2026/5/29
明応地震が変えた浜名湖の宿場、舞坂の歴史

舞坂はどのような場所だったのか?歴史を知りたい。
キュリオす
明応7年の地震で陸路が寸断され、浜名湖の「今切の渡し」の要衝となった舞坂宿。自然災害を乗り越え、水上交通の要として発展した宿場の機能と、今に残る遺構を紹介する。
東海道を旅する者が、江戸から数えて三十番目の宿場、舞坂にたどり着くと、目の前には広大な浜名湖が横たわっていた。陸路が途切れるこの場所で、旅人は舟に乗り換え、対岸の新居宿を目指すことになる。その渡船場が置かれた舞坂宿は、単なる休憩地ではなく、水上交通の要衝として独特の役割を担っていたのだ。なぜこの地が、これほどまでに「渡し」に特化した宿場となったのか。その背景には、自然の猛威と、それに対応してきた人々の歴史が深く刻まれている。
舞坂の地名は、鎌倉時代の文献『吾妻鏡』に「遠江国舞沢」として初見されるほど古い。元々は浜名川東岸の砂洲上に集落を形成していたと考えられている。しかし、その運命を大きく変えたのが、明応7年(1498年)に発生した明応地震とその津波であった。この大災害によって浜名湖と外海を隔てていた陸地が切れてしまい、海水が流入して淡水湖だった浜名湖は汽水湖へと変貌した。この新しくできた湖口は「今切」と呼ばれ、東西交通の大きな障害となったのである。
江戸幕府を開いた徳川家康は、慶長6年(1601年)に東海道の宿駅伝馬制度を整備し、五十三次を定めた。この時、舞坂は江戸から三十番目の宿場として指定され、今切の渡しの渡船場を担うことになった。 対岸の新居宿との間を結ぶ渡船は「今切の渡し」と呼ばれ、東海道における唯一の海上路として、多くの旅人にとって避けて通れない難所でもあった。 渡しの安全を祈願して、宝永6年(1709年)には弁天島に弁天神社が建立されたという記録も残る。
舞坂宿は、この渡しの機能を効率的に運用するため、宿場の西外れに位置する坪井村と馬郡村を加宿とした。 宿場内は砂町、西町、仲町、新町と続き、天保14年(1843年)の記録によれば、宿内町並みは東西約655メートルにわたり、加宿を含めて人口2475人、家数541軒を数えた。その中には本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠屋28軒が含まれていたという。
舞坂宿が他の宿場町と一線を画すのは、その機能が「今切の渡し」に集約されていた点にある。東西交通の要衝でありながら、同時に難所でもあったこの水上路をいかに円滑に、そして安全に渡らせるかが、宿場の最大の役割だった。
渡船場は「雁木(がんげ)」と呼ばれ、身分によって利用する場所が分かれていた。北雁木は大名や幕府役人などの高位の者が利用し、中(本)雁木は武士を含む一般の旅人が多く利用した。最も南に位置する南雁木は、庶民の乗降や荷物の積み下ろしに使われたという。 特に北雁木は、街道から水際まで約18メートルにわたって石畳が敷き詰められた、格式の高い造りであった。
この渡船の維持には多大な労力と費用が要された。今切口からは遠州灘の荒波が頻繁に打ち寄せ、航行を妨げたため、舞坂側の航路には数万本の波除け杭が打ち込まれたという。 これらの杭に砂が堆積し、現在の弁天島が形成される起因になったとも言われている。 また、元禄12年(1699年)の高潮や宝永4年(1707年)の宝永地震といった自然災害は、今切関所や新居宿に甚大な被害をもたらし、渡しの航路を延長させる結果となった。 渡航の不便さから、東海道を避け本坂通に迂回する旅人も現れたほどであった。
宿場に置かれた渡船役場は、この渡船の運営を取り仕切り、文久2年(1862年)の記録では、総家数309軒のうち244軒が宿家数とされ、多くの百姓が漁業や渡船を副業としていたことが示されている。 鰻や蛤、魚料理が名物とされており、浜名湖の恵みが宿場経済を支える重要な要素であったことがうかがえる。 江戸時代には海苔の養殖も盛んに行われ、宿駅制度廃止後も重要な産業として残ったという。
