2026/7/2
なぜ竹田城跡は雲海に浮かぶ?石垣の秘密と盆地の気象条件

兵庫県の雲海で有名な竹田城について詳しく知りたい。
キュリオす
兵庫県朝来市の竹田城跡は、雲海に浮かぶ幻想的な姿で知られる。その発生メカニズムは、盆地地形と気温差、湿度、風、晴天といった気象条件の複合作用による。約400年前に廃城となった総石垣の遺構が、この自然現象によって「天空の城」として際立つ。
雲の海に浮かぶ古城の問い
兵庫県朝来市の山中に、古城山という標高353.7メートルの山がある。その山頂に築かれた竹田城跡は、秋から冬にかけての早朝、深い霧に包まれると、あたかも雲の海に浮かぶ孤島のように見える。この幻想的な光景は「天空の城」「日本のマチュピチュ」とも称され、多くの人々を惹きつけてきた。しかし、なぜこの場所で、これほどまでに頻繁に、そして見事な雲海が出現するのだろうか。その問いは、ただの自然現象の解明に留まらず、この地に城が築かれた歴史的な必然性や、現代に至るまでの人々の営みと深く結びついている。
山名と赤松の狭間で、石垣の城へ
竹田城の起源は室町時代に遡る。嘉吉年間(1443年頃)、当時の但馬守護であった山名宗全が、配下の太田垣氏に命じて築かせたのが始まりとされている。播磨と但馬の国境に位置する古城山は、丹波国や播磨国への出入り口にあたる戦略的な要衝であった。山名氏は播磨守護の赤松氏と対立しており、竹田城は赤松氏の侵攻に備える最前線基地としての役割を担ったのである。当初は土塁で防御された簡素な山城であったと考えられている。
太田垣氏は山名四天王の一角を占める重臣として、光景を初代として7代にわたり竹田城主を務めた。しかし、戦国時代に入ると山名氏の勢力は衰退し、周辺勢力との間で城の支配はめまぐるしく変わる。1577年(天正5年)には羽柴秀長による但馬攻めによって竹田城は落城し、太田垣氏は没落した。その後、羽柴秀長、桑山重晴と城主が続き、1585年(天正13年)に播磨龍野城主であった赤松広秀(斎村政広)が2万石(後に2万2千石)で入城する。
現在に残る壮大な石垣の遺構は、この赤松広秀の治世に大規模に整備されたものと見られている。 広秀は古城山各所から石を切り出し、近江国(現在の滋賀県)の石工集団「穴太衆」を呼び寄せて石垣を造成したという。 彼の築いた石垣は、野面積みという自然石を活かした積み方でありながら、上の石が下の石よりも外側に出る工夫が凝らされ、一般的な石垣に比べて登りづらい構造であった。 これは、穴太衆が安土桃山時代に築いた石垣の特徴をよく表している。 天守台南側の石垣は高さ10.6メートルにも及び、近世城郭に匹敵する規模を誇る。 また、姫路城と同じ瓦が出土していることから、羽柴氏も城郭の整備を支援した可能性が指摘されている。 これは、生野銀山を抑える上での竹田城の重要性ゆえであった。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いが竹田城の運命を決定づけた。当初、広秀は西軍に与したが、西軍の敗戦を知ると竹田城に撤退。その後、東軍として鳥取城を攻めていた亀井茲矩の要請を受けて出陣し功を挙げたものの、鳥取城下町を放火した罪を問われ自刃を命じられる。 これにより竹田城は廃城となり、赤松広秀は竹田城最後の城主となった。 築城から約160年、総石垣の城郭として完成した矢先の出来事であった。廃城後も石垣はほぼ当時のままの状態で残り、現在に至るまでその威容を伝えている。
盆地の霧が城を浮かせる
竹田城跡に雲海が頻繁に発生する要因は、地理的条件と気象条件が複合的に作用した結果である。まず地理的な条件として、竹田城が位置する朝来市は、円山川が流れる谷筋にあり、周囲を山々に囲まれた盆地地形を形成している。 この盆地地形が、雲海発生の物理的な舞台となる。
気象条件としては、主に以下の四つの要素が挙げられる。一つは「前日の日中と早朝の気温差が大きいこと」である。 昼間に暖められた地表の空気が、夜間に放射冷却によって急激に冷やされると、空気中の水蒸気が凝結しやすくなる。特に10℃以上の寒暖差がある日が雲海発生の確率を高めるという。
