夫と助太夫という二人の豪農の庭に植えられていた良質な梅の木が、現在の「福井梅」の原点になったと言い伝えられているのだ。彼らの名にちなんで「平太夫梅」「助太夫梅」と呼ばれたこれらの梅は、やがて接ぎ木によって周囲の農家へと広まっていったという。
梅栽培が本格的に地域に定着したのは、明治15年(1882年)頃からである。この時期に栽培が普及した地域は「西田梅」と称され、親しまれるようになった。しかし、明治・大正初期の西田地区は交通の便が悪く、収穫された梅の実を販売するのには大変な労力を要した。農家は早朝に小舟を漕いで湖を渡り、隣村に上陸した後、若狭街道を肩に担いだり荷車を押したりして港町敦賀まで運び、呼び売りや卸売を行っていたという。この当時の苦労を伝える「梅売り唄」という俗謡が今も伝えられており、三方湖畔には当時の名残である茅葺きの舟小屋が残されている。
状況が大きく変わったのは、大正10年(1921年)に国鉄敦賀線が開通してからである。これにより、梅の販路は京都・大阪・金沢方面へと拡大し、「西田梅」の商品価値が関西を中心に広く認められるようになった。昭和に入ると、さらなる品質向上を目指して出荷組合が組織され、選果や包装の規格統一が進められた。戦時中には、梅が重要な軍需品として舞鶴海軍に納入された記録も残されている。戦後も「西田梅」は「青いダイヤ」と呼ばれて重宝され、昭和37年(1962年)の酒税法改正による梅酒ブームも梅栽培を後押しした。そして昭和42年(1967年)、産地のさらなる発展を目指して「福井梅」へと名称変更が行われ、現在に至る。
福井の梅栽培が三方五湖周辺で発展した背景には、この地域特有の地理的・気候的条件が大きく影響している。三方五湖を取り囲む山地は、断層地形によって急峻な斜面を形成している。この平地が少ない地形では、水田に適した土地が限られていたため、米作りに代わる換金作物として梅が選ばれたのである。山の斜面でも栽培が可能である梅は、この地域の生計を補う重要な作物となった。
また、気候も梅栽培に適していた。日本海側の多雪地帯に位置しながらも、三方五湖周辺は冬期に比較的温暖で積雪が少ないという特徴がある。これは、湖が周囲の気温を調整する効果を持つためと考えられている。さらに、湖面に向かって連なる山地の急斜面が風を遮る役割を果たし、梅の木が強風にさらされるのを和らげている。日本海の潮風と柔らかな日差しも、福井梅の育成に適した環境を提供しているとされる。
福井梅の代表的な品種である「紅映(べにさし)」は、種が小さく果肉が厚いという特徴を持つ。この品種は、日当たりの良い部分が熟すと紅色を帯びることからその名が付いた。果肉中のアミノ酸含量が高く、うまみ成分が豊富であるため、梅干しや梅酒に適している。この「紅映」は、ほぼ100%が福井県で生産される希少な品種であり、この地域固有の気候風土の中で選抜・育成されてきた梅が、現在の福井梅のブランドを築き上げているのだ。
日本の梅の主要産地として全国的に知られるのは、和歌山県の「南高梅」だろう。南高梅は、大粒で果肉が柔らかく、梅干しに加工した際の品質の高さで評価されている。その栽培は温暖な気候と、紀伊山地の斜面を利用した大規模な梅林によって支えられている。一方、福井の三方五湖周辺における梅栽培は、和歌山とは異なる条件の中で発展してきた。
和歌山が太平洋側の温暖な気候と広大な耕地を背景に大規模化を進めたのに対し、福井は日本海側という気候条件下にある。三方五湖の周辺は、日本海側としては比較的温暖で積雪が少ないものの、冬の厳しさは和歌山とは異なる。その中で、福井梅は「紅映」のように寒さに強く、かつ品質の高い在来品種を育んできた。これは、限られた土地と気候条件の中で、地域に適応した品種を選抜し、栽培技術を確立してきた歴史を示している。
また、梅の利用方法にも地域性が見られる。和歌山の南高梅が主に梅干し用として全国に流通するのに対し、福井梅は「紅映」が梅干し・梅酒の双方に優れるほか、「剣先」が梅酒や梅シロップに適し、「新平太夫」や「福太夫」といった後発品種も梅干しや加工品向けに育成されている。これは、単一の用途に特化するのではなく、地域の気候風土と消費者の需要に合わせて多様な品種を育て、幅広い加工品へと展開してきた福井の生産戦略の一端と言えるだろう。
三方五湖周辺の梅栽培が、単なる果樹栽培に留まらず、地域の地形や気候、そして歴史的な交通事情といった複合的な要因に適応しながら、独自の品種と文化を育んできた点で、他の主要産地とは異なる輪郭を持つ。
現在、福井県若狭町は日本海側最大の梅の産地であり、その生産量は全国有数である。三方五湖の湖畔を中心に約8万本もの梅の木が栽培され、春には一斉に花を咲かせ、初夏には青梅が収穫され、県内外へと出荷されていく。福井梅は、その品質の高さから、1986年からは大相撲の幕内優勝力士に「福井県賞」として梅干しが贈呈されているほか、1978年からは皇室への献上も続いているという。
しかし、現代においても課題は存在する。近年は青梅の消費量の減少や、梅農家の後継者不足が深刻化しており、生産の継続が困難な状況に直面している地域もある。これに対し、若狭町では2014年(平成26年)に「若狭町梅振興ビジョン」を策定し、戦略的な梅栽培とその振興に取り組んでいる。地域内の梅栽培農家は、2013年(平成25年)より全員がエコファーマーに認定され、環境に配慮した持続的な農業を実践している。
三方五湖周辺には、「梅の里会館」や「道の駅三方五湖」といった施設があり、梅干しや梅ジャム、梅ワインなど、梅を使った様々な加工品が販売されている。これらの施設は、観光客が福井梅の魅力を直接体験し、購入できる場となっている。また、梅の収穫時期には「青梅まつり」が開催され、梅の里としての賑わいを見せる。後継者不足という課題を抱えつつも、地域は福井梅のブランドを守り、次世代へと繋ぐための努力を続けているのが現状である。
三方五湖周辺で梅栽培が根付いたのは、単なる偶然ではない。急峻な山地と湖が織りなす独特の地形が、米作りに不向きな土地を梅林へと変え、日本海側としては穏やかな気候が梅の生育を促した。その上で、江戸時代からの地道な品種改良と、明治・大正期の苦難な流通を乗り越えようとした人々の努力が、今日の「福井梅」の礎を築いたと言えるだろう。
かつて交通の便が悪かった時代に、小舟で湖を渡り、梅を背負って敦賀まで運んだという先人の労苦は、単なる歴史の一コマではない。それは、この土地の条件と向き合い、作物に価値を見出し、それを市場へと繋げようとした具体的な行動の積み重ねである。戦後に「青いダイヤ」と称された福井梅は、その輝きを地質学的な「地球の物差し」として世界的に注目される三方五湖の年縞と重ねてみれば、いっそう深く感じられるものがあるかもしれない。梅の木々が湖畔に広がる風景は、自然の恵みと、それを活かそうとした人々の歴史的な選択の結果として、今もそこにある。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。