東海道には、舞坂宿のように水上交通を伴う宿場がいくつか存在した。例えば、東海道最大の宿場であった尾張国の宮宿(現在の名古屋市)もその一つだ。宮宿は伊勢国桑名宿との間に「七里の渡し」と呼ばれる海上路があり、伊勢参りの玄関口として栄えた。 また、江戸から二番目の宿場である川崎宿も、多摩川を越える「六郷の渡し」を抱えていた。
これらの宿場は、いずれも陸路だけでは到達できない地理的条件を抱え、渡船の運営が宿場機能の核となっていた点で共通する。しかし、その規模や背景には違いが見られる。宮宿は伊勢神宮への参拝客という巨大な需要を背景に持ち、陸路の宿場としても商業が発展した大規模な宿場であった。 川崎宿は、品川宿と神奈川宿の間の距離が長く、伝馬の負担を軽減するために後から設置されたという経緯を持つ。
対して舞坂宿の「今切の渡し」は、明応地震という自然災害によって陸路が寸断された結果として生まれた側面が強い。 そのため、渡しの安全確保と維持に宿場の資源が多く割かれ、特に荒波から航路を守るための波除け杭の設置など、自然との格闘の歴史が色濃く残る。 また、新居宿との間には今切関所が置かれ、幕府の厳重な管理下に置かれていた点も特徴的である。
このように、水上交通を抱える宿場は、それぞれが地理的条件、歴史的経緯、そして背負う行政的・経済的役割に応じて異なる発展を遂げた。舞坂宿は、その中でも特に「今切の渡し」という難所を乗り越えるための技術と組織力を培い、純粋な交通の要衝としての性格を強く持っていたと言えるだろう。
現代の舞阪町(旧舞坂宿)は、静岡県浜松市中央区に位置し、かつての宿場町の面影は失われつつあるものの、その歴史を伝える遺構が点在している。 特に貴重なのが、旧東海道で唯一現存する脇本陣の遺構である「舞坂宿脇本陣」だ。 天保9年(1838年)に建てられた脇本陣「茗荷屋」の書院棟が残り、1997年(平成9年)に解体修理と主屋の復元が行われ、一般公開されている。 ここでは、本陣と同格とするために用いられた畳廊下や屋根付きの玄関、大名が宿泊した上段の間など、当時の格式高い宿泊施設の様子をうかがい知ることができる。
また、宿場の東の入り口には、見張り番所があったことを示す「見付石垣」が残されている。 江戸幕府が慶長9年(1604年)に街道の両側に植えさせた松や杉が始まりとされる「旧東海道松並木」も、約700メートルにわたって続き、往時の街道の雰囲気を今に伝えている。
かつて渡船場であった「北雁木」の跡には、常夜燈と石畳が残り、当時のたたずまいを偲ばせる。 浜名湖に面したこの地は、現在もシラス漁が盛んで、舞阪漁港は日本一のシラス漁獲量を誇る。 明治後期からは鰻の養殖も盛んになり、一時は全国有数の産地として知られたという。 弁天島には、うなぎの霊の冥福を祈願するため、今切口の方角を向いて建立された「うなぎ観音」が立つ。
舞坂宿の歴史をたどると、そこには単なる宿場の機能を超えた、土地と人の関係が見えてくる。明応地震によって陸路が途絶え、否応なしに水上交通の要衝となったこの地は、自然の力によってその性格を決定づけられたと言えるだろう。他の宿場が商業や城下町の機能と結びついて発展したのに対し、舞坂はひたすらに「渡し」という交通インフラの維持に特化していった。
その結果、この地には、大名から庶民まで、あらゆる旅人の安全な渡航を支えるための緻密なシステムが構築された。身分に応じた雁木の使い分けや、荒波から航路を守るための大規模な波除け杭の設置は、自然の厳しさの中で培われた知恵と労力の結晶であった。この「渡し」という困難な課題に正面から向き合い、それを乗り越えることで、舞坂は東海道の重要な結節点としての役割を果たし続けたのだ。
現代の舞阪に立つと、旧街道の松並木や脇本陣の遺構、そして波静かな浜名湖の風景が、かつての今切の渡しの物語を静かに語りかけてくる。それは、自然の摂理と向き合い、その中で活路を見出してきた人々の確かな足跡なのである。## 浜名湖に開かれた宿、舞坂