二つ目は「湿度が高いこと」、つまり前日までに雨が降るなどして、地面付近に十分な湿気が残っていることである。 円山川から発生する水蒸気が、この湿度の供給源となる。 夜間に冷やされた空気が川の水温より低くなると、川から蒸発霧が発生し、それが雲海の正体となるのだ。
三つ目は「風が弱いこと」、つまり無風に近い状態である。 風があると、発生した霧が拡散してしまい、雲海としてとどまることができない。風速2m/s以下の無風に近い朝が理想とされる。
四つ目は「早朝がよく晴れていること」。 晴れた夜は放射冷却がより効率的に進み、気温が大きく低下するため、霧が発生しやすくなる。日の出から午前8時頃までが雲海が最も綺麗に見える時間帯とされている。
これらの条件が揃うことで、円山川から発生した霧が盆地内に滞留し、山頂の竹田城跡を包み込むように広がる。城跡が標高353.7メートルの古城山山頂に築かれているため、その霧が下界を覆い尽くし、城だけが雲の上に浮かんでいるかのような「天空の城」の光景が生まれるのである。 雲海が発生しやすい時期は9月下旬から4月上旬で、特に9月から11月末頃が「雲海シーズン」として人気が高い。 11月下旬から12月上旬が最も濃い雲海が出やすい時期とも言われる。
他の「天空の城」と異なる石垣の存在
日本には「天空の城」と称される城跡が複数存在する。福井県の越前大野城、岡山県の備中松山城、岐阜県の郡上八幡城などがその代表例である。 これらの城も、山間部の盆地地形や川霧、放射冷却などの気象条件が重なることで雲海に浮かび上がる幻想的な姿を見せる点は共通している。 しかし、竹田城が他の「天空の城」と一線を画すのは、その「完存する総石垣の遺構」にあると言える。
例えば、備中松山城は日本に12しかない現存天守を持つ唯一の山城として知られる。 雲海に浮かぶ現存天守という点で、竹田城の石垣のみが残る姿とは異なる魅力を放つ。 越前大野城も復興天守ではあるものの、天守が雲海に浮かぶ姿が特徴的だ。 これらの城は、具体的な建築物としての天守や櫓が、雲海という自然現象と結びつくことで「天空の城」としての物語を紡いでいる。
一方、竹田城は天守などの建築物は残っておらず、約400年前に廃城となって以降、石垣のみがほぼ当時のままの状態で残されている。 その規模は南北約400メートル、東西約100メートルに及び、全国屈指の規模を誇る。 虎が臥せているように見えるという縄張りの形状も特徴的だ。 この壮大な石垣群が、雲海に浮かび上がる姿は、単なる城跡の景観というよりも、まるで古代遺跡のような趣を帯びる。実際に「日本のマチュピチュ」という呼称も、この石垣の姿から来ている側面がある。
他の天空の城が「建物と雲海」の組み合わせで魅せるのに対し、竹田城は「石垣という土台と雲海」の組み合わせで、より根源的な存在感を放つ。石垣は、城の防御機能の核であり、その構築には当時の最先端の土木技術が注ぎ込まれた。重機のない時代に山頂まで大量の石を運び上げ、緻密に積み上げた人々の労力と技術が、雲海という自然現象によってさらに際立つ。この点が、竹田城が「日本の天空の城」の代表格として特別な位置を占める所以だろう。
観光地としての「天空の城」と、その足元
竹田城跡は、近年「天空の城」「日本のマチュピチュ」としてメディアで紹介されたことをきっかけに、急激に注目度が高まった。 2012年には高倉健主演の映画『あなたへ』のロケ地となり、2006年には日本100名城にも選定されたことで、その人気は不動のものとなった。 2013年には年間約50万人の観光客が訪れ、2014年には100万人を超える勢いで増加したという。
しかし、この急増する観光客は、竹田城跡とその周辺地域に様々な課題をもたらした。もともと多くの観光客の受け入れを想定していなかったため、駐車場不足による渋滞や違法駐車が頻発。 また、城跡自体の損傷や破壊も進行し、その保全が喫緊の課題となった。 観光客の多くが雲海目的で早朝に集中するため、住民の生活への影響も懸念された。
