2026/6/27
四日市はなぜ「公害の町」から「環境先進都市」へ変貌できたのか

三重の四日市の歴史について詳しく教えて欲しい。
キュリオす
四日市は、東海道の宿場町から近代工業港、そして石油化学コンビナートを有する産業都市へと変遷した。公害を克服し、環境改善と産業発展を両立させた経験は、国内外に発信されている。
煙突と潮風の狭間で
伊勢湾に面した四日市の港に立つと、大型船が往来し、石油化学コンビナートの複雑なパイプライン群が視界を占める。工業都市としての顔が明瞭に打ち出されているこの風景は、しかし、この地の歴史のほんの一部に過ぎない。なぜこの場所が、これほどまでに多様な変遷を遂げてきたのか。港の賑わいの奥に、東海道の宿場町としての記憶や、古くからの焼き物の伝統が息づいている。この都市の歴史は、単線的な発展ではなく、異なる時代と文化の層が幾重にも重なり合い、時に衝突し、時に融合しながら形成されてきた。その複雑な成り立ちこそが、四日市の本質を問い直す契機となるだろう。
市場が育んだ街道と港
四日市の名は、室町時代にこの地で「四」のつく日に定期市が立ったことに由来するとされる。文明5年(1473年)の外宮庁宣案には「四ヶ市庭浦」の地名が見え、当時から市場町、湊町としての活気があったことがうかがえるのだ。 江戸時代に入ると、四日市はさらにその地位を確立する。東海道五十三次において、江戸日本橋から数えて43番目の宿場町「四日市宿」として栄えた。 当時の記録によれば、天保年間(1830〜1844年)には旅籠が98軒を数え、東海道でも有数の規模を誇っていたという。 幕府直轄の天領として代官所が置かれ、行政と商業の中心地としての役割も担っていた。 また、宮宿との間に「十里の渡し」と呼ばれる海路の渡し場があり、伊勢参宮道との追分を控えていたため、東海道を行き交う旅人だけでなく、伊勢参りの人々でも賑わったのだ。 港の歴史も古く、幕末から明治初期にかけては伊勢湾内最大の商業港として、物資の集散が盛んであった。 しかし、安政大地震(1854年)によって堤防が決壊し、港は大きな打撃を受ける。この難局に立ち上がったのが、地元の廻船問屋であった稲葉三右衛門だ。 明治6年(1873年)から私財を投じ、11年もの歳月をかけて波止場の築造と土地造成に着手したのである。 彼の尽力により、四日市港は近代港湾としての基礎を築き、その後の発展へと繋がる転換点となった。
港が招いた産業の波
明治時代以降、四日市は商業港から工業港へと急速な変貌を遂げる。稲葉三右衛門による港の修築は、その後の大規模な改良へと引き継がれた。明治22年(1889年)の台風で稲葉が築いた防波堤は大きな被害を受けるが、公営事業としてオランダ人土木技師デ・レーケの指導のもと、さらに改良が進められた。 特に注目されるのは、左官職人服部長七が「たたき工法」という独自の人造石技術で完成させた「潮吹防波堤」である。 この防波堤は、波の力を弱めるために大小二つの「こぶ」と水抜穴を持つという、世界的にも珍しい構造が採用された。 明治32年(1899年)には、四日市港は伊勢湾で最初の開港場に指定され、文字通り国際貿易港としての第一歩を踏み出した。 開港当初は食料品や肥料の輸入が中心であったが、やがて綿花の輸入が増え、繊維原料の輸入港としても活気を呈するようになる。 これを背景に、紡績や製糸といった繊維工業が発展し、さらに機械工業や化学工業の進出が相次ぎ、四日市は日本の近代工業化の縮図のような形で商工業都市へと進展した。 陸上交通の整備もこの発展を後押しした。明治32年には関西鉄道(現在の関西本線)の名古屋・大阪間が全通し、四日市は陸海の交通要地としての地位を確固たるものにした。 こうした基盤の上に、戦後の高度経済成長期、四日市はさらなる産業の波を迎える。昭和30年代(1950年代後半から1960年代前半)には、旧海軍燃料廠の跡地が活用され、日本で最初の大規模な石油化学コンビナートが塩浜地区に誕生した。 これにより、四日市港は原油やLNG(液化天然ガス)、石炭の主要な輸入基地となり、石油化学製品の輸出基地としても確固たる地位を築き、典型的な工業港へと発展していったのである。
産業都市の光と影、そして再生
四日市の急速な工業化は、経済的な繁栄をもたらす一方で、深刻な環境問題を引き起こした。昭和30年代以降、石油化学コンビナートからの排出物による大気汚染が顕在化し、「四日市ぜんそく」と呼ばれる健康被害が多数発生したのである。 異臭魚の発生や水質汚濁も広がり、この問題は「四日市公害」として全国に知られることになった。 1967年、磯津地区の患者9人が、第一コンビナートの企業6社を相手に民事訴訟を起こした。これが国内初の公害関連裁判「四日市公害訴訟」へと発展する。 1972年には原告患者側が勝訴し、被告企業の不法行為だけでなく、行政による公害対策の不十分さも指摘された。 この判決は、全国の公害対策に大きな影響を与え、環境保全への意識を高める転換点となった。 四日市市と三重県は、この経験を教訓として、国に先駆けた公害対策を講じていく。1960年からは大気汚染の測定調査を開始し、1972年には全国初となる硫黄酸化物の総量規制を導入した。 企業側も、高煙突化や硫黄分の少ない燃料への転換、排煙脱硫装置の設置など、公害防止技術の開発と導入を進めた。 こうした市民、企業、行政が一体となった取り組みの結果、1976年度には、ぜんそくの主要原因物質である亜硫酸ガスの濃度が、市内全域で国の環境基準を達成するに至ったのである。 四日市は、公害を克服し、環境改善と産業の発展を両立させた都市として、その経験と教訓を国内外に発信するようになった。