東海道を旅する者が、江戸から数えて三十番目の宿場、舞坂にたどり着くと、目の前には広大な浜名湖が横たわっていた。陸路が途切れるこの場所で、旅人は舟に乗り換え、対岸の新居宿を目指すことになる。その渡船場が置かれた舞坂宿は、単なる休憩地ではなく、水上交通の要衝として独特の役割を担っていたのだ。なぜこの地が、これほどまでに「渡し」に特化した宿場となったのか。その背景には、自然の猛威と、それに対応してきた人々の歴史が深く刻まれている。
舞坂の地名は、鎌倉時代の文献『吾妻鏡』に「遠江国舞沢」として初見されるほど古い。元々は浜名川東岸の砂洲上に集落を形成していたと考えられている。しかし、その運命を大きく変えたのが、明応7年(1498年)に発生した明応地震とその津波であった。この大災害によって浜名湖と外海を隔てていた陸地が切れてしまい、海水が流入して淡水湖だった浜名湖は汽水湖へと変貌した。この新しくできた湖口は「今切」と呼ばれ、東西交通の大きな障害となったのである。
江戸幕府を開いた徳川家康は、慶長6年(1601年)に東海道の宿駅伝馬制度を整備し、五十三次を定めた。この時、舞坂は江戸から三十番目の宿場として指定され、今切の渡しの渡船場を担うことになった。 対岸の新居宿との間を結ぶ渡船は「今切の渡し」と呼ばれ、東海道における唯一の海上路として、多くの旅人にとって避けて通れない難所でもあった。 渡しの安全を祈願して、宝永6年(1709年)には弁天島に弁天神社が建立されたという記録も残る。
舞坂宿は、この渡しの機能を効率的に運用するため、宿場の西外れに位置する坪井村と馬郡村を加宿とした。 宿場内は砂町、西町、仲町、新町と続き、天保14年(1843年)の記録によれば、宿内町並みは東西約655メートルにわたり、加宿を含めて人口2475人、家数541軒を数えた。その中には本陣2軒、脇本陣1軒、旅籠屋28軒が含まれていたという。
舞坂宿が他の宿場町と一線を画すのは、その機能が「今切の渡し」に集約されていた点にある。東西交通の要衝でありながら、同時に難所でもあったこの水上路をいかに円滑に、そして安全に渡らせるかが、宿場の最大の役割だった。
渡船場は「雁木(がんげ)」と呼ばれ、身分によって利用する場所が分かれていた。北雁木は大名や幕府役人などの高位の者が利用し、中(本)雁木は武士を含む一般の旅人が多く利用した。最も南に位置する南雁木は、庶民の乗降や荷物の積み下ろしに使われたという。 特に北雁木は、街道から水際まで約18メートルにわたって石畳が敷き詰められた、格式の高い造りであった。
この渡船の維持には多大な労力と費用が要された。今切口からは遠州灘の荒波が頻繁に打ち寄せ、航行を妨げたため、舞坂側の航路には数万本の波除け杭が打ち込まれたという。 これらの杭に砂が堆積し、現在の弁天島が形成される起因になったとも言われている。 また、元禄12年(1699年)の高潮や宝永4年(1707年)の宝永地震といった自然災害は、今切関所や新居宿に甚大な被害をもたらし、渡しの航路を延長させる結果となった。 渡航の不便さから、東海道を避け本坂通に迂回する旅人も現れたほどであった。
宿場に置かれた渡船役場は、この渡船の運営を取り仕切り、文久2年(1862年)の記録では、総家数309軒のうち244軒が宿家数とされ、多くの百姓が漁業や渡船を副業としていたことが示されている。 鰻や蛤、魚料理が名物とされており、浜名湖の恵みが宿場経済を支える重要な要素であったことがうかがえる。 江戸時代には海苔の養殖も盛んに行われ、宿駅制度廃止後も重要な産業として残ったという。
東海道には、舞坂宿のように水上交通を伴う宿場がいくつか存在した。例えば、東海道最大の宿場であった尾張国の宮宿(現在の名古屋市)もその一つだ。宮宿は伊勢国桑名宿との間に「七里の渡し」と呼ばれる海上路があり、伊勢参りの玄関口として栄えた。 また、江戸から二番目の宿場である川崎宿も、多摩川を越える「六郷の渡し」を抱えていた。
