2026/6/27
東海道と中山道が交差する草津、なぜ宿場町として栄えたのか

滋賀の草津の歴史について詳しく教えて欲しい。宿場町だ。
キュリオす
滋賀県草津市は、東海道と中山道という二大幹線街道が合流・分岐する交通の要衝として栄えた。古代からの道の重なり、戦国時代の戦略的価値、そして江戸時代の伝馬制確立を経て、宿場町としての機能と繁栄を築いた歴史を辿る。
東海道と中山道、交差する宿場の記憶
滋賀県草津市を歩くと、時折、道標が旅人の往来を静かに物語る。そこには「右 東海道いせみち、左 中仙道美のぢ」と刻まれ、かつてこの地が二つの主要街道の分岐点であったことを示す。なぜ、この草津という場所が、これほどまでに重要な宿場町として栄えたのだろうか。単なる通過点に留まらず、人とモノ、そして情報が行き交う要衝となった背景には、地理的条件と時代が織りなす必然があった。
古代からの道の重なり
草津が交通の要衝として認識され始めたのは、江戸時代よりもはるか昔に遡る。古代から官道が通っていたとされるこの地域は、奈良時代に良弁によって創建されたと伝わる寺院が存在するなど、早い時期から人々の往来があったことを示唆する。中世に入ると、草津の名は鎌倉時代の「一遍上人絵伝」にも登場し、時宗の開祖一遍がこの地を訪れた記録が残る。室町時代には、伊勢参宮の京都と伊勢の中継地点として発展し、応永29年(1422年)には将軍足利義持が伊勢に向かう際に、大規模な宿泊施設「草津御所」の築造を開始したという記録もある。
戦国時代には、織田信長が大津や草津の交通政策に力を注いだ。信長は「瀬田橋を制する者は天下を制する」という言葉に象徴されるように、琵琶湖を渡る瀬田橋の架橋や道路修築を進め、この地の戦略的価値を認識していたのだ。
決定的な転換点は、関ヶ原の戦い後の江戸時代初期に訪れる。天下を統一した徳川家康は、全国統治のため主要街道の整備に着手した。江戸を起点とする五街道の一つとして、太平洋側を通る「東海道」と、内陸の山間部を通る「中山道」が整備される。この二つの主要街道が、近江国栗太郡の草津で合流・分岐する宿場として定められたのだ。この「伝馬定書」により、宿場ごとに人馬を提供し、荷物をリレー形式で運ぶ「伝馬制」が敷かれ、草津宿は公的な交通網の要としてその存在を確立した。
二つの街道が育んだ宿場の機能
草津宿が交通の要衝として繁栄した要因は、東海道と中山道という二大幹線が交わるという地理的条件に尽きる。江戸日本橋から京都三条大橋へ向かう東海道五十三次において、草津は江戸から数えて52番目の宿場であった。一方、内陸を通り信濃・美濃方面と江戸を結ぶ中山道六十九次もまた、ここで東海道と合流していた。この合流点には「追分道標」が立てられ、旅人はここで伊勢路へ向かう東海道か、美濃路へ向かう中山道かを選択した。道標には「右 東海道いせみち 左 中仙道美のぢ」と刻まれている。
宿場としての草津は、単なる宿泊施設が集まる場所ではなかった。天保14年(1843年)の「東海道宿村大概帳」によれば、草津宿には2軒の本陣と2軒の脇本陣、そして72軒もの旅籠が存在した。本陣は、大名や公家、幕府役人といった限られた身分の高い人々が利用する格式ある宿泊施設であり、草津宿には田中七左衛門本陣と田中九蔵本陣の二つがあった。現存する田中七左衛門本陣は、約4,727平方メートルという広大な敷地と39の部屋数を誇り、東海道筋でほぼ完全に残る本陣としては最大級とされる。
宿場内には、旅人の休泊だけでなく、物流の中継地点としての機能も集約されていた。荷物の継立を行う「問屋場」や、荷物の重量を検査する「貫目改所」が置かれ、人やモノの円滑な移動を支えた。また、草津川という天井川の存在も、この宿場に特有の事情をもたらした。平常時は水がない砂川であり、江戸時代には架橋が許されなかったため、旅人は川越を強いられる一つの関門であったのだ。こうした複合的な機能と、琵琶湖に近い立地が、草津宿の経済的な繁栄と賑わいを形成していったのである。
交錯する道、異なる顔
草津宿の特異性は、東海道と中山道という二つの異なる性格を持つ街道が、同じ場所で交差した点にある。東海道は太平洋側の海岸線に沿って進む比較的平坦な道で、多くの大名行列や一般の旅人が利用した幹線路であった。しかし、大河川が多く、増水時には川を渡れないという難点も抱えていた。一方、中山道は本州中央部の山間部を縫うように進む道で、東海道に比べて宿場数が多く、道程も長い。険しい山道や降雪時の通行困難さから、東海道が不通の際の迂回路としても機能したとされる。
