2026/6/4
雨降る大山、信仰と行楽の歴史を辿る

大山の歴史と大山阿夫利神社について詳しく知りたい。
キュリオす
大山阿夫利神社は、古代から水を司る神として信仰を集めてきた。江戸時代には「大山詣で」として庶民の行楽となり、富士講とも異なる独自の文化を育んだ。現代もその歴史と自然が息づいている。
丹沢山地の東端に位置する大山は、その均整の取れたピラミッド型の山容で、古くから関東平野のどこからもその姿を望むことができた。標高1,252メートルのこの山は、相模湾からの湿った空気がぶつかり、常に雲や霧をまとい、雨を降らせることから「あめふり山」とも呼ばれ、それが転じて「阿夫利山」という名になったという。 この自然現象が、人々の目にこの山を特別な存在として映し出した。なぜ、この「雨降る山」が、かくも長い歴史を通じて人々の信仰を集め、関東総鎮護の霊山として崇められてきたのか。その問いは、山中に点在する巨石や湧水、そして何世紀にもわたる人々の営みの中に、静かに答えを探すこととなる。
大山が信仰の対象となった時期は、極めて古い。山頂からは縄文時代後期中葉の土器片や古墳時代の土師器片が発掘されており、少なくともこの頃には祭祀が行われていたと推定される。 正式な創建は、紀元前97年、第10代崇神天皇の御代と伝えられる「大山阿夫利神社」に始まる。 当時、この山は山野の恵みと水を司る神、そして海上からは船の羅針盤となる海洋の守り神、大漁の神として信仰を集めた。主祭神は大山祗大神(おおやまつみのおおかみ)で、他に高龗神(たかおかみのかみ)と大雷神(おおいかずちのかみ)を祀る。
奈良時代に入ると、755年(天平勝宝7年)に東大寺の別当であった良弁僧正が大山に入山し、堂塔や僧坊を建立したことで、神仏習合の時代が始まった。 この頃、阿夫利神社は「石尊大権現」とも称され、修験道の道場として栄えることになる。平安時代に編纂された『延喜式』には「阿夫利神社」と記され、国幣の社としての地位を確立した。
鎌倉時代には、源頼朝が武運長久を祈願し太刀を奉納したと伝えられ、その後の北条氏、さらには江戸時代の徳川氏に至るまで、代々の武家政権から厚い崇敬を受けた。 特に徳川家康は、戦国時代に北条方についた修験道勢力を下山させ、大山寺を真言宗に改宗させるなど、支配体制を強化した。その後、徳川家光の時代には18万両もの巨費が投じられ、社殿や堂宇が改築されるなど、その威容は極まったという。
大山が古くから信仰を集めた背景には、その地理的条件と自然現象が深く関わっている。関東平野から一望できる秀麗な山容は、人々に畏敬の念を抱かせた。また、相模湾からの湿った空気が山にぶつかり、頻繁に雨を降らせる「雨降山」の特性は、農業にとって不可欠な水を司る神として、農民たちの信仰の中心となった。漁師たちにとっては、海上からの目印となる羅針盤であり、大漁をもたらす神として崇められたのである。
江戸時代中期から後期にかけて、「大山詣で」と呼ばれる庶民による集団参拝が隆盛を極めた。 これは単なる信仰行為に留まらず、一種の行楽として広まった点が特徴である。江戸の火消しや大工、鳶職人といった職人たちが「講(こう)」と呼ばれる団体を組織し、費用を積み立てて参詣に訪れた。 彼らは白装束をまとい、大きな木太刀を担いで大山道を歩いた。この「納太刀」の風習は、源頼朝が武運長久を祈願して太刀を奉納したことに由来するとされ、庶民の間にも広まったとされる。
大山詣では、江戸から数日で行き来できる手軽さも人気の理由であった。関所を通る必要がなく、帰りがけには江の島などの観光地に立ち寄ることも可能だったため、信仰とレジャーが一体となった旅として、多くの江戸庶民の心を捉えた。 参拝者の案内や宿泊の世話をする「御師(おし)」、後に「先導師(せんどうし)」と呼ばれる人々が山麓に宿坊を構え、講中を迎え入れた。 彼らの熱心な布教活動により、大山信仰は関東一円だけでなく、静岡、山梨、長野、新潟、福島にまで広がり、最盛期には年間20万人もの参拝者が訪れたとされる。
