2026/7/2
なぜ福住の町並みは宿場町と農村集落が一体となった景観を残すのか

兵庫県の福住の歴史について詳しく教えて欲しい。伝統的建造物群保存地区になっている。
キュリオす
兵庫県丹波篠山市の福住地区は、西京街道沿いの宿場町と農村集落が一体となった景観が国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。その背景には、地理的条件、藩の政策、そして近代の交通網の変化が複雑に絡み合っている。
街道の風が残る谷筋で
兵庫県丹波篠山市の東部に位置する福住の町並みを歩くと、時折、風が土壁や瓦屋根を撫でてゆく。それはかつて、この地を行き交った旅人たちが感じた風と、さほど変わらないのではないかと思わせる。丹波篠山から京都へと続く西京街道沿いに、宿場町と農村集落の様相が一体となって残るこの地は、国の重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。なぜ、福住の町並みはこれほどまでに、その歴史的景観を今日に伝えているのか。その背景には、地理的な条件、藩の政策、そして近代の交通網の変化が複雑に絡み合っていた。
黒い土と街道が交わるまで
福住の歴史は古く、その起源は古代にまで遡る。この地域は丹波国八郷の一つ、真継郷に属し、現在の小野新周辺には古代山陰道の駅家として「小野駅」が置かれていたという。平安・鎌倉期には貴族や大寺社の荘園の一部となり、室町期には仁木氏の支配下にあったことが「応仁武鑑」にも記されている。戦国期には、丹波を拠点とした波多野氏の被官であった籾井氏がこの地に勢力を築き、籾井城を構えていた。
近世に入り、慶長14年(1609年)に松平康重が篠山藩主として入部し、篠山城と城下町が築かれると、福住は篠山城下の東、京都へ向かう西京街道の要衝として位置づけられた。江戸幕府による参勤交代制度が確立されると、福住は篠山藩によって宿駅に指定され、宿場町として本格的に整備されてゆく。
当時の福住村は篠山藩領、隣接する川原村は同じく篠山藩領、安口村と西野々村は亀山藩領と、藩政下では異なる領地に分かれていた。しかし、いずれも西京街道に沿って集落を形成し、福住宿を中心とした一体の生活圏を築いていたのである。街道筋には本陣や脇本陣が設けられ、短冊形の敷地割に沿って町家が建ち並び、旅籠や商店が軒を連ねた。 この宿場町としての繁栄は明治維新まで続き、多くの旅人や物資が行き交う交通の要衝として機能した。
道と水が育んだ集落の形
福住が宿場町として発展した背景には、地理的条件とそれに伴う集落形成の仕組みがある。福住地区は篠山盆地の東端、篠山川の支流である籾井川が形成した河岸段丘上に位置する。東西に延びる旧山陰街道(後の西京街道)が籾井川に沿って走り、集落もまたこの街道に沿って連続して形成された。
福住の町並みの特徴は、宿場町としての機能を持つ福住と、それに隣接する農村集落である川原、安口、西野々が一体となって歴史的景観を構成している点にある。宿場町の中心部では、街道に面して妻入(つまいり)を主体としたつし二階建(屋根裏部屋を持つ二階建て)の瓦葺き町家が並ぶ。これらの建物は間口が狭く奥行きが深い短冊形の敷地に建てられ、かつての商業活動の形態を今に伝えている。 一方、宿場町の外側に位置する川原、安口、西野々といった集落では、平屋建の茅葺き(現在は鉄板葺きが多い)の農家住宅が街道沿いに連続する。 これらの農村集落は、宿場町の機能を補完する役割を担いながら、周囲の田園風景や籾井川、川原川といった灌漑施設と一体となり、独特の歴史的風致を形成してきた。
このような宿場町と農村集落が混在する景観は全国的にも珍しいとされる。福住の住民たちは、農業を主な生業としながら、宿屋などを兼業するといった多様な働き方をしてきたことが、この独特の集落形態を育んだ要因の一つだろう。また、周辺の山々には籾井城をはじめとする中世の城跡が点在し、山麓には如来寺や禅昌寺など数多くの寺院が建立されており、これらも福住の谷の景観を特徴づける要素となっている。
異なる道筋が描く集落の輪郭
福住の歴史的景観を考える上で、他の宿場町や伝統的建造物群保存地区との比較は、その独自性を浮き彫りにする。例えば、中山道に位置する長野県の奈良井宿や岐阜県馬籠宿のような宿場町は、街道に沿って町家が密集し、商業的な賑わいを強く感じさせる。また、福井県の熊川宿も、若狭と京都を結ぶ鯖街道の宿場として栄え、多様な建物が街道に面して立ち並ぶ。 これらの宿場町は、純粋な交通の要衝としての機能が色濃く、町並みもその機能に特化して形成されてきた。
