2026/6/5
大宮はなぜ「北の玄関口」になった?氷川神社と中山道、鉄道の歴史

大宮の歴史について詳しく教えて欲しい。
キュリオす
大宮駅は東北・北陸新幹線などが乗り入れる首都圏の「北の玄関口」だが、その歴史は古代の氷川神社、中山道の宿場町、そして明治以降の鉄道開業と工場誘致という、複数の要素が重なり合って形成された。本記事では、これらの要素がどのように大宮の発展に寄与したのかを辿る。
大宮駅のホームに降り立つと、そこは常に人の往来が絶えない場所である。東北新幹線、上越新幹線、北陸新幹線、そして山形・秋田・北海道新幹線が乗り入れ、在来線も多数の路線が交錯する。東京以北では最大級のターミナル駅であり、一日に数十万人が行き交うこの場所は、まさに首都圏の「北の玄関口」と称される。しかし、この地の歴史は単なる交通の要衝というだけでは語り尽くせない。なぜ、この場所がこれほどの規模を持つ都市へと変貌を遂げたのか。その問いを抱きながら、駅を取り巻く風景に目を凝らすと、近代的な建築群の合間に、古くからの参道の木立や、鉄道工場から立ち上る微かな機械油の匂いが混じり合うことに気づく。現代の大宮は、古代からの信仰と、近代以降の産業が幾重にも重なり合って形成された土地である。
大宮の歴史を遡る時、まず触れなければならないのは「武蔵一宮氷川神社」の存在である。社記によれば、氷川神社は今からおよそ二千有余年前、第五代孝昭天皇の御代に創建されたと伝えられている。古くから武蔵国の総鎮守として信仰を集め、奈良時代には朝廷から封戸が寄進され、鎌倉・足利・北条・徳川氏といった武家も厚く尊崇した。この「大いなる宮居」が、やがて「大宮」という地名の由来になったことは広く知られている。
江戸時代に入ると、大宮は五街道の一つ、中山道の宿場町「大宮宿」として栄えることになる。日本橋から数えて四番目の宿場であり、規模としては本陣1軒、脇本陣9軒、旅籠25軒を数えた。 特徴的だったのは、中山道に沿って二キロメートルにわたって伸びる氷川神社の参道であり、この参道はかつて中山道の一部でもあった。しかし、寛永5年(1628年)には、宿場の人々が「往還の者が神社に参らず通過するのは畏れ多い」と願い出て、西側の原野に新しい道を開き、宿場を移転させたという経緯がある。 これは、神聖な空間と世俗の往来を分けるという、当時の信仰と実利のバランスを示す一つの例である。移転後の大宮宿は、門前町としての性格を保ちつつ、中山道を行き交う旅人や物資の拠点として機能した。
大宮が現代のような都市の姿を獲得する上で決定的な転換点となったのは、明治時代以降の鉄道の開通である。1883年(明治16年)に上野・熊谷間で日本鉄道の路線が開通した当初、大宮に駅は設置されなかった。当時の大宮は、宿場から離れた寒村であり、人口も少なかったため、駅の必要性が低いと判断されたためである。
しかし、事態は一変する。東北本線と高崎線の分岐点をどこに設けるかという問題が生じた際、浦和や熊谷など複数の候補地が挙がる中で、最終的に大宮が選ばれた。当時の鉄道局長であった井上勝が、距離が短く工費も抑えられる大宮分岐案を推進したことが大きい。 さらに、地元の白井助七をはじめとする有志が、駅用地を私財で賄うなどの誘致活動を展開したことも、大宮駅開業の大きな要因となった。 こうして、1885年(明治18年)3月16日、大宮駅は東北本線と高崎線の分岐駅として開業した。
大宮を「鉄道のまち」として決定づけたのは、駅開業から数年後の出来事である。1894年(明治27年)、日本鉄道の車両修繕工場が上野から大宮へ移転し、「大宮工場」(現在のJR東日本大宮総合車両センター)が設置された。 この工場は、当初は客車や貨車の修繕を行っていたが、やがて国産初の電気機関車である10020形(ED40形)の製造や、D51形蒸気機関車の新製を手がけるなど、日本の鉄道技術の発展を支える拠点となった。 全国から多くの鉄道技術者が集まり、それに伴って街の人口も増加し、大宮は鉄道を中心に急速な発展を遂げた。また、鉄道の開通は、北関東の養蚕地と生糸輸出港である横浜を結ぶ物流ルートを確立し、大宮には製糸工場が相次いで進出するなど、製糸業の発展にも寄与した。
