2026/7/2
神戸旧居留地はなぜ計画都市になったのか? 異人が集った3つの理由

神戸の旧居留地について詳しく知りたい。なぜここに異人さんたちが多く住んだのか?
キュリオす
神戸旧居留地に多くの外国人が集まったのは、開港の遅れを活かした周到な都市計画、居留地の自治権と治外法権、そして貿易港としての経済的魅力の3つの要因が重なったためです。計画都市としての優位性、自治権、経済的魅力が国際都市の礎を築きました。
石畳に残る区画、なぜ異人が集ったか
神戸の旧居留地を歩くと、整然と区画された街路と、石造りの重厚な建築群が目に飛び込んでくる。そこには、どこか異国の都市を思わせる秩序と、時を経た重みが共存している。近代的なブランドショップやカフェが軒を連ねる一方で、通りの角には「○○番地」と刻まれたプレートがひっそりと掲げられ、往時の名残を留めているのだ。なぜこの一帯に、これほど多くの「異人さん」たちが集い、独自の文化を築き上げたのか。その背景には、開港という国家的な転換期における、神戸の特異な立地と、周到に計画された都市設計があった。
開港の遅れがもたらした青写真
江戸幕府は1858年(安政5年)、欧米5カ国との間で修好通商条約を締結し、長崎、横浜などとともに兵庫(神戸)を開港場と定めた。しかし、当時の政情は不安定であり、特に朝廷の反対もあって、兵庫港の開港は当初の予定より9年遅れ、1868年(慶応3年12月7日)にずれ込んだ。この遅れは、結果的に神戸の外国人居留地にとって有利に作用したとされる。
開港が目前に迫る中、幕府は兵庫津の東約3.5kmに位置する神戸村に居留地の設置を決定した。この場所は、当時繁栄していた兵庫の市街地から離れた砂地と畑地であり、日本人と外国人との衝突を避けるという意図があった。1867年(慶応3年)には「兵庫港并大坂に於て外国人居留地を定むる取極」が幕府と外国公使団の間で結ばれ、居留地建設の具体的な枠組みが固まる。
居留地の造成は、開港日までに運上所(税関)や埠頭、倉庫がわずかに完成した程度で、実質的には開港後に本格化した。この未開発の土地に、イギリス人土木技師J.W.ハートが設計の中心を担う。彼はヨーロッパの近代都市計画に倣い、東西を川、南を海、北を西国街道に囲まれた約7万8000坪(約258,000平方メートル)の敷地に、格子状の街路、街路樹、公園、街灯、そして下水道といったインフラを整備した。土地は整然と126区画に分割され、1868年9月に最初の競売が行われ、数年をかけて全ての区画が売却された。当時の英字新聞『The Far East』は、この神戸居留地を「東洋における居留地として最も良く設計された美しい街」と高く評価している。
三つの要因が呼び込んだ異国の賑わい
神戸の旧居留地に多くの外国人が集住した背景には、複数の要因が絡み合っていた。その核となるのは、周到に計画された都市インフラ、居留地が享受した自治権、そして貿易港としての神戸の経済的魅力である。
まず、都市計画の優位性が挙げられる。神戸の居留地は、開港の遅れが幸いし、他の開港場での経験を踏まえてゼロから設計された。イギリス人技師J.W.ハートによる設計は、単なる区画整理に留まらず、広々とした道路と歩道の分離、雨水排水のための下水道、街路樹やガス灯の配置、公園の設置など、当時としては最先端の都市機能が盛り込まれていた。特に下水道の完備は、海岸に近接する立地において、衛生面で大きな利点であった。この機能的かつ美しい街並みは、西洋人にとって住みやすく、ビジネスを展開しやすい環境を提供した。
次に、居留地の自治権と治外法権が重要な要素であった。明治政府は1868年(慶応4年)に「大阪兵庫外国人居留地約定書」を定め、居留地における行政権と財政権を外国人に認めた。これにより、居留外国人が中心となって組織された「居留地会議」が、独自の警察隊を組織し、犯罪の取り締まりや衛生管理、公共施設の維持管理までを担った。この自治組織は円滑に運営され、居留地返還までの約30年間、日本人との大きな紛争もなく、治安が良好に保たれたとされる。外国人は自国の法に基づいて生活できる治外法権の恩恵を受け、本国と変わらない生活環境と法的安定性を享受できたのだ。
さらに、貿易港としての神戸の発展が、多くの外国人を引きつけた。神戸港は開港当初から活発な貿易拠点となり、茶、生糸、海産物などが輸出品の中心であった一方、木綿製品、毛織物、砂糖、機械類などが輸入された。当初、日本人が海外と直接貿易を行うことは困難であったため、ほとんどの貿易は居留地の外国商館を通じて行われた。イギリスをはじめとする条約締結国が商権を握り、外国金融機関や海運会社が航路を独占する状況の中で、神戸は国際的な商取引の中心地として急速に発展した。このような経済的な魅力が、商社や銀行、領事館といった多様な外国機関の進出を促し、結果として多くの外国人が居留地内外に居住する要因となったのである。
横浜と異なる計画都市の姿
日本の開港場に設けられた外国人居留地は、神戸以外にも横浜、長崎、函館などに存在するが、神戸の居留地はいくつかの点で特異な性格を持っていた。特に横浜との比較から、その独自性が浮き彫りになる。
横浜港の開港は1859年(安政6年)と神戸より約9年早く、居留地の造成も先行していた。しかし、横浜の居留地は旧神奈川宿から離れた横浜村の海浜を整備して作られたものの、初期には多湿な土地であったため、高台の山手地区が住宅地として注目を集めることになった。これに対し、神戸の居留地は、開港が遅れたことで、先行する横浜や長崎での造成・設計の経験を活かし、より合理的な都市計画を立てることが可能であった。