この二つの街道が草津で合流したことは、宿場に多様な文化と情報を持ち込んだ。東海道を行く人々は比較的温暖な気候の土地を通り、中山道を行く人々は山深い地域を越えてくる。それぞれの街道沿いで培われた風習や産物、情報が草津で出会い、交流する場となったのだ。これは、単一の街道に位置する宿場町とは異なる、複合的な性格を草津に与えた。例えば、東海道の宿場である箱根宿がその険しい峠越えで知られ、関所としての機能が前面に出るのに対し、中山道の妻籠宿や馬籠宿が山間の宿場町の風情を色濃く残すように、草津は特定の「難所」や「風景」だけでなく、両街道の通過点としての総合的な「機能」でその存在感を示したと言える。
東海道の宿場としては、大津宿が東海道最大の宿場とも言われたのに対し、草津宿は規模としては中堅クラスという見方もある。しかし、その中堅規模でありながらも、二大街道の合流点という戦略的な位置が、他の宿場にはない独自の役割を担わせたのだ。草津は、単に旅人が休憩する場所であるだけでなく、東西の物流と情報の結節点として、江戸時代の日本における交通ネットワークの要衝であり続けた。その意味で、草津は特定の景観や名物によって特徴づけられるよりも、その「機能」によってその存在価値を確立した宿場であったと言えるだろう。
街道の記憶と現代の街並み
明治時代に入り、鉄道の開通や道路網の近代化が進むと、宿場町としての草津の役割は徐々に薄れていった。明治3年(1870年)には本陣制度が廃止され、多くの本陣がその役目を終えて姿を消していく。草津宿にあった二つの本陣のうち、田中九蔵本陣は明治10年(1877年)に草津小学校の前身である知新学校の建設のために取り壊された。しかし、田中七左衛門本陣は、その後も栗太郡役所や中央公民館として利用され、建物が大切に受け継がれた結果、昭和24年(1949年)に国の史跡に指定され、今日までその姿を残している。
現在の草津市は、京阪神大都市圏に近接するベッドタウンとして発展を遂げ、人口も増加傾向にある。JR草津駅周辺は商業施設が立ち並び、かつての宿場町の面影は幹線道路沿いからは見えにくいかもしれない。しかし、一歩路地に入ると、史跡草津宿本陣や草津宿街道交流館といった施設が、往時の記憶を今に伝えている。追分道標もまた、東海道と中山道が分かれる地点に静かに立ち続け、その歴史的意義を訴えかける。
近年、草津市では歴史文化の保存と活用をまちづくりに繋げる取り組みが進められている。老朽化した古民家を改修し、シェアキッチンやシェアスペースを設けることで、新たな賑わいを創出しようとする動きもある。宿場町の歴史を活かしたウォーキングコースの策定や、広報誌やSNSを通じた情報発信も行われている。草津は、単に過去の遺産を保存するだけでなく、それを現代の生活や観光に結びつけ、未来へと継承しようとしているのだ。
交通の結節点が問いかけるもの
草津宿の歴史は、単なる地方の一宿場町の物語に留まらない。東海道と中山道という二つの異なる性質を持つ街道が交わるという、稀有な地理的条件がもたらした機能と変遷は、日本の交通史、さらには都市形成のあり方そのものに、一つの示唆を与えている。
古くから交通の要衝であった草津は、江戸幕府の街道整備によってその機能を最大限に引き出された。しかし、その繁栄は、単に多くの旅人が行き交ったという事実だけでなく、物流の拠点、情報の集散地としての役割を兼ね備えていた点にある。二つの街道が交わることで、異なる地域の文化や産物が集まり、交流する場となった。これは、現代の交通ハブや物流センターが持つ機能と本質的に共通する部分がある。
明治以降、街道の役割が変化しても、草津が発展を続けた背景には、古くからの交通の要衝というDNAが受け継がれたことがあるだろう。鉄道、そして高速道路と、時代とともに主要な交通手段は変わったが、京都や大阪に近い立地と、広域交通網の結節点としての地理的優位性は変わらなかった。草津の歴史は、特定の文化や産業だけでなく、場所が持つ「機能」が、時代を超えてその地の価値を規定し続けるという、普遍的な側面を静かに示している。それは、現代に生きる私たちに、都市の成り立ちや、移り変わる社会の中で何が本質的な価値として残るのかを問いかけているようにも見える。## 東海道と中山道、交差する宿場の記憶
滋賀県草津市を歩くと、時折、道標が旅人の往来を静かに物語る。そこには「右 東海道いせみち、左 中仙道美のぢ」と刻まれ、かつてこの地が二つの主要街道の分岐点であったことを示す。なぜ、この草津という場所が、これほどまでに重要な宿場町として栄えたのだろうか。単なる通過点に留まらず、人とモノ、そして情報が行き交う要衝となった背景には、地理的条件と時代が織りなす必然があった。