江戸時代の寺社参詣は多様であったが、大山詣では富士講やお伊勢参りとは異なる特徴を持っていた。当時、富士山への登拝も盛んであったが、富士は「木花咲耶姫(このはなのさくやひめ)」を祀る女神の山であり、大山は「大山祗大神」を祀る男神の山とされた。 江戸中期には「片参り」を忌む風習が広まり、「富士に登らば大山に登るべし、大山に登らば富士に登るべし」と唱えられ、両山を参拝する「両詣り」が流行した。
富士山への旅が吉田口から登る場合でさえ数日を要し、箱根の関所を越える大旅行であったのに対し、大山は江戸から比較的近く、関所を通らずに3日から4日程度で完結する小旅行として位置づけられた。 この手軽さが、伊勢参りや富士参詣が難しい庶民にとって、大山を最も身近な信仰の対象としたのである。
大山講と富士講は、いずれも「講」という組織を通じて集団参拝を行う点で共通していた。しかし、大山詣でには、職人たちの連帯感や、旅そのものを楽しむ「遊び」の要素が色濃く見られた。品川宿の講中が帰路に江の島や鎌倉を見物したように、信仰の旅と娯楽が融合した独特の文化を形成した。 このような信仰と行楽の融合は、江戸時代の庶民文化の成熟を示すものとも言える。
明治維新後の神仏分離令により、大山の信仰形態は大きな転換点を迎える。 それまで神仏習合の霊山として一体であった「石尊大権現」と「大山寺」は分離され、石尊大権現は「大山阿夫利神社」の旧称に復し、山頂に本社、中腹に下社が置かれた。大山寺は現在の地に移され、それぞれの道を歩むことになったのである。
現代の大山は、丹沢大山国定公園の一部として、豊かな自然を残しつつ、都心からアクセスしやすい観光地としての顔も持つ。 1931年(昭和6年)に開業し、戦時中の廃止を経て1965年(昭和40年)に再開された大山ケーブルカーは、今も多くの参拝者や登山客を中腹の阿夫利神社下社まで運んでいる。 下社からの眺望は、2015年(平成27年)には「ミシュラン・グリーンガイド・ジャポン」で2つ星を獲得するなど、国内外から高く評価されている。
山麓には、かつて大山詣でを支えた宿坊街が今も残り、一部は一般の宿泊客も受け入れる旅館として営まれている。 先導師と呼ばれる人々は、形を変えながらも大山信仰の伝統を継承し、現代の参拝者たちを迎え入れている。大山詣でが「日本遺産」に認定されたことで、その歴史と文化は改めて注目され、保護と継承の取り組みが進められている。 大山の湧水を利用した豆腐料理や地酒といった食文化も、この地の歴史とともに育まれてきたものだ。
大山阿夫利神社の歴史を辿ると、古代の山岳信仰から中世の神仏習合、そして近世の庶民信仰へと、時代とともにその信仰の形を変えてきたことがわかる。しかし、その根底には、常に水を供給し、恵みをもたらす「雨降る山」への畏敬の念があった。この自然条件が、農民や漁民、そして江戸の職人たちにとって、信仰の山であり続ける理由となったのだろう。
現代において、ケーブルカーで手軽にアクセスできるようになった大山は、かつての厳しい修験の山という側面よりも、観光やレジャーの場として多くの人に親しまれている。しかし、山頂の巨石を御神体とする古来の信仰や、江戸時代から続く「講」の活動、そして麓に残る宿坊の町並みは、この山が単なる景勝地ではないことを静かに示している。大山は、その雄大な姿を変えることなく、人々の生活や信仰のあり方がいかに変遷してきたかを、具体的な風景として今に伝えているのだ。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。