2026/7/2
甲子園の街は、なぜ「廃川敷地」から「高級住宅街」へと変貌したのか

甲子園の街の歴史について詳しく教えて欲しい。
キュリオす
甲子園の街は、もともと武庫川の支流が流れる低湿地帯だった。阪神電鉄が廃川敷地を購入し、球場とレジャー施設、住宅地を一体的に開発した経緯を辿る。
土と歓声の記憶、そして街の変貌
甲子園という地名を耳にするとき、多くの人はまず、あの巨大な球場と、そこで繰り広げられる高校野球やプロ野球の熱狂を思い浮かべるだろう。しかし、その球場を取り巻く街の姿は、いつの間にか随分と様変わりし、今では洗練された高級住宅街としての顔も持つ。かつては球場の熱気と一体化した、ある種雑多で人間臭い雰囲気が色濃く漂っていたこの場所が、なぜこれほどまでに変貌を遂げたのか。その問いを抱きながら、西宮市甲子園の歴史を紐解いていくと、単なる開発ではない、幾層もの時間の堆積が見えてくる。
廃川の地から「大運動場」へ
現在の甲子園一帯は、もともと武庫川の支流であった枝川と申川という二つの川が流れる低湿地帯だった。明治後期から大正初期にかけての武庫川改修事業により、これらの川は廃川となり、広大な埋立地が生まれた。この未利用地に着目したのが阪神電気鉄道(以下、阪神電鉄)である。同社は1922年(大正11年)に約22万4000坪(約74万平方メートル)もの廃川敷地を410万円という当時としては巨額の費用を投じて購入した。その目的は、沿線開発の一環として、一大レジャー地と住宅地を組み合わせた新たな街を創出することにあった。
阪神電鉄がまず着手したのは、その広大な土地の中心に、日本初となる大規模な運動場を建設することだった。全国中等学校優勝野球大会(現在の全国高等学校野球選手権大会)の人気が高まる中、それまでの鳴尾運動場では観客を収容しきれなくなり、グラウンドに観客がなだれ込む事態も発生していたため、主催者である大阪朝日新聞社が阪神電鉄に本格的な球場建設を提案したことが背景にある。 わずか5ヶ月足らずという驚異的な工期を経て、1924年(大正13年)8月1日に「甲子園大運動場」が竣工した。この年が干支で縁起の良い「甲子」の年に当たることから、その名が冠せられたという。 当初は野球だけでなく、陸上競技やサッカー、ラグビーなどにも対応する多目的運動場として設計され、収容人数は5万人から8万人とも言われる、当時としては世界有数の規模を誇った。来日したベーブ・ルースがその巨大さに「Too large(デカすぎだ)」と驚いたという逸話も残されている。
球場の開場と同時に阪神甲子園駅も開業し、駅を降りればすぐに球場という利便性も確保された。 そして球場の周辺には、テニスコートや水上競技場といったスポーツ施設に加え、1929年(昭和4年)には「甲子園娯楽場」が開業し、後に動物園や遊園地を備えた「阪神パーク」へと発展した。 飛行塔や観覧車、ジェットコースターなどが並び、レオポンという珍しい動物も飼育されるなど、この地はさながら「夢のレジャーランド」として、大衆の娯楽の中心地となっていった。 球場での熱戦と、遊園地での喧騒が一体となったこの一帯は、休日ともなれば多くの人々でごった返し、その中には、現代の「高級住宅街」というイメージとは異なる、どこか野趣に富んだ、活気ある大衆の姿が確かにあっただろう。それは、大正から昭和初期にかけての日本の大衆文化の熱量を象徴する風景であった。
鉄道会社の描いた夢と現実
甲子園の街が現在の姿へと変貌を遂げた背景には、阪神電鉄が描いた壮大な都市開発構想と、それに伴う幾つかの要因が複雑に絡み合っている。まず、同社は単に鉄道を敷設するだけでなく、沿線の宅地開発やレジャー施設の整備を一体的に進めることで、鉄道利用者を増やし、事業の多角化を図るという戦略を持っていた。これは、同時期に発展した阪急電鉄による「田園都市」構想と並ぶ、日本の私鉄経営モデルの先駆けとも言える。