古代からの道の重なり
草津が交通の要衝として認識され始めたのは、江戸時代よりもはるか昔に遡る。古代から官道が通っていたとされるこの地域は、奈良時代に良弁によって創建されたと伝わる寺院が存在するなど、早い時期から人々の往来があったことを示唆する。中世に入ると、草津の名は鎌倉時代の「一遍上人絵伝」にも登場し、時宗の開祖一遍がこの地を訪れた記録が残る。室町時代には、伊勢参宮の京都と伊勢の中継地点として発展し、応永29年(1422年)には将軍足利義持が伊勢に向かう際に、大規模な宿泊施設「草津御所」の築造を開始したという記録もある。
戦国時代には、織田信長が大津や草津の交通政策に力を注いだ。信長は「瀬田橋を制する者は天下を制する」という言葉に象徴されるように、琵琶湖を渡る瀬田橋の架橋や道路修築を進め、この地の戦略的価値を認識していたのだ。
決定的な転換点は、関ヶ原の戦い後の江戸時代初期に訪れる。天下を統一した徳川家康は、全国統治のため主要街道の整備に着手した。江戸を起点とする五街道の一つとして、太平洋側を通る「東海道」と、内陸の山間部を通る「中山道」が整備される。この二つの主要街道が、近江国栗太郡の草津で合流・分岐する宿場として定められたのだ。この「伝馬定書」により、宿場ごとに人馬を提供し、荷物をリレー形式で運ぶ「伝馬制」が敷かれ、草津宿は公的な交通網の要としてその存在を確立した。
二つの街道が育んだ宿場の機能
草津宿が交通の要衝として繁栄した要因は、東海道と中山道という二大幹線が交わるという地理的条件に尽きる。江戸日本橋から京都三条大橋へ向かう東海道五十三次において、草津は江戸から数えて52番目の宿場であった。一方、内陸を通り信濃・美濃方面と江戸を結ぶ中山道六十九次もまた、ここで東海道と合流していた。この合流点には「追分道標」が立てられ、旅人はここで伊勢路へ向かう東海道か、美濃路へ向かう中山道かを選択した。道標には「右 東海道いせみち 左 中仙道美のぢ」と刻まれている。
宿場としての草津は、単なる宿泊施設が集まる場所ではなかった。天保14年(1843年)の「東海道宿村大概帳」によれば、草津宿には2軒の本陣と2軒の脇本陣、そして72軒もの旅籠が存在した。本陣は、大名や公家、幕府役人といった限られた身分の高い人々が利用する格式ある宿泊施設であり、草津宿には田中七左衛門本陣と田中九蔵本陣の二つがあった。現存する田中七左衛門本陣は、約4,727平方メートルという広大な敷地と39の部屋数を誇り、東海道筋でほぼ完全に残る本陣としては最大級とされる。
宿場内には、旅人の休泊だけでなく、物流の中継地点としての機能も集約されていた。荷物の継立を行う「問屋場」や、荷物の重量を検査する「貫目改所」が置かれ、人やモノの円滑な移動を支えた。また、草津川という天井川の存在も、この宿場に特有の事情をもたらした。平常時は水がない砂川であり、江戸時代には架橋が許されなかったため、旅人は川越を強いられる一つの関門であったのだ。こうした複合的な機能と、琵琶湖に近い立地が、草津宿の経済的な繁栄と賑わいを形成していったのである。
交錯する道、異なる顔
草津宿の特異性は、東海道と中山道という二つの異なる性格を持つ街道が、同じ場所で交差した点にある。東海道は太平洋側の海岸線に沿って進む比較的平坦な道で、多くの大名行列や一般の旅人が利用した幹線路であった。しかし、大河川が多く、増水時には川を渡れないという難点も抱えていた。一方、中山道は本州中央部の山間部を縫うように進む道で、東海道に比べて宿場数が多く、道程も長い。険しい山道や降雪時の通行困難さから、東海道が不通の際の迂回路としても機能したとされる。
この二つの街道が草津で合流したことは、宿場に多様な文化と情報を持ち込んだ。東海道を行く人々は比較的温暖な気候の土地を通り、中山道を行く人々は山深い地域を越えてくる。それぞれの街道沿いで培われた風習や産物、情報が草津で出会い、交流する場となったのだ。これは、単一の街道に位置する宿場町とは異なる、複合的な性格を草津に与えた。例えば、東海道の宿場である箱根宿がその険しい峠越えで知られ、関所としての機能が前面に出るのに対し、中山道の妻籠宿や馬籠宿が山間の宿場町の風情を色濃く残すように、草津は特定の「難所」や「風景」だけでなく、両街道の通過点としての総合的な「機能」でその存在感を示したと言える。