他の工業地帯との対照
四日市の歴史を語る上で、公害からの回復は避けて通れない要素である。この経験は、日本の他の工業地帯が直面した課題と共通する部分がありながらも、いくつかの点で特異な道を辿った。例えば、北九州工業地帯もまた、戦後の高度経済成長期に深刻な公害問題を抱え、特に洞海湾の汚染は「死の海」とまで称された。しかし、北九州が公害対策として鉄鋼業の転換や新産業の誘致を進める中で、四日市は既存の石油化学コンビナートを維持しつつ、環境規制と技術開発によって排出量を抑制するという道を選んだ。 この違いは、産業構造と地理的条件に起因する側面がある。四日市は伊勢湾に面した立地が、大規模な石油化学施設の建設に適しており、その生産効率は国の経済成長にとって不可欠なものだった。そのため、産業そのものを転換するよりも、排出源対策を徹底する方策が重視されたのである。全国初の硫黄酸化物総量規制の導入や、国内最大級の排煙脱硫装置の設置に見られるように、四日市は公害防止技術の最先端を走ることを余儀なくされた。 また、四日市公害訴訟が、複数の企業を相手取った共同不法行為を争う裁判として、後の四大公害裁判の先駆けとなった点も特筆される。 これは、個々の工場ではなく、地域全体の排出が複合的に健康被害を引き起こしたという、より複雑な因果関係を法的に認定したものであり、その後の公害対策の法的・行政的な枠組みに大きな影響を与えた。他の地域が公害問題に直面する際、四日市の事例は、企業と行政の責任、そして住民の権利という点で、常に参照される規範となったのである。
いま、多様な顔を持つ都市で
現代の四日市は、その歴史の上に多様な顔を持つ都市として存在している。臨海部には今も大規模な石油化学コンビナートが広がり、日本のものづくりを支える重要な産業拠点であることに変わりはない。しかし、かつての「公害の町」というイメージは払拭され、環境改善の努力が実を結び、国連環境計画(UNEP)から「グローバル500賞」を授与されるほどの環境先進都市へと変貌を遂げた。 四日市市には「四日市公害と環境未来館」が設けられ、公害の歴史と教訓、そして環境改善への取り組みを次世代に伝え、国内外に発信する役割を担っている。 一方で、内陸部では半導体製造企業などのハイテク産業の立地が進み、既存のコンビナートも基礎素材型製品から機能化学品などの高付加価値型製品への転換を図るなど、産業構造の多様化が進んでいる。 また、工業都市としての顔とは別に、江戸時代中期に始まった伝統工芸品「萬古焼」も、四日市の重要な地場産業として現代に息づいている。 沼波弄山によって開窯された萬古焼は、「萬古不易」の印に込められた「永遠に変わらない」という願いの通り、幾多の苦難を乗り越えてきた。 特に耐熱性に優れた土鍋は全国生産の8割から9割を占めるとされ、紫泥急須と並んでその技術は高く評価されている。 萬古焼の窯元は四日市市と菰野町を中心に100社以上が軒を連ね、日々の暮らしに根ざした製品から工業製品の型まで、幅広い用途で生産が続けられているのだ。
過去を背負い、現在を編む
四日市の歴史を辿ると、この都市が常に外部からの刺激を受け入れ、自らの姿を変えてきたことが見えてくる。定期市が立ったことで「四日市」という名が生まれ、東海道の宿場町として人や物資が集積した。明治期には港の改良によって国際貿易の門戸を開き、近代産業の波を積極的に取り入れた。そして、公害という負の遺産に直面した際には、これを克服するための道を模索し、環境技術のフロンティアとなったのである。 この変遷の過程で、四日市は産業構造を大きく転換させる選択も、既存産業を排除する選択もせず、むしろその中でいかに持続可能な形を見出すかという課題に挑み続けてきた。石油化学コンビナートと、そのすぐ傍らで伝統的な萬古焼の窯が煙を上げる風景は、一見すると対照的だが、どちらもこの地が時代とともに試行錯誤を重ねてきた証左と言えるだろう。四日市の歴史は、単なる過去の記録ではなく、都市がその環境や経済、社会との関係性をいかに編み直していくかという、現代にも通じる問いを投げかけている。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。
参考
- 沿革、四日市の歴史(年表) | 四日市市役所city.yokkaichi.lg.jp
- 四日市市制施行120年の歩み | 四日市市制施行120周年記念事業公式サイトcity.yokkaichi.mie.jp
- 四日市宿 - Wikipediaja.wikipedia.org
- 四日市宿 | あいち歴史観光rekishi-kanko.pref.aichi.jp
- 東海道歩き旅。日本橋から京都まで歩く旅kaidouarukitabi.com
- yokkaichi.lg.jpcity.yokkaichi.lg.jp
- yokkaichi.lg.jpcity.yokkaichi.lg.jp
- No.43 旧東海道「四日市宿」を歩く。商人の町が生んだにぎわいと歴史をゆるっと巡る旅 | Life&Tripふじえだfujieda-life-trip.com