2026/7/2
鳴尾から仁川へ、戦争と復興を経て阪神競馬場が辿った道のり

阪神競馬場の歴史について詳しく知りたい。
キュリオす
阪神競馬場は、鳴尾での開場から戦争による軍事転用、そして現在の仁川への移転・再建を経て、日本の近代史と共に歩んできた。その変遷は、競馬の社会的な役割や都市開発との連携、旧軍事施設の跡地利用といった要因が複雑に絡み合っている。
仁川の丘に立つ、競馬場の記憶
兵庫県宝塚市、六甲の山並みを背に広がる阪神競馬場に足を踏み入れると、広大な芝コースと近代的なスタンドが視界を占める。しかし、その整然とした風景の背後には、幾度もの移転と再建を繰り返してきた激動の歴史が隠されている。ここは単なる競馬場ではなく、戦争と震災を乗り越え、都市開発と人々の情熱が交錯する場所に他ならない。なぜ、この仁川の地に競馬場がたどり着き、今日までその姿を保ち続けているのだろうか。その問いは、日本の近代史における競馬の役割と、地域社会との複雑な関係性を探ることから始まる。
鳴尾から仁川へ、転々とした蹄跡
阪神競馬場のルーツは、明治時代末期の1907年(明治40年)に西宮市の鳴尾村に開場した「鳴尾競馬場」に遡る。関西競馬倶楽部が鳴尾川河口西岸に「関西競馬場」を開場したのが最初で、同年には鳴尾速歩競馬会も鳴尾川河口東岸に競馬場を開設した。近接する両競馬場はそれぞれ鳴尾西浜競馬場、鳴尾東浜競馬場と通称されたという。しかし、1908年(明治41年)の馬券禁止によって補助金競馬の時代に入ると、馬政局の方針により競馬倶楽部の整理統合が進められ、1910年(明治43年)に両者は合併し「阪神競馬倶楽部」と改称、西浜の競馬場が鳴尾競馬場として存続することになった。鳴尾競馬場は、1910年から1937年まで帝室御賞典競走(現在の天皇賞の前身)が開催されるなど、東京・中山・京都と並ぶ日本の主要競馬場の一つとして発展を遂げた。また、競馬場の内馬場には野球場が設けられ、1917年(大正6年)から1923年(大正12年)まで全国中等学校優勝野球大会(現在の夏の甲子園)の会場としても使用された歴史を持つ。
しかし、時代は戦争へと傾いていく。1937年(昭和12年)に11の競馬倶楽部が統合されて日本競馬会が設立されると、鳴尾競馬場も「阪神競馬場」と改称された。だが、太平洋戦争の戦局が悪化するにつれて、競馬場の敷地は軍事利用の対象となる。1943年(昭和18年)、競馬場に隣接していた川西航空機の軍用機製造工場のために、日本海軍が競馬場用地の徴用を打診したのである。日本競馬会は代替地の斡旋と建築資材の提供を条件にこれに応じ、同年春までに開催を終了し、鳴尾競馬場は「鳴尾飛行場」へと転用された。
鳴尾を追われた競馬場は、宝塚市逆瀬川上流の地に移転することになり、約36万坪の土地を買収して厩舎などの建設が進められた。しかし、戦争の激化により工事は中止され、完成を見ないまま終戦を迎える。さらに終戦後、建設途中の競馬場敷地を含む宝塚ゴルフ倶楽部一帯は、連合軍に接収されてしまう。連合軍、特にアメリカ陸軍がゴルフを楽しむためのレクリエーション施設として利用されたため、競馬場建設の続行は困難となったのだ。
戦後、東京・京都・中山など主要な競馬場が再開される中、大都市大阪近郊での競馬再開は急務であったが、経営が悪化していた日本競馬会には新たな用地を取得する財力がなかった。そこで関西の財界が中心となり、1948年(昭和23年)に京阪神急行電鉄(現在の阪急電鉄)を中心とした「京阪神競馬株式会社」が設立される。彼らが目をつけたのが、仁川にあった旧川西航空機の工場跡地だった。この地は戦時中の空襲で壊滅的な被害を受け、鉄骨や瓦礫が散乱する荒地となっていたが、この跡地を払い下げを受ける形で、1949年(昭和24年)11月、ようやく現在の阪神競馬場が竣工したのである。戦後初の開催は同年12月に国営競馬として行われ、幾多の苦難を経て、ようやく仁川の地に競馬の灯がともされた。
仁川の地に根付いた三つの要因
阪神競馬場が現在の仁川の地に落ち着き、今日までその役割を担い続けている背景には、複数の要因が複雑に絡み合っている。一つは、「戦後の復興と競馬の役割」である。第二次世界大戦終結後、疲弊した日本経済の復興には、財源の確保が喫緊の課題であった。競馬は、国庫への納付金という形で多額の収益をもたらす公営競技として、その役割を期待された。旧日本競馬会が解散し、国営競馬として再出発した際、新たな競馬場の開設は、単に娯楽を提供するだけでなく、国家再建の一翼を担うものであったと言える。特に、大都市圏に近い関西での競馬再開は、その経済効果の大きさから優先された。