甲子園の開発において、阪神電鉄は「遊覧地」と「住宅地」の融合を目指した。球場を中心とした一大レジャーゾーンを形成する一方で、その周辺には質の高い住宅地の造成を進めたのである。 1928年(昭和3年)頃からは、甲子園筋に沿って本格的な住宅地開発が始まった。 これらの住宅地は「文化村」や「浜甲子園健康住宅地」と称され、大阪や神戸の勤め人、銀行家、裁判官、新聞記者といった知識階級の人々が移り住んだという。 彼らは、都会の喧騒を離れ、自然豊かな郊外でモダンな生活を送ることを求めていた。1930年(昭和5年)には、フランク・ロイド・ライトの弟子である遠藤新が設計した「甲子園ホテル」が開業。「西の帝国ホテル」と称されるこのホテルは、当時の阪神間のモダニズム文化を象徴する存在であり、街の品格を高める役割も果たした。
しかし、このような華やかな開発は、時代に翻弄されることになる。太平洋戦争が激化すると、甲子園球場は軍需工場や輸送隊の基地となり、その象徴であった大鉄傘は金属供出のために撤去された。 甲子園ホテルも海軍病院に転用され、阪神パークなどの娯楽施設用地は軍に強制買収された。 戦後はGHQに接収され、復興には時間を要した。 多くの娯楽施設がその機能を失う中で、甲子園球場だけがその姿を保ち、再び野球の聖地としての役割を担っていくことになる。 戦後の混乱期を経て、かつてのレジャー施設の多くは、団地やマンションなどの住宅地へと姿を変えていったのだ。 大衆娯楽の中心地から、住宅地へとシフトする中で、街の雰囲気もまた、大きく変化していったと言えるだろう。
スタジアムタウンの多様な顔
甲子園のように、大規模なスポーツ施設を中心に発展した街は国内外に数多く存在する。例えば、アメリカのボストンにあるフェンウェイ・パーク周辺や、シカゴのリグレー・フィールド周辺は、それぞれ古くからの球場を中心に、歴史ある街並みが形成されてきた。これらの地域も、試合のある日は熱狂的なファンで賑わい、普段は地域住民の生活が営まれるという二面性を持つ。しかし、甲子園の発展には、日本の私鉄経営が持つ特殊な背景が深く関わっている点が特徴的だ。
アメリカの事例では、球場が既存の市街地に建設され、その周辺が自然発生的に発展していったケースが多い。球場は街の「核」ではあるが、必ずしも鉄道会社のような単一の事業主体が、広大な土地を計画的に開発したわけではない。一方、甲子園の場合、阪神電鉄が廃川敷地という広大な未利用地を一括して取得し、球場を「第一号施設」としながら、住宅地、娯楽施設、ホテル、さらには路面電車までを一体的に整備した。 これは、単なるスタジアムタウンの形成にとどまらず、鉄道事業と不動産事業、レジャー事業を組み合わせた、いわゆる「私鉄型郊外開発」の典型例である。
また、初期の甲子園が「文化村」と呼ばれ、知識階級が住まう住宅地として売り出された点も、他のスタジアムタウンとは異なる側面を持つ。 多くのスタジアム周辺が、試合日の喧騒と日常の生活が混在する中で、必ずしも高級なイメージを持たないこともあるのに対し、甲子園は当初から「健康地」や「モダンな生活」を志向する層をターゲットにしていた。 これは、同時期に阪急電鉄が展開した「阪神間モダニズム」と呼ばれる文化的な潮流とも軌を一にするもので、大阪と神戸という二大都市に挟まれたこの地域が、独自の郊外文化を育む土壌を持っていたことを示している。 球場の熱狂と、邸宅街の静謐。この一見矛盾する要素が、阪神電鉄という強力な事業主体の手によって、計画的に共存させられようとしたのが、甲子園の街のユニークな成り立ちと言えるだろう。
ボールパーク化と街の現在地
戦後、GHQによる接収を経て、甲子園の街は再びその歩みを進めた。 かつての一大レジャーランドの面影は薄れ、阪神パークは場所を移しながらも2003年(平成15年)に閉園。 その跡地には大型商業施設「ららぽーと甲子園」が開業するなど、新たな商業機能が導入された。多くの娯楽施設が住宅地へと転換していった結果、甲子園は「球場のある住宅街」という色彩を強めていったのだ。
