2026/6/8
手取川の治水、霞堤からダムまで石川県名の由来となった川の歴史

手取川が石川県の語源だと知った。手取川の治水の歴史について教えて欲しい。
キュリオす
石川県の語源ともなった手取川は、古くから氾濫を繰り返してきた。本記事では、古代の流路変遷から加賀藩の治水、霞堤や村囲堤といった伝統的な技術、そして現代のダム群による治水まで、手取川の治水の歴史を辿る。
石川県を南北に縦断する国道157号線を南下し、白山市に入ると、やがて視界の右手に手取川の流れが見えてくる。霊峰白山に源を発し、日本海へと注ぐこの川は、石川県下で最も大きな河川であり、同時にその県名の由来ともなった川である。古くは「石川」と呼ばれ、文字通り「石や岩の多い川」を意味したという。その名が示す通り、手取川はかつてから「暴れ川」として知られ、幾度も氾濫を繰り返してきた歴史を持つ。
なぜ、この急流河川が「石川」の名を冠し、そしてその「暴れ」を抑えるために人々はどのような治水の歴史を刻んできたのか。この問いは、単に川の歴史を紐解くだけでなく、この地で暮らしてきた人々の暮らしと、自然との向き合い方を深く探ることに繋がるだろう。手取川の治水は、この地の文化と産業の形成に不可欠な要素であった。
手取川の治水の歴史は、その流路の不安定さから始まった。現在の手取川扇状地が形成され始めたのは約200万年前とされ、縄文時代後期には現在の地形が概ね完成したと考えられている。 奈良時代には、手取川の本流は現在の山島川(山島川用水)の南川水系であったとされ、その後も大慶寺川、比良瀬川へと流路を変遷させながら、扇状地を広範囲にわたって流れる「比楽河川(ひらかがわ)」と呼ばれていたという。 このように、手取川は水流の赴くままに流路を変え、人々は常にその変化に対応せざるを得なかった。
本格的な治水への取り組みは、扇状地に農耕が広がり、集落が定着し始めた3世紀から4世紀頃に始まるとされている。 特に、加賀百万石を支える穀倉地帯として加賀平野の稲作が発展するにつれ、安定した水利用と洪水対策が喫緊の課題となった。江戸時代、加賀藩は手取川の治水事業に力を入れた。藩政期の260年の間に、手取川では数多くの大洪水が発生し、特に1789年(寛政元年)の洪水は「前代未聞の大洪水」と記録されている。
加賀藩の治水事業は、灌漑用水の確保と一体となって進められた。扇状地の扇頂部にあたる鶴来(現・白山市)から河口の美川(現・能美市)まで、連続的かつ重層的な堤防を築き、河道を固定しようと試みたのである。 また、この時期には、洪水時に本堤が決壊しても被害を最小限に食い止めるための「村田堤」のような二番備えの堤防も築かれた。 しかし、明治時代に入っても手取川流域では大洪水が頻発し、1896年(明治29年)の洪水では死者73名、被害建物3万棟に及ぶ甚大な被害が出ている。 これらの災害は、当時の治水技術の限界と、手取川の持つ圧倒的な自然の力を物語るものであった。
手取川が「荒ぶる川」であり続けた背景には、その地理的・地質的な特性がある。手取川は霊峰白山(標高2,702m)に源を発し、日本海までの72kmの流路延長に対し、水源から河口までの平均勾配は約27分の1と、日本有数の急流河川である。 流域面積の約91%を山地が占め、多雨・豪雪地帯であるため、梅雨前線による豪雨や融雪水が加わると、短時間で一気に増水し、洪水となる傾向が強い。 また、上流部からの大量の土砂流出も特徴であり、これが扇状地の形成と、河床の上昇、ひいては「天井川」化を招き、水害のリスクを高めてきた。
こうした自然条件に対し、人々は時代とともに多様な治水技術を開発し、適用してきた。古くから築かれてきた連続的な堤防に加え、手取川の治水の歴史を語る上で欠かせないのが「霞堤(かすみてい)」と「村囲堤(むらがこいてい)」である。 霞堤は、堤防に意図的に切れ目(開口部)を設けた不連続な堤防であり、洪水時にはこの開口部から水を一時的に堤内(遊水地)に引き込み、洪水の勢いを弱め、下流への負担を軽減する役割を持つ。 これは、洪水氾濫を完全に防ぐのではなく、特定の区域への浸水を許容することで、より広範囲での壊滅的な被害を防ぐという、ある種の「共存」の思想に基づく治水技術と言えるだろう。村囲堤は、集落を囲むように築かれた堤防で、霞堤と同様に被害を限定的に抑える工夫であった。
明治後期からは、手取川上流部の荒廃対策として砂防事業が始まった。特に、甚之助谷や柳谷といった大規模な崩壊地に対し、山腹工や砂防堰堤が施工され、土砂の流出を抑制する試みがなされた。 しかし、これらの初期の取り組みも、大正時代の集中豪雨によって破壊されるなど、その困難さは極めて大きかった。国による直轄事業が始まったのは1927年(昭和2年)のことであり、日本の「砂防の父」と呼ばれる赤木正雄が初代所長として着任し、本格的な砂防工事が進められた。