二つ目の要因は、「交通の便と都市開発との連携」である。仁川の地は、京阪神急行電鉄(現・阪急電鉄)の路線網に近接していた。京阪神競馬株式会社が設立されるにあたり、阪急電鉄が中心的な役割を担ったことは、この地の選定に大きく影響しただろう。鉄道会社にとって、競馬場のような大規模施設は、沿線開発と乗客誘致の重要な拠点となる。仁川駅は競馬場のために設けられた駅であり、競馬開催日には多くの利用客が集中する。競馬場が都市の郊外に位置しながらも、鉄道網と結びつくことで、広域からの集客を可能にした。
そして三つ目は、「旧軍事施設の跡地利用」という、歴史の皮肉とも言える側面である。現在の阪神競馬場がある場所は、戦前は川西航空機の宝塚製作所の敷地であり、戦時中には軍用機の部品製造が行われていた。1945年(昭和20年)7月24日の空襲で工場は壊滅的な被害を受け、広大な敷地は瓦礫の山と化していた。このような土地は、戦後の復興期において、通常の住宅地や商業地として再開発するには時間と費用がかかる。競馬場という、広大な敷地を必要とする施設にとっては、かえって利用しやすい場所であったと言える。軍事転用された鳴尾競馬場とは異なり、仁川の地は、戦争の傷跡を競馬という新たな形で「上書き」する場所となったのだ。
これらの要因が重なり、鳴尾から逆瀬川、そして仁川へと転々とした競馬場の歴史は、最終的にこの宝塚の地に落ち着くことになった。
異なる顔を持つ競馬場群の中で
日本の主要な中央競馬場は全国に10箇所存在するが、それぞれが異なる立地条件と歴史的背景、そしてコース特性を持っている。阪神競馬場を他の競馬場と比較することで、その独自性と普遍性がより明確になるだろう。
例えば、関東の盟主である東京競馬場は、広大な敷地と長い直線を持つ「府中の森」と呼ばれるように、スケールの大きさが特徴だ。一方で、中山競馬場は、起伏に富んだトリッキーなコースレイアウトと、ゴール前の急坂が特徴的な「パワーとスタミナが問われる」競馬場として知られる。これらと比較すると、阪神競馬場は両者の中間的な特性を持つと言える。内回りコースは標準的なサイズでありながら、2006年の大規模改修で新設された外回りコースは、右回りとしては日本最長の1周2089メートルという距離を誇る。また、ゴール前には中山競馬場と遜色ない勾配1.5%の急坂が待ち構えている。この「内回りの小回り」と「外回りの長い直線と急坂」という二面性が、阪神競馬場の大きな特徴であり、多様な適性が求められる舞台となっている。
また、同じ関西圏の京都競馬場と比較すると、その違いはさらに際立つ。京都競馬場は平坦なコースが多く、スピードが重視される傾向にあるとされる。これに対し、阪神競馬場は起伏に富んだ地形とタフな馬場構造により、競走馬の総合的な身体能力、特に心肺機能や後躯の推進力が厳しく問われる「力の象徴」として機能している、という見方もある。京都が「華麗なスピード勝負」の舞台であるとすれば、阪神は「真の底力が試される」舞台である、という対比も可能だろう。
さらに、歴史的経緯においても、鳴尾競馬場が野球の甲子園球場誕生のきっかけとなったように、競馬場が単なる競技施設に留まらない役割を担ってきた点は注目される。これは、他の競馬場にも見られる共通の構造だ。例えば、軍事転用された横浜競馬場(根岸競馬場)は、現在もその遺構が残り、歴史公園として活用されている。阪神競馬場が旧軍事工場跡地に建設された経緯も、戦後の社会インフラ整備と、限られた資源の中での最適解を模索した結果と言える。
このように、阪神競馬場は、コース設計においては東京や中山の特性を併せ持ち、関西圏の京都とは異なる「力」を問う舞台として位置づけられる。そして、その誕生と変遷の過程には、戦争という大きな歴史のうねりの中で、土地利用の制約と社会の要請が複雑に絡み合っていたことが見て取れるのだ。
現代の阪神競馬場、その姿
現在の阪神競馬場は、幾度かの改修を経て、日本の競馬を代表する施設の一つとして機能している。特に2006年の大規模改修では、従来のコースの外側に新たな外回りコースが新設され、日本屈指のスケールを持つ競馬場へと生まれ変わった。この改修により、芝コースの1周距離は内回りが1689メートル、外回りが2089メートルとなり、右回りでは日本最長となった。これにより、より多様なレース展開が可能になり、馬の実力がストレートに反映されやすいコース設計が実現されたと言われている。
