2026/6/12
但馬国はなぜ「谷間の国」と呼ばれたのか?地形が育んだ但馬牛と鉱山の歴史

但馬国の歴史について詳しく教えてほしい。
キュリオす
太古の湖から陸地が生まれ、鉱山開発や独自の畜産・工芸が発展した但馬国。その地理的条件が、但馬牛の純粋な血統や生野銀山の近代化への貢献、そして現代に息づく文化をどのように育んだのかを辿る。
古代の湖と開拓の物語
但馬の歴史を語る上で、まず触れるべきは、その地理的特異性だろう。太古の但馬中央平野は広大な湖であったとする説がある。古記録『舊記』には「太古、但馬はみず海なりき」と記され、濁った水が広がり、高峯が島となって点在する泥海のようであったと描写されているのだ。彦炎々見尊が二神に命じ、人々を集めて北の崎を切り開き、北海へ水を流したことで陸地が現れ、「多遅摩の国」と名付けられたという伝説は、豊岡市城崎町周辺に淡水貝の貝塚が確認されることからも、単なる神話に留まらない示唆を含んでいる。
約2万5000年前のナイフ形石器が新温泉町の畑ヶ平遺跡から出土しているように、但馬には旧石器時代から人が居住していた。縄文時代には標高の高い場所で生活が営まれ、温暖な気候を背景に狩猟採集が行われていたと推測されている。弥生時代に入ると、豊岡市の駄坂川原遺跡からは稲の穂を刈り取る石包丁やモミ跡のある土器が見つかるなど、大陸から伝わった稲作技術が積極的に取り入れられていった様子がうかがえる。
古墳時代には、3世紀末頃から但馬にも豪族の古墳が築かれ始める。特に5世紀には、近畿地方最大級の円墳とされる茶すり山古墳や、但馬最大の前方後円墳である池田古墳が朝来市に造営された。これらの大規模な古墳が南但馬に集中していることは、この地域が大和朝廷と強い結びつきを持っていたことを示している。 7世紀後半には律令国家体制が整い、但馬国が丹波国から分離して成立したと推定されている。 但馬国府は豊岡市日高町に置かれ、中央から派遣された国司が政治を司った。
鉱山と武士の世の変転
中世に入ると、朝廷や貴族に代わり武士が台頭する。平安時代末期には平家が但馬国を知行国とし、その支配下に置かれたが、源平の戦いで源頼朝が勝利すると、但馬も鎌倉幕府の体制に組み込まれることになった。 1221年(承久3年)の承久の乱では、但馬守護の安達親長が上皇方に味方したが、乱は幕府方の勝利に終わり、新たな守護として太田昌明が任命された。 以後、太田氏による但馬守護が110年余り続き、1285年(弘安8年)には土地台帳である「但馬国太田文」が作成され、中世但馬の所領関係を知る貴重な史料となっている。
南北朝時代には、但馬でも各地で南軍・北軍が入り乱れて攻防を繰り広げたが、1363年(貞治2年)に山名時氏が室町幕府に帰順し、その長男・師義に但馬守護職が与えられた。 山名氏はその後も勢力を拡大し、一時期は全国の6分の1にも及ぶ領国を支配し、「六分の一殿」と称されるほどの隆盛を誇った。 しかし、戦国時代に入ると、但馬国内では垣屋氏、太田垣氏などの国人衆が力を持ち、山名氏の支配は一枚岩ではなかった。
この状況に目をつけたのが織田信長である。永禄12年(1569年)、信長は木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)を但馬へ差し向けた。但馬が重視された理由の一つには、生野銀山の存在があったと考えられている。 銀山は戦国大名にとって重要な財源であり、但馬は軍事だけでなく経済の面でも見過ごせない土地であったのだ。 天正8年(1580年)、秀吉は但馬へ再進攻し、山名祐豊の拠った有子山城を落とし、ここに山名氏の支配は終焉を迎えた。 秀吉は弟の羽柴秀長を出石城に、宮部継潤を豊岡城に配置し、但馬は織豊政権の支配下に置かれた。
江戸時代に入ると、但馬は出石藩、豊岡藩、村岡藩といった藩が置かれ、生野銀山は幕府の直轄地として代官所が設置された。 生野銀山は佐渡金山、石見銀山とともに幕府の財政を支える重要な役割を担い、最盛期には月に500kg以上の銀を産出したとも言われている。 「白口千軒」と称されるほどの賑わいを見せた生野の町は、鉱山がもたらす富によって発展した。 また、但馬沿岸の港は北前船の寄港地として栄え、各地の産物が運ばれ、竹野港や諸寄港などが活況を呈した。
閉鎖された環境が育んだもの
但馬国の地理的特徴は、その歴史と文化に深く影響を与えてきた。北は日本海、東は丹波・丹後、南は播磨、西は因幡に隣接し、東西南北それぞれ約60kmにわたる広大な地域でありながら、その約70%が山地で占められている。 氷ノ山をはじめとする1,000m級の山々が連なり、平野部は円山川や竹野川などの河川沿いに形成されている。 このように山に囲まれ、交通の便が必ずしも良くなかった環境は、但馬独自の産業や文化を育む要因となった。