しかし、福住の町並みは、宿場町の機能と農村集落の様相が同一の街道沿いに連続して残されている点で、他の多くの宿場町とは異なる。福住の中心部は確かに宿場町の面影が強いが、そこから少し離れると茅葺き屋根の農家が連なる風景へと移り変わる。これは、福住が単なる中継点ではなく、周辺の豊かな農地と一体となり、農業を基盤とした地域経済の中で宿場機能も担っていたことを示唆している。
また、鉄道網の発達が宿場町の衰退を招いたという点では共通するものの、福住の場合はその影響が独特の形で現れた。明治32年(1899年)に京都と福知山を結ぶ鉄道が開通し、さらに福知山線が整備されたことで、福住を通る山陰街道の重要性は薄れた。 加えて、篠山線が福住まで開通したものの、京都府園部駅までの延伸計画が中止となり、結果的に福住は鉄道網から取り残される形となった。 この「取り残された」状況が、かえって大規模な開発から町並みを守り、結果として歴史的な景観が今日まで良好に保存される一因となったと考えられる。他の宿場町が観光開発や交通の利便性向上によって大きく変貌する中で、福住は独自の道を歩むことになったのである。
瓦屋根と茅葺が連なる現在
平成24年12月、福住の町並みは国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。 この選定に至るまでには、地域住民による長年の取り組みがあった。平成13年度に兵庫県による景観形成地区指定調査が行われ、福住の町並みと周囲の自然環境が良好に保存されていることが確認されたことを契機に、平成16年から19年にかけて住民参加の「まちづくり勉強会」や「まち歩き」が実施された。これにより、住民の保存意識が高まり、平成19年度からは伝統的建造物群保存対策調査委員会が設置され、保存計画が策定されたのである。
現在、保存地区は福住、川原、安口、西野々の4つの集落にまたがり、東西約3,260メートル、南北約460メートル、総面積約25.2ヘクタールに及ぶ。 宿場町の中心部では瓦葺きの町家が、そして農村集落では茅葺きの建物(多くは鉄板で覆われているが)が、それぞれ周囲の田園風景と調和しながら保存されている。 これらの伝統的建造物の修理修景事業は平成25年から継続的に実施されており、電柱の地中化などの街路整備も進められ、歴史的な町並み景観の向上が着実に図られている。
今日、福住では、江戸時代後期に建てられた名士の邸宅を改修した宿泊施設「NIPPONIA 福住 宿場町」のように、歴史的建造物を活用した地域活性化の取り組みも見られる。 かつての宿場町としての役割は終えたものの、その歴史的価値が再評価され、現代の生活と共存しながら、次世代へと受け継がれようとしている。
街道から見えてくる土地の記憶
福住の町並みが今日まで残されてきた背景には、単なる偶然ではない、いくつかの要因が重なり合っている。一つには、山陰街道と西京街道が交錯する地理的条件が、古代から近世に至るまで交通の要衝としての役割を与え、人々の往来と経済活動を活発にした。藩による宿場町の整備は、その集落の骨格を形成する決定的な契機となっただろう。
そして、近代における鉄道網の「空白」が、皮肉にも福住の歴史的景観を温存させる結果をもたらした。交通の結節点としての機能が薄れたことで、大規模な近代化の波が直接的に押し寄せることを免れたのである。さらに、宿場町と農村集落が一体となった独特の景観は、地域の生業と密接に結びつき、単一の機能に特化しない多様な暮らしの痕跡を留めている。
福住の町並みは、かつての旅人たちの足音や、商人の声、農作業に勤しむ人々の息遣いを、瓦屋根の連なりや茅葺きの曲線の中に閉じ込めているようにも見える。それは、歴史が単なる過去の出来事の羅列ではなく、土地の形状や人々の営みの中に静かに息づいていることを、訪れる者に語りかけてくる。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
参考
- tambasasayama.lg.jpcity.tambasasayama.lg.jp
- 丹波篠山市福住伝統的建造物群保存地区|日本遺産ポータルサイトjapan-heritage.bunka.go.jp
- 福住伝統的建造物群保存地区/丹波篠山市city.tambasasayama.lg.jp
- 福住の町並み(福住伝統的建造物群保存地区)hyogo.mytabi.net
- 月~金曜日 20時54分~21時00分asahi.co.jp
- 歴史的町並みの保存・整備・活用『全国伝統的建造物群保存地区協議会(伝建協)』|丹波篠山市福住 伝建地区詳細denken.gr.jp
- 江戸情緒をいまに残す「宿場町」7選 【楽天トラベル】travel.rakuten.co.jp
- 福住の町並み(兵庫県丹波篠山市)|「古旅」日本の古い町並みfurutabi.com