しかし、近年、甲子園の街は再び大きな変化の時期を迎えている。阪神電鉄は、甲子園球場を核とした「ボールパークエリア」構想を推進しており、単なる試合開催日だけでなく、年間を通じて賑わいを創出することを目指している。 その一環として、球場南側の土地に新たな商業施設が建設され、「甲子園歴史館」の一部移転・拡張が行われた。 ここにはライブラリーカフェやキッズゾーンなどが併設され、球場とデッキで接続されることで、来場者の回遊性を高める工夫が凝らされている。 また、阪神甲子園駅周辺でも再開発が進み、球場へと続く約100メートルの道のりは、阪神タイガースの選手パネルなどで装飾された「タイガースロード」として整備され、ファン体験の向上を図っている。
これらの取り組みは、かつて阪神電鉄が目指した「遊覧地」としての甲子園を、現代的な視点で再構築しようとする試みとも言えるだろう。試合のない日でも人々が集い、スポーツやレジャー、文化に触れられる場を提供することで、街全体を活性化させようとしているのだ。現在の甲子園は、球場の熱狂と、その周辺に広がる閑静な住宅街、そして新たな商業・交流拠点が混在する、多層的な顔を持つ街として存在している。
甲子園、熱狂と日常のコントラスト
甲子園の街の変遷を辿ると、そこには常に「熱狂」と「日常」のコントラストがあったことがわかる。大正期に広大な埋立地に誕生した「甲子園大運動場」は、その名の通り、当時の大衆が熱狂するスポーツと娯楽の殿堂であった。球場に詰めかける大勢の人々、そしてその周辺に広がる遊園地の喧騒は、現在の整然とした高級住宅街のイメージとはかけ離れた、雑多なエネルギーに満ちた場所だったろう。かつて「汚いおっさんおばはんがいっぱいおった」という記憶は、この初期の、大衆的な娯楽施設が集中する時代の活気と、それに伴うある種の荒々しさ、あるいは飾らない人々の姿を捉えたものと解釈できる。それは、近代日本の大衆文化が花開いた時代の、生々しい息遣いだったのだ。
しかし、阪神電鉄は同時に、この地に「文化村」と呼ばれる洗練された住宅地を造成し、モダンなライフスタイルを求める人々を誘致した。 球場の熱気と、邸宅街の静けさ。一見相反する要素が、同じ「甲子園」という地名のもとに共存してきた歴史は、この街の奥深さを示している。戦時中の苦難を経て、戦後は娯楽施設が住宅地へと姿を変え、街はより落ち着いた様相を呈するようになった。そして現代、再び「ボールパークエリア」構想のもと、球場を中心とした賑わいの創出が図られている。
甲子園の街は、単なる野球の聖地ではない。それは、日本の近代化の中で、鉄道会社という民間事業者が描いた壮大な都市開発の夢、大衆文化の熱狂、そして戦争と復興の記憶が幾重にも折り重なった場所なのだ。現在の洗練された街並みの奥底には、かつての大運動場に響いた歓声や、阪神パークの賑わい、そしてそこで繰り広げられた人々の営みが、確かに息づいている。その多層的な歴史を知ることで、甲子園という街の風景は、より豊かで奥行きのあるものとして目に映るだろう。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
参考
- 土木遺産第57回 阪神電鉄の甲子園開発と甲子園球場 – カンサイ ドボク スタイル Kansai Doboku Stylekansai-doboku-style.com
- 日本野球の聖地・阪神甲子園球場の歴史【コラムその115】 - スタ辞苑〜全国スタジアム観戦記〜sportskansen.hatenablog.jp
- 4:高校野球の聖地「甲子園」の誕生と発展 ~ 西宮・宝塚 | このまちアーカイブス | 不動産購入・不動産売却なら三井住友トラスト不動産smtrc.jp
- 100年の歴史を辿って甲子園の魅力を再発見! | 甲子園スタイルガイド | 甲子園スタイルkoshien-style.com
- 数々のドラマが生まれた甲子園球場、その建設の歴史を振り返ってみよう – セパレーターや型枠工事なら東和製作所towa-seisakusho.com
- HANSHIN HISTORY|年譜|阪神電気鉄道hanshin.co.jp
- 甲子園の魅力を再発見! 阪神甲子園駅からつながる町の歴史と今 | 全国の不動産投資・収益物件|株式会社リタ不動産rita-hudousan.com
- 甲子園界隈の歴史 – つちHOUSEtsuchi-house.com