これらの宿場は、いずれも陸路だけでは到達できない地理的条件を抱え、渡船の運営が宿場機能の核となっていた点で共通する。しかし、その規模や背景には違いが見られる。宮宿は伊勢神宮への参拝客という巨大な需要を背景に持ち、陸路の宿場としても商業が発展した大規模な宿場であった。 川崎宿は、品川宿と神奈川宿の間の距離が長く、伝馬の負担を軽減するために後から設置されたという経緯を持つ。
対して舞坂宿の「今切の渡し」は、明応地震という自然災害によって陸路が寸断された結果として生まれた側面が強い。 そのため、渡しの安全確保と維持に宿場の資源が多く割かれ、特に荒波から航路を守るための波除け杭の設置など、自然との格闘の歴史が色濃く残る。 また、新居宿との間には今切関所が置かれ、幕府の厳重な管理下に置かれていた点も特徴的である。
このように、水上交通を抱える宿場は、それぞれが地理的条件、歴史的経緯、そして背負う行政的・経済的役割に応じて異なる発展を遂げた。舞坂宿は、その中でも特に「今切の渡し」という難所を乗り越えるための技術と組織力を培い、純粋な交通の要衝としての性格を強く持っていたと言えるだろう。
現代の舞阪町(旧舞坂宿)は、静岡県浜松市中央区に位置し、かつての宿場町の面影は失われつつあるものの、その歴史を伝える遺構が点在している。 特に貴重なのが、旧東海道で唯一現存する脇本陣の遺構である「舞坂宿脇本陣」だ。 天保9年(1838年)に建てられた脇本陣「茗荷屋」の書院棟が残り、1997年(平成9年)に解体修理と主屋の復元が行われ、一般公開されている。 ここでは、本陣と同格とするために用いられた畳廊下や屋根付きの玄関、大名が宿泊した上段の間など、当時の格式高い宿泊施設の様子をうかがい知ることができる。
また、宿場の東の入り口には、見張り番所があったことを示す「見付石垣」が残されている。 江戸幕府が慶長9年(1604年)に街道の両側に植えさせた松や杉が始まりとされる「旧東海道松並木」も、約700メートルにわたって続き、往時の街道の雰囲気を今に伝えている。
かつて渡船場であった「北雁木」の跡には、常夜燈と石畳が残り、当時のたたずまいを偲ばせる。 浜名湖に面したこの地は、現在もシラス漁が盛んで、舞阪漁港は日本一のシラス漁獲量を誇る。 明治後期からは鰻の養殖も盛んになり、一時は全国有数の産地として知られたという。 弁天島には、うなぎの霊の冥福を祈願するため、今切口の方角を向いて建立された「うなぎ観音」が立つ。
舞坂宿の歴史をたどると、そこには単なる宿場の機能を超えた、土地と人の関係が見えてくる。明応地震によって陸路が途絶え、否応なしに水上交通の要衝となったこの地は、自然の力によってその性格を決定づけられたと言えるだろう。他の宿場が商業や城下町の機能と結びついて発展したのに対し、舞坂はひたすらに「渡し」という交通インフラの維持に特化していった。
その結果、この地には、大名から庶民まで、あらゆる旅人の安全な渡航を支えるための緻密なシステムが構築された。身分に応じた雁木の使い分けや、荒波から航路を守るための大規模な波除け杭の設置は、自然の厳しさの中で培われた知恵と労力の結晶であった。この「渡し」という困難な課題に正面から向き合い、それを乗り越えることで、舞坂は東海道の重要な結節点としての役割を果たし続けたのだ。
現代の舞阪に立つと、旧街道の松並木や脇本陣の遺構、そして波静かな浜名湖の風景が、かつての今切の渡しの物語を静かに語りかけてくる。それは、自然の摂理と向き合い、その中で活路を見出してきた人々の確かな足跡なのである。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
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