朝来市はこれらの課題に対応するため、2012年に「竹田城課」を新設(現在は観光交流課と文化財課に業務を移管)。 2014年には観光バスの事前予約制や乗降所待機所の有料化を導入するなど、交通対策や環境整備を進めている。 また、城跡の保存活用計画を策定し、歴史的価値の継承と周辺地域の歴史文化資産との連携を図っている。
現在、竹田城跡へのアクセスは、JR竹田駅から登山道を利用するか、タクシーや天空バスで「竹田城跡バス停」まで向かう方法がある。 雲海シーズン中は、日の出前から観覧が可能となるため、前日から近隣に宿泊する観光客も多い。 城跡から雲海を眺めるだけでなく、円山川を挟んだ対岸の立雲峡からは、雲海に浮かぶ竹田城跡全体を望むことができる。 また、竹田城下町には、城の歴史を学べる情報館「天空の城」や、最後の城主である赤松広秀の供養塔が残る常光寺などがあり、城跡と合わせて歴史散策を楽しむことができる。
近年では、2014年度をピークに竹田城跡への観光客数は減少傾向にあるものの、 地元ではNPO法人などが宿泊施設の運営を担うなど、地域全体で観光振興に取り組む動きが見られる。 自然と歴史が織りなすこの風景を、いかに持続可能な形で次世代に伝えていくかが、現代における竹田城跡の大きな課題となっている。
石垣に刻まれた時間と、雲海の無常
竹田城跡を包み込む雲海は、単なる自然の現象としてのみ捉えるべきではないだろう。それは、この地に城を築き、守り、そして去っていった人々の営みの時間を、刹那的に映し出す舞台装置でもある。山名宗全が戦略的な要衝として城を築かせ、赤松広秀が総石垣の堅牢な城郭へと改修した。彼らが地形を読み、石を運び、積み上げた膨大な労力と時間は、石垣という形で今も残る。
しかし、その堅固な石垣も、関ヶ原の戦いという歴史の転換点の前には無力であった。城は廃され、人々は去り、残されたのは石の骨格のみ。その廃墟となった石垣が、時に雲海という自然現象によって再び「天空の城」として姿を現す。これは、人間の築き上げたものが、自然の悠久な時間の中で、時に忘れ去られ、時に新たな価値を与えられるという、ある種の無常観を想起させる。
他の「天空の城」が現存する建物と雲海の組み合わせで歴史を語るのに対し、竹田城は、現存しない建物の記憶と、残された石垣のリアリティ、そして雲海の幻想性が複雑に絡み合う。この石垣は、戦国時代の権力闘争と、当時の最先端の築城技術の痕跡である。それが、朝来盆地の特殊な気象条件と出会うことで、現代人にとっての「絶景」となる。つまり、竹田城の雲海は、自然の偶然と歴史の必然が交錯する一点に現れる、極めて稀有な現象なのだ。その風景は、過去の人々の決意と、それを覆い隠す自然の力を同時に見せつける。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
参考
- 竹田城の歴史 - 竹田城跡公式ホームページ - 朝来市公式ホームページcity.asago.hyogo.jp
- 【兵庫県】竹田城の歴史~最後の城主となった赤松広秀によって築かれた石垣 – 昭文社オンラインストアec.sp-mapple.jp
- 竹田城(兵庫県朝来市)登城の前に知っておきたい歴史・地理・文化 #DJ006|デジタル城下町note.com
- 竹田城 ~総石垣を備えた天空の城~ | 城なびshiro-nav.com
- 竹田城の歴史と特徴/ホームメイトhomemate-research-castle.com
- 竹田城|歴史と見どころ 雲海に浮かぶ天空の城を美しい写真で巡る - お城めぐりFANshirofan.com
- 竹田城の歴史と見どころを紹介/ホームメイトosaka-touken-world.jp
- 兵庫県竹田城の石垣は上の石が外側に出た工夫された石垣 | 雑学ネタ帳zatsuneta.com