2026/6/7
高岡の町は、なぜ「ものづくり」の熱を400年保ち続けるのか

高岡の歴史について詳しく知りたい。
キュリオす
高岡は、前田利長による築城と、廃城後の利常による商工業都市への転換という二つの大きな「選択」を経て、「ものづくり」の町として発展した。鋳物と漆器の技術集積、分業制、そして地理的優位性がその基盤を築き、現代までその命脈を保ち続けている。
富山県高岡の町を歩くと、古い町並みのそこかしこに、金属や漆の職人たちの息遣いが感じられる。金屋町の千本格子の家々、山町筋の土蔵造り。かつて加賀藩の「台所」と呼ばれたこの町は、単なる歴史的な遺産に留まらない、確かな「ものづくり」の熱を今に伝えている。なぜこの土地が、これほどまでに多様で高度な工芸技術を育み、現代までその命脈を保ち続けてきたのか。その問いの答えは、町の誕生と、一度は失われたはずの「城」の記憶に深く刻まれている。
高岡の歴史は、今からおよそ400年前、江戸時代初期に遡る。慶長14年(1609年)、加賀藩二代藩主・前田利長が、それまで「関野」と呼ばれた原野に高岡城を築いたことに始まる。利長は前田利家とまつの長男であり、一度は弟の利常に藩主の座を譲って隠居していた富山城が火災で焼失したため、新たな隠居城として高岡を選んだのだ。利長はわずか5ヶ月という驚異的な速さで築城を指揮し、同年9月には入城を果たしたという。築城にあたり、利長は『詩経』の一節「鳳凰鳴矣于彼高岡(鳳凰、かの高き岡に鳴けり)」にちなんで「高岡」と名付けたと言われる。
利長は城下町の繁栄を願い、資材の集積所である「木町」を設け、さらには砺波郡の西部金屋から7人の鋳物師を招き、鋳物づくりを行う「金屋町」を開いた。鋳物師たちには地租を課さないなどの厚い保護を与え、産業の奨励に努めたのである。
しかし、利長が高岡城下町を創建し、その後の高岡発展の土台を築いてからわずか5年後の慶長19年(1614年)に他界してしまう。翌元和元年(1615年)には、徳川幕府が発した「一国一城令」により、高岡城は廃城という過酷な運命を辿った。城下町としての役割を失った高岡からは、家臣団が金沢へ引き上げ、町は急速に衰退の危機に瀕したのである。
この絶望的な状況を救ったのが、三代藩主・前田利常であった。利常は、利長が高岡にかけた熱い思いを知り、その遺志を継ぐことを決意する。彼は高岡町民の他所への転出を禁じ、商工業都市への転換政策を積極的に推し進めた。麻布の集散地として「布御印押人」を置き、御荷物宿、魚問屋、塩問屋を創設。城跡には藩の米蔵や塩蔵を設置するなど、商業の活性化を図ったのだ。
利常の政策は、単なる経済振興に留まらなかった。彼は利長の菩提を弔うため、壮大な伽藍を持つ瑞龍寺を造営し、異例の規模を誇る利長墓所も築いた。これらは利常自身の恩義だけでなく、町民に利長の遺徳を偲ばせ、町の繁栄を願う象徴でもあった。また、かつて一向一揆で権勢を誇った勝興寺を保護するなど、寺社仏閣を通じた地域の安定も図ったのである。 このように、高岡は武士の町から商人・職人の町へと大転換を遂げ、「加賀藩の台所」と呼ばれるほどの隆盛を極めることになった。
高岡が「ものづくり」の町として発展した背景には、前田利常による意図的な産業政策と、この地の地理的・自然的条件が複雑に絡み合っていた。
まず、前田利長が慶長14年(1609年)に高岡城を築城した際、城下町の産業振興策として、現在の高岡市金屋町に鋳物工場を開設したことが起点となる。この時、砺波郡の西部金屋から7人の鋳物師が招かれた。彼らには地租免除などの特権が与えられ、高岡に鋳物技術が根付く土台が作られたのである。 当初は鍋や釜、農具などの鉄鋳物が中心だったが、江戸時代中期には生活文化の向上に伴い、仏具や花器、茶道具といった唐金鋳物(銅合金鋳物)の需要が増加した。高岡の鋳物師たちはこの需要に応え、精緻な技術と美しいデザインを追求し、全国にその名を知らしめるようになる。