大宮の発展は、鉄道と宿場という二つの異なる要素が重なり合った結果として捉えられる。日本には多くの鉄道都市が存在するが、その多くは既存の城下町や港町に鉄道が後から敷設され、発展を加速させた例が多い。例えば、大阪や名古屋といった大都市は、古くからの経済・文化の中心地に鉄道が加わることで、その求心力をさらに高めた。一方、大宮のように、鉄道の開通がその後の都市形成の決定的な契機となったケースは、既存の集落が小さかった分、より鉄道の影響を色濃く受けている。
また、中山道の宿場町としての顔も、大宮の特徴を際立たせる。中山道には69の宿場があったが、大宮宿は本陣の数こそ平均的だったものの、脇本陣が9軒と、中山道の中では突出して多かったという記録がある。 これは、氷川神社の門前町として参拝客の需要があったことや、江戸と北関東を結ぶ交通の要衝としての役割が大きかったことを示唆している。多くの宿場町が明治以降の鉄道開通によって衰退した中で、大宮は鉄道という新たな動脈を自らの発展の糧とした点で、その後の運命を大きく分けたと言える。
さらに、大宮の鉄道発展の背景には、大宮台地という地形的条件も指摘される。複数の路線を分岐させ、広大な車両工場や操車場を設置するためには、平坦で広い土地が必要となる。大宮台地は、そうした大規模な鉄道施設を建設するのに適した地形であったため、鉄道の拠点としての選定に有利に働いた可能性も考えられる。 このように、古代からの「大いなる宮居」という求心力、中山道の宿場としての集積、そして近代以降の鉄道という新たなインフラが、それぞれの時代において異なる役割を担いながら、多層的な都市の骨格を形成していった。
現在のJR大宮駅は、東北・上越・北陸新幹線など6つの新幹線と、京浜東北線、宇都宮線、高崎線、埼京線、川越線、東武アーバンパークライン、埼玉新都市交通伊奈線(ニューシャトル)の合計13路線が乗り入れる、東京駅に次ぐ全国2位の乗り入れ路線数を誇る巨大ターミナル駅である。 すべての営業列車が停車し、首都圏の「北の玄関口」としての機能は揺るぎないものとなっている。
かつて大宮駅の南側に広がっていた広大な「大宮操車場」は、1984年(昭和59年)にその機能を停止し、その跡地は「さいたま新都心」として再開発された。 さいたまスーパーアリーナや官公庁の合同庁舎などが立ち並び、鉄道の物流拠点から新たな都市機能の中心へと姿を変えた。 この新都心の開発は、大宮が単なる交通結節点に留まらず、行政・商業・文化の複合拠点へと進化する契機となった。
また、大宮の「鉄道のまち」としての顔は、今も健在である。1894年(明治27年)に開設された大宮工場は、現在「JR東日本大宮総合車両センター」として、首都圏の通勤車両や特急車両、さらにはSLの検査・修繕を一手に引き受けるメンテナンス拠点であり続けている。 毎年開催される「鉄道のまち大宮 鉄道ふれあいフェア」には多くの鉄道ファンが訪れ、鉄道博物館と合わせて、大宮の鉄道文化を現代に伝えている。 大宮駅開業140周年を迎えた2025年には、「鉄道のまち大宮」のブランド化に取り組むなど、その歴史的価値を現代に活かす動きも見られる。
大宮の歴史を辿ると、この土地がいかに多層的な記憶を宿しているかが浮き彫りになる。古代から「大いなる宮居」として崇敬を集めてきた氷川神社の存在が、まずこの地に確かな軸を据えた。江戸時代には中山道の宿場町として、旅人や物資が行き交う世俗の賑わいを加える。そして明治以降、鉄道という新たなインフラが、この地のポテンシャルを最大限に引き出し、全国有数の鉄道のまちへと変貌させた。
一見すると、古代の神社、江戸時代の宿場、そして近代の鉄道という要素は、それぞれ異なる時代の産物であり、直接的な連続性が見えにくいかもしれない。しかし、大宮においては、これらが互いに影響し合い、新たな価値を生み出してきた。神社の存在が「大宮」という地名の由来となり、宿場としての集積がその後の発展の素地を作った。そして、鉄道は、そうした歴史の土台の上に、産業と人の流れを劇的に変化させたのだ。大宮の歴史は、単一の要因で語れるものではなく、それぞれの時代において、その土地が持つ条件と、それを見出した人々の営みが、幾重にも重なり合って今日の姿を形作っている。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。