手取川の治水に見られる「霞堤」という技術は、日本の河川が持つ特性と深く関連している。日本の河川は、国土が狭く山がちであるため、総じて流路が短く、勾配が急である。 その結果、豪雨時には一気に増水し、短時間で洪水のピークを迎えるという特徴を持つ。 これは、海外の緩やかな大河川、例えばドナウ川やミシシッピ川が平常時の数倍程度の流量増加に留まるのに対し、日本の河川では平常時の数十倍、時には100倍もの流量となるケースがあることからも明らかだ。
このような日本の急流河川においては、連続した高規格な堤防を全域にわたって築くことは、技術的にも経済的にも非常に困難であった。加えて、日本は世界平均の約2倍という年間降水量があり、それが梅雨期や台風期に集中するという気象条件も、水害を常態化させてきた要因である。
手取川の霞堤は、こうした日本の河川特性、特に扇状地という地形条件と、水田農業が展開される土地利用の実態に適応した治水技術として発達した。霞堤が洪水の一部を堤内に引き込むことで、下流へのピーク流量を抑制し、広範囲での壊滅的な被害を防ぐ効果は、連続堤防だけでは対応しきれない急流河川の特性を補完するものであった。 また、堤内に一時的に水がたまることで、洪水時に生き物の一時避難場所となるなど、自然環境の保全にも寄与する側面も指摘されている。
他の地域でも霞堤は存在したが、手取川扇状地における霞堤は、その規模や見事な不連続堤の構造において特筆すべき土木遺産とされている。 これは、水害を完全に排除するのではなく、ある程度の浸水を許容し、被害をコントロールするという、地域に根ざした独自の治水思想が形になったものと言えるだろう。
昭和9年(1934年)7月11日に発生した手取川大洪水は、流域史上最大の被害をもたらした。梅雨前線による記録的な豪雨に加え、前年の大雪による残雪の融雪水が加わり、鶴来地点で推定4,100m³/sという既往最大の流量を記録したという。 この洪水により、堤防は数カ所で決壊し、97名の死者、2,113町歩の耕地が土砂に埋没するなど、甚大な被害が生じた。 この経験は、手取川の治水対策を大きく転換させる契機となった。
戦後、高度経済成長期に入ると、手取川の治水と利水(水資源利用)を一体的に進める「手取川総合開発事業」が計画された。 1966年(昭和41年)には手取川が一級河川に指定され、国の直轄管理へと移行する。 そして、1968年(昭和43年)に大日川ダムが完成し、さらに1980年(昭和55年)には、手取川本川上流部に日本最大級のロックフィルダムである「手取川ダム」が完成した。
手取川ダムは、堤高153m、総貯水量2億3,100万m³を誇る多目的ダムである。 その主な目的は、洪水調節、都市用水(水道用水・工業用水)の供給、そして水力発電の三つだ。 手取川ダムと大日川ダムの完成により、手取川水系の洪水調節能力は飛躍的に向上し、昭和9年大洪水と同程度の降雨量にも対応できるようになった。 実際、2011年(平成23年)の台風15号による大雨では、昭和9年洪水とほぼ同程度の出水があったものの、ダム群が上流からの洪水を全て貯留し、下流での氾濫被害は免れている。
現在、手取川ダムは石川県内の給水人口の7割以上をまかなう水源としても機能し、金沢市をはじめとする加賀・能登地域に安定した水を供給している。 また、ダムを利用した水力発電は、北陸有数の電源地帯を形成し、クリーンエネルギーとして地域の電力供給に貢献している。
手取川の治水の歴史を辿ると、そこには単なる土木工事の積み重ね以上のものが見えてくる。古くから「石川」と呼ばれ、その荒々しさゆえに県の名の由来ともなったこの川は、常に人々にその力を知らしめてきた。 扇状地という地形がもたらす豊かな恵みと、急流河川ゆえの氾濫という脅威の間で、人々は「霞堤」に代表されるような、自然との共存を目指す知恵を生み出してきたのである。
現代において、手取川ダムという巨大な構造物が洪水を制御し、安定した水資源を供給するようになった。これにより、かつてのような大規模な氾濫は激減し、流域の人々の暮らしは大きく安定した。 しかし、近年頻発する記録的な豪雨や気候変動の影響は、これまでの治水計画をも見直す必要性を投げかけている。 想定を超える規模の洪水が発生した場合、霞堤のような柔軟な治水技術が再び注目される可能性も指摘されている。
手取川の治水の歴史は、自然の力に対する人間の挑戦と適応の記録である。それは、完全に自然を制圧するのではなく、その特性を理解し、時に受け入れながら、いかにして共生していくかという問いを、常に私たちに投げかけ続けている。石川県という名に刻まれた「石の多い川」の記憶は、現代の治水技術が到達した地点から、再び足元を見つめ直すきっかけを与えている。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。