例えば、但馬牛はその代表例と言えるだろう。日本の和牛のルーツとも言われる但馬牛は、古くから役牛として田畑を耕したり、荷物を運んだりするのに重宝されてきた。 平安時代の『続日本書紀』にも「但馬牛は耕運、輓用、食用に適す」と記されており、古くから良質な牛が生産されていたことがわかる。 険しい山と谷に囲まれた但馬の地では、峠を越えて他の土地の牛と交配することが困難であったため、限られた地域内での交配が続けられた。 この「閉鎖育種」とも言える環境が、但馬牛の優れた遺伝子を純粋な形で継承させ、独特の血統を確立する要因となったのだ。 現在、全国の黒毛和牛の99.9%が、昭和初期に香美町小代区で生まれた名牛「田尻号」の子孫にあたると言われている。
また、江戸時代後期に盛んになった養蚕業も、但馬の地理と結びついている。 雪深く農業だけでは生活が厳しい但馬地方にとって、養蚕は現金収入を得られる最適な産業であった。 養父郡蔵垣村(現在の養父市大屋町)の庄屋であった上垣守国は、養蚕技術の研究を重ね、享和3年(1803年)には養蚕の教科書とも言うべき『養蚕秘録』を著した。 この書物は国内だけでなく、オランダ商館医シーボルトによってヨーロッパにも紹介され、日本の技術輸出の第1号とも言われるほど、養蚕技術の発展に貢献した。 養蚕農家では母屋の2階・3階を蚕室とした中3階建ての住宅が建てられ、現在もその一部が養父市に残されている。
さらに、江戸時代後期に発展した出石焼もまた、地域の資源と結びついた産業である。 天明4年(1784年)に伊豆屋弥左衛門が陶器窯を開いたのが始まりとされ、その後、優良な磁石鉱の鉱脈が発見されたことで磁器の生産が始まった。 寛政11年(1799年)からは出石藩による窯の直営が行われ、藩の奨励政策によって民間窯場も相次いで操業を開始し、染付を中心に白磁や色絵などの生産が行われ最盛期を迎えた。 「雪よりも白い」と評される白磁は出石焼の代名詞となり、国の伝統的工芸品にも指定されている。
鉱山の栄枯盛衰と地域の変貌
但馬の歴史を特徴づける要素として、鉱山開発の存在は欠かせない。特に生野鉱山は、日本有数の銀山として1200年以上の歴史を持つ。 大同2年(807年)に開坑したと伝えられ、室町時代の天文11年(1542年)には但馬守護・山名祐豊が石見銀山(島根県)の技術を導入し本格的な操業を開始した。 戦国時代には、織田信長や豊臣秀吉といった天下人が生野銀山を重要な財源として支配下に置き、鉱山開発を進めた。 秀吉の時代には、生野銀山からの銀の運上が全国第1位を占めるほどであったという。
江戸時代には幕府直轄の「御所務山」として、佐渡金山、石見銀山とともに幕府財政を支えた。 明治時代に入ると、生野鉱山は日本初の官営鉱山となり、フランスから多くの鉱山技師を招き、西洋の最新技術が導入された。 機械式精錬技術、本格的な火薬による採鉱方法、鉱業用送水路やダム建設、トロッコ軌道の敷設、日本最初の鉱山学校の設立など、多くの「日本初」の試みが但馬の地から始まった。 これは日本の近代化を先導する模範鉱山としての役割を担い、生野は企業城下町として発展した。 しかし、昭和48年(1973年)に閉山を迎え、1200年の歴史に幕を閉じた。
生野鉱山だけでなく、産出した銅が奈良の大仏鋳造にも使われたとされる明延鉱山や中瀬金山など、但馬には歴史上重要な鉱山が点在していた。 これらの鉱山群は、地域経済を支えるだけでなく、鉱山技術や文化の発展にも寄与した。現在、これらの鉱山遺産は「鉱石の道」として日本遺産に認定され、その歴史的価値が再評価されている。
但馬の鉱山開発の歴史は、他の地域の鉱山と比較することで、その特徴がより明確になる。例えば、石見銀山(島根県)や佐渡金山(新潟県)も江戸時代には幕府直轄の重要な鉱山であった。これらの鉱山が大規模な開発によって日本の経済を支えたという点では共通している。しかし、生野鉱山が明治維新後に「日本初の官営鉱山」として西洋技術を積極的に導入し、日本の近代化の牽引役を担った点は、他の鉱山とは異なる特徴と言える。 近代化の過程で、生野では鉱山鉄道や馬車道といったインフラ整備も進められ、地域の交通網や物流にも大きな影響を与えた。