また、2023年秋から2025年3月にかけても、ファンエリアの充実を目的とした大規模なリニューアル工事が実施された。指定席の改装に加え、グループソファやプライベートシートといった多様な観戦スペースが新設され、快適性の向上が図られた。特に力を入れたのが、室内キッズパーク「あそび馬!」やアスレチックエリア、キッズガーデンなど、子ども向けエリアの拡充である。これは、競馬場が単なるギャンブル施設ではなく、家族で楽しめるレジャー施設としての側面を強化しようとする現代的な流れを反映している。フードコートも一新され、地元西宮のソウルフード「宮っ子ラーメン」などが入店し、グルメの選択肢も広がった。
しかし、こうした近代化と快適性の追求は、新たな課題も生み出している。リニューアル後の競馬場は、一人当たりの空間は広くなったものの、大観衆が移動するための動線や、発売機の配置など、実際の運用面で改善の余地があるという声も聞かれる。特に、大きなレース開催時には、快適性と集客のバランスをどう取るかという点が、今後の運営における重要な論点となるだろう。
阪神競馬場は、桜花賞、宝塚記念、阪神ジュベナイルフィリーズといったGIレースを擁し、年間を通じて多くの競馬ファンを惹きつけている。兵庫県宝塚市という立地でありながら、敷地の一部は西宮市にもまたがり、周辺には関西学院大学などの教育機関も近い。競馬場周辺は比較的良好な住宅街が広がり、競馬が地域社会の一部として受け入れられている側面もある。
歴史が示す、競馬場の多面性
阪神競馬場の歴史を辿ることは、単一の施設の変遷を追うに留まらない。そこには、日本の近代社会が直面した戦争と復興、経済発展と都市化、そして娯楽産業の変容という、より大きな物語が内包されている。
鳴尾競馬場が軍事施設に転用され、新たな競馬場が川西航空機の工場跡地に建設された経緯は、戦争という非常時が土地利用の形態をいかに大きく変えうるかを示している。同時に、戦後の混乱期において、競馬が国営事業として再開され、復興の財源確保に貢献した事実は、公営競技が持つ社会的な役割の多様性を浮き彫りにする。競馬は単なる「賭け事」ではなく、時に国家経済を支え、被災地の避難所となり、地域に雇用と活気をもたらす存在でもあったのだ。
また、阪神競馬場が今日に至るまで、その立地を大きく変えながらも存続し、発展してきた背景には、関西という大都市圏における競馬への根強い需要と、それを支える財界や鉄道会社といった民間活力の存在があった。これは、単に「競馬が好きだから」という個人の情熱だけでなく、地域経済全体を動かす大きな力が働いていたことを示唆する。
現在の阪神競馬場が、ファミリー層向けの施設拡充や快適性の向上に力を入れているのは、多様化する社会のニーズに応え、より幅広い層に競馬を「レジャー」として楽しんでもらおうとする試みだろう。かつては軍事転用され、戦後は瓦礫の山から生まれ変わったこの場所が、いま、新しい時代の競馬場のあり方を模索している。その姿は、歴史の荒波を乗り越え、常に変化し続けてきた競馬場の宿命を体現しているかのようだ。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
参考
- mapple.netarticles.mapple.net
- 「なぜ宝塚歌劇の町に競馬場がある?」「阪神競馬場には行くけれど…」阪急電車の“ナゾの競馬駅”「仁川駅」には何がある?《宝塚記念》(4/5) - 競馬 - Number Web - ナンバーnumber.bunshun.jp
- 兵庫県 鳴尾競馬場/鳴尾球場/鳴尾飛行場 | ゆめの跡にameblo.jp
- 鳴尾競馬場 - Wikipediaja.wikipedia.org
- 阪神競馬場 - Wikipediaja.wikipedia.org
- 仁川と中京の意外な共通点 ~阪神競馬場誕生史/大澤幹朗の競馬中継ココだけのハナシ - 亀谷敬正 オフィシャル競馬サロンkeiba-salon.com
- 宝塚市-たからづかデジタルミュージアム:宝塚市史 三巻adeac.jp
- 阪神競馬場 その1 ~阪神競馬場の歴史と私的な思い出~ そこに競馬があるからsokorace.blog.shinobi.jp