東海道の宿場としては、大津宿が東海道最大の宿場とも言われたのに対し、草津宿は規模としては中堅クラスという見方もある。しかし、その中堅規模でありながらも、二大街道の合流点という戦略的な位置が、他の宿場にはない独自の役割を担わせたのだ。草津は、単に旅人が休憩する場所であるだけでなく、東西の物流と情報の結節点として、江戸時代の日本における交通ネットワークの要衝であり続けた。その意味で、草津は特定の景観や名物によって特徴づけられるよりも、その「機能」によってその存在価値を確立した宿場であったと言えるだろう。
街道の記憶と現代の街並み
明治時代に入り、鉄道の開通や道路網の近代化が進むと、宿場町としての草津の役割は徐々に薄れていった。明治3年(1870年)には本陣制度が廃止され、多くの本陣がその役目を終えて姿を消していく。草津宿にあった二つの本陣のうち、田中九蔵本陣は明治10年(1877年)に草津小学校の前身である知新学校の建設のために取り壊された。しかし、田中七左衛門本陣は、その後も栗太郡役所や中央公民館として利用され、建物が大切に受け継がれた結果、昭和24年(1949年)に国の史跡に指定され、今日までその姿を残している。
現在の草津市は、京阪神大都市圏に近接するベッドタウンとして発展を遂げ、人口も増加傾向にある。JR草津駅周辺は商業施設が立ち並び、かつての宿場町の面影は幹線道路沿いからは見えにくいかもしれない。しかし、一歩路地に入ると、史跡草津宿本陣や草津宿街道交流館といった施設が、往時の記憶を今に伝えている。追分道標もまた、東海道と中山道が分かれる地点に静かに立ち続け、その歴史的意義を訴えかける。
近年、草津市では歴史文化の保存と活用をまちづくりに繋げる取り組みが進められている。老朽化した古民家を改修し、シェアキッチンやシェアスペースを設けることで、新たな賑わいを創出しようとする動きもある。宿場町の歴史を活かしたウォーキングコースの策定や、広報誌やSNSを通じた情報発信も行われている。草津は、単に過去の遺産を保存するだけでなく、それを現代の生活や観光に結びつけ、未来へと継承しようとしているのだ。
交通の結節点が問いかけるもの
草津宿の歴史は、単なる地方の一宿場町の物語に留まらない。東海道と中山道という二つの異なる性質を持つ街道が交わるという、稀有な地理的条件がもたらした機能と変遷は、日本の交通史、さらには都市形成のあり方そのものに、一つの示唆を与えている。
古くから交通の要衝であった草津は、江戸幕府の街道整備によってその機能を最大限に引き出された。しかし、その繁栄は、単に多くの旅人が行き交ったという事実だけでなく、物流の拠点、情報の集散地としての役割を兼ね備えていた点にある。二つの街道が交わることで、異なる地域の文化や産物が集まり、交流する場となった。これは、現代の交通ハブや物流センターが持つ機能と本質的に共通する部分がある。
明治以降、街道の役割が変化しても、草津が発展を続けた背景には、古くからの交通の要衝というDNAが受け継がれたことがあるだろう。鉄道、そして高速道路と、時代とともに主要な交通手段は変わったが、京都や大阪に近い立地と、広域交通網の結節点としての地理的優位性は変わらなかった。草津の歴史は、特定の文化や産業だけでなく、場所が持つ「機能」が、時代を超えてその地の価値を規定し続けるという、普遍的な側面を静かに示している。それは、現代に生きる私たちに、都市の成り立ちや、移り変わる社会の中で何が本質的な価値として残るのかを問いかけているようにも見える。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
参考
- 草津宿 - Wikipediaja.wikipedia.org
- 草津宿(くさつしゆく)とは? 意味や使い方 - コトバンクkotobank.jp
- 草津宿と本陣について|草津市city.kusatsu.shiga.jp
- mlit.go.jpwwwtb.mlit.go.jp
- 旧街道のひとつ東海道にある草津宿の歴史と概要|大津市・草津市の不動産購入・売却はびわこハウジングセンターへ!biwakohousingcenter.co.jp
- 『中山道No47 中山道と東海道の合流点、滋賀県の草津宿です』草津(滋賀)(滋賀県)の旅行記・ブログ by ムッシュさん【フォートラベル】4travel.jp
- 追分道標 - 草津市観光物産協会kanko-kusatsu.com
- 東海道と中山道の合流地点、草津で考えたこと|赤堀note.com