神戸の居留地が「東洋一美しい居留地」と評されたのは、J.W.ハートによる徹底した計画都市としての設計があったためだ。横浜が既存の地形や集落に一部を合わせる形で発展したのに対し、神戸は「何もない更地」に、近代ヨーロッパの都市を模したグリッド状の街路、公園、ガス灯、下水道といったインフラを最初から整備した。これは、まるで白紙のキャンバスに理想的な都市を描くようなもので、その整然とした美しさが、当時の外国人にも高く評価された。
また、居留地の運営体制にも違いが見られた。神戸の居留地は、返還までの約30年間、居留外国人の自治組織である「居留地会議」が行政権と財政権を維持し、警察権を含む幅広い自治を円滑に行っていた。一方で、横浜や長崎の居留地では、実質的に治外法権の一部を放棄するような形で、日本側との連携が深まっていった時期もあったとされる。神戸の居留地が最後まで高い自治権を維持できた背景には、比較的人口が少なかったことや、諸外国人の意見調整が円滑に行われたことなどが挙げられる。この強力な自治体制が、外国人にとって安心で魅力的な居住・活動環境を提供し続けた一因であった。
現代に息づく街区と記憶
神戸の旧居留地は、1899年(明治32年)の条約改正により日本へ返還された後も、その役割を終えることはなかった。大正時代から昭和初期にかけては、貿易・港湾企業、日本の海運会社や商社、銀行などが進出し、コンクリート造りの近代的なオフィスビルが次々と建てられ、神戸のビジネスの中心地として発展を続けた。1914年(大正3年)に始まった第一次世界大戦による造船ラッシュ、そして1923年(大正12年)の関東大震災で横浜港が壊滅的な打撃を受けた際には、神戸港がその代替機能を担い、さらなる発展を遂げている。
しかし、第二次世界大戦中の神戸大空襲により、旧居留地の建物は約70%が破壊され、さらに1995年(平成7年)の阪神・淡路大震災でも大きな被害を受けた。それでもなお、この地の歴史的価値は見直され、1983年には神戸市都市景観条例に基づく「都市景観形成地域」に指定された。
現在、旧居留地には、当時の面影を残す近代洋風建築が点在している。例えば、旧居留地十五番館は、明治13年(1880年)頃に建設され、一時はアメリカ領事館としても使われた建物で、居留地時代から残る唯一の商館建築として知られている。阪神・淡路大震災で全壊したが、元の建材を70%使用し、免震構造を取り入れて再建された。現在はカフェレストランとして活用され、多くの人がその歴史的空間を体験できる。
また、旧横浜正金銀行神戸支店(現神戸市立博物館)や旧ナショナルシティバンク(現大丸神戸店の一部)など、重厚な銀行建築群も残り、往時の国際金融街としての活気を伝える。これらの建物は、オフィスやハイブランドショップ、レストラン、カフェとして現代の都市空間に溶け込み、歴史と現代が調和した「大人の街歩きエリア」として人気を集めている。当時の区画番号が今も地番として使用され、ビルの名称や店舗名に取り入れられるなど、居留地の記憶は形を変えて街に息づいているのだ。
周到な設計が育んだ国際都市の礎
神戸の旧居留地に異人たちが多く住んだ理由は、単に港が開かれたという事実だけでは説明できない。そこには、開港が遅れたがゆえに可能となった、徹底した計画都市としての設計があった。他の居留地が多かれ少なかれ既存の環境に制約を受ける中で、神戸は未開発の地に、西洋の理想的な都市モデルを導入する機会を得た。J.W.ハートによる機能的で美しい街路、下水道、街灯といったインフラ整備は、外国人にとって快適で衛生的な生活環境を提供した。
さらに、強力な自治権と治外法権が、居留地の外国人社会に安定と秩序をもたらした。彼らは自らの手で街を管理し、本国と変わらない法的・社会的な基盤の上で生活やビジネスを展開できた。この「自分たちの街」という意識が、居留地の発展を一層加速させた側面もあるだろう。貿易港としての神戸の経済的魅力と、この周到な都市計画、そして高い自治権という三つの要素が重なり合うことで、神戸の旧居留地は「東洋一美しい」と称される国際都市の一角を築き上げたのだ。
今日、旧居留地の石畳を踏むとき、ただ美しい街並みを眺めるだけでなく、19世紀後半の日本が、いかにして異文化を迎え入れ、その空間を設計し、運営していったのかという、具体的な試行錯誤の痕跡を感じ取ることができる。それは、国際都市神戸の骨格が、緻密な計画と異文化との協調の中から形作られていったことを静かに物語っている。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
参考
- 旧居留地の歴史 | 神戸旧居留地オフィシャルサイトkobe-kyoryuchi.com
- 神戸外国人旧居留地 | 芸術教養学科WEB卒業研究展 | 京都芸術大学通信教育課程g.kyoto-art.ac.jp
- 神戸・兵庫の郷土史Web研究館/郷土史探訪ツーリズム研究所kdskenkyu.saloon.jp
- 異人館とは|神戸北野異人館 うろこグループ公式サイトkobe-ijinkan.net
- 神戸旧居留地の今昔 | 神戸シティ・プロパティ・リサーチkcpr.or.jp
- 神戸外国人居留地 - Wikipediaja.wikipedia.org
- ⑥外国人居留地|神戸(中心部)|地域特集|鈴木商店のあゆみ|鈴木商店記念館suzukishoten-museum.com
- mlit.go.jppa.kkr.mlit.go.jp