一方で、但馬の鉱山がもたらした繁栄は、その後の閉山によって地域の衰退という課題も生んだ。鉱山が閉鎖された後、かつての賑わいは失われ、人口減少や産業構造の変化に直面することになった。これは、特定の産業に依存した地域が共通して抱える問題でもある。しかし、鉱山遺産を観光資源として活用する「鉱石の道」のような取り組みは、歴史を負の遺産としてではなく、新たな価値創造の源泉として捉え直す動きと言えるだろう。
現代に息づく歴史の風景
現代の但馬は、その歴史的背景を色濃く残しながら、新たな時代への適応を模索している。かつて但馬国の一部であった豊岡市、養父市、朝来市、香美町、新温泉町からなるこの地域は、兵庫県の約4分の1を占める広大な面積を持つ。 北は日本海に面し、山陰海岸国立公園に指定された美しい海岸線が広がる一方、内陸には氷ノ山などの山々が連なる。
地域の主要産業は、金属加工品・プラスチック製品、食料品などの製造業が盛んである。 また、豊岡の「カバン」や出石の「出石焼」といった地場産業も発展し、地域の経済を支えている。 特に「出石焼」は、江戸時代から続く伝統を受け継ぎ、現在も多くの窯元で白磁を中心に多彩な作品が作られ、国の伝統的工芸品としてその価値を維持している。
「但馬牛」は、現在も兵庫県内で指定生産者によって厳格な基準のもと飼育されており、「神戸ビーフ」をはじめとする有名ブランド和牛のルーツとして、国内外で高い評価を得ている。 兵庫県では登録された農家が但馬牛を飼育し、協議会で合格した牛肉だけが正式なルートで出荷される。 こうした厳格な管理体制が、但馬牛の品質とブランド力を保つ要因となっている。
近年では、観光業も盛んである。城崎温泉や湯村温泉といった温泉地、出石の城下町、そして前述の生野銀山や明延鉱山といった近代化産業遺産「鉱石の道」などが観光客を惹きつけている。 また、豊岡市を中心に進められてきたコウノトリの野生復帰の取り組みは、生物多様性の保全と地域活性化の象徴となっている。 山陰海岸ジオパークは、但馬の多様な地形や地質を活かした観光振興の柱の一つであり、自然と歴史を結びつける新たな試みが続いている。
谷間の国の、変容と不変の姿
但馬国の歴史を振り返ると、その地理的条件が、時に外部からの影響を遮断し、時に独自の文化や産業を育んできたことがわかる。広大な山々と日本海に挟まれた地形は、中央集権的な支配が及びにくい側面を持つ一方で、鉱山資源や海運、そして固有の畜産や工芸といった多様な生業を育む土壌となった。
但馬牛の「閉鎖育種」や養蚕業の「自給自足的な発展」は、外部との交流が限定的であったがゆえに、その質を高め、独自の技術を深化させた例と言えるだろう。特に但馬牛が日本の和牛の血統のほとんどを占めるに至った事実は、その閉鎖性がもたらした、予期せぬ、しかし決定的な結果であった。それは、外部からの多様な遺伝子導入による「改良」とは異なる、地域内での厳密な選抜と継承がもたらした成果である。
また、生野銀山に見られるように、但馬は時に国家的なプロジェクトの舞台となり、日本の近代化に重要な役割を果たした。しかし、その繁栄は鉱山の閉山とともに終わりを告げ、地域は新たな活路を見出す必要に迫られた。この栄枯盛衰は、自然資源に依存する地域の宿命とも言えるが、但馬は鉱山遺産を「鉱石の道」として再定義し、観光資源として活用することで、過去の遺産を未来へと繋ぐ試みを続けている。
但馬の歴史は、単なる地方史に留まらない。それは、地理的条件が文化や産業に与える影響、中央と地方の関係性、そして近代化の波が地域にもたらす変容と、それでもなお残り続ける固有の価値を映し出す鏡である。山間の静けさの中に、あるいは海岸線の荒々しさの中に、但馬の歴史は今もその姿を留めている。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
参考
- 中山市朗ブログ:祖父が提唱する但馬の古代史に関する説! 多遅摩(但馬)湖の実在説!! - livedoor Blog(ブログ)blog.livedoor.jp
- ●古代の但馬 | 但馬再発見、但馬検定公式サイト「ザ・たじま」但馬事典the-tajima.com
- 但馬国 - Wikipediaja.wikipedia.org
- 但馬国府komatsu0513.heteml.net
- 但馬地域の概要 - 但馬広域行政事務組合tjm-kouiki.jp
- たじま【但馬(国)】 | た | 辞典 | キッズネットkids.gakken.co.jp
- 但馬国(タジマノクニ)とは? 意味や使い方 - コトバンクkotobank.jp
- ●中世の但馬 | 但馬再発見、但馬検定公式サイト「ザ・たじま」但馬事典the-tajima.com