高岡で鋳物産業が発展した理由の一つに、恵まれた自然環境がある。鋳物に適した質の良い砂や水が身近にあり、材料の調達が比較的容易だったのだ。また、鋳物に必要な木炭なども周辺の山々から供給された。
さらに、高岡は水陸交通の要衝という地理的優位性も持っていた。日本海に面した伏木港は北前船の重要な寄港地となり、小矢部川や庄川といった河川の水運も利用されたため、銅や錫といった原材料、さらには最新の技術や情報が国内外から集まりやすかったのである。 これは、高岡が単なる生産地ではなく、物資の集散地として「加賀藩の台所」と呼ばれた所以でもある。
そして、高岡の銅器産業を特徴づけるのが、その徹底した分業制である。原型、鋳造、仕上げ、着色、彫金といった金属加工のあらゆる技術がこの町に集積し、複数の製作所や職人がそれぞれの工程を専門的に担うことで、一つの製品が完成する。 この分業制は、各工程の技術を高度化させ、複雑で精巧な製品を生み出すことを可能にした。例えば、研磨師が表面を滑らかにし、彫金師が繊細な装飾を施し、着色師が独特の色彩を与えることで、銅器は単なる実用品から美術品へと昇華していったのである。 このような専門化された分業体制が、一つの町だけで完結している点は、全国的にも珍しい高岡の強みだと言えるだろう。
漆器においても同様の政策的支援と技術導入が見られる。高岡漆器は、利長が高岡城を築いた際に武具や箪笥、膳などの生活用品を作らせたのが始まりとされているが、その後、中国から堆朱、堆黒といった技法が伝えられ、彫刻塗、錆絵、螺鈿、存星など多彩な技術が生み出された。 これらの技術は、高岡の祭りで使われる絢爛豪華な御車山にも集約され、町人文化の中にしっかりと根付いていったのである。
日本の伝統工芸品産地は、多くの場合、特定の藩主の庇護のもと、あるいは特定の寺社の需要に応える形で自然発生的に発展してきた。例えば、京都の西陣織は朝廷や貴族の需要、加賀友禅は加賀藩の武家文化を背景に発展した側面が強い。しかし、高岡の「ものづくり」は、城下町としての機能が失われた後の、意図的な都市政策によって商工業都市へと転換したという点で、他の多くの産地とは異なる道を歩んでいる。
一般的な城下町が城の廃止によって衰退の一途を辿る中、高岡は前田利常の英断により、町民の他所転出を禁止し、積極的に商業と工芸を奨励することで生き残りを図った。この「危機」が「転機」となり、高岡は軍事都市から経済都市へとその本質を変化させたのである。これは、ある意味で「強制的な都市の再構築」であり、その結果として、特定の工芸品に特化するのではなく、鋳物と漆器という異なる素材と技術を並行して高度に発展させるという、多角的な産業基盤を築くことになった。
また、高岡銅器に見られる徹底した分業制も、他の産地と比較して際立つ特徴である。多くの伝統工芸では、一人の職人が全工程を担う、あるいは小規模な工房で数人が協力して制作する形態が多い。しかし高岡では、原型、鋳造、仕上げ、着色、彫金といった各工程に特化した専門職人が存在し、彼らが連携することで、より複雑で大規模な作品や、多様なニーズに応える製品を生み出してきた。 この分業制は、技術の継承と専門性の深化を促し、結果として国内銅器生産の9割以上を占める一大産地へと成長する原動力となったのである。
このような高岡の発展経路は、単に「伝統を守る」というよりも、「変化に適応し、新たな価値を創造する」という側面が強い。廃城という大きな喪失を経験しながらも、都市のアイデンティティを再構築し、産業構造を転換させることで、固有の文化と技術を育んできたその歴史は、現代の地域活性化を考える上でも示唆に富んでいると言えるだろう。
高岡は今も、その歴史に培われた「ものづくり」の精神を色濃く残している。特に高岡銅器は、国内の銅器生産量の9割以上を占める一大産地であり続けているのだ。 小学校の二宮金次郎像や除夜の鐘、さらには東京・浅草寺の大きな黒提灯(紙ではなく銅製)も高岡銅器の技術が結集して作られているという。
現在の高岡には、銅器団地と呼ばれる集積地があり、40を超える企業が参加して生産性の向上や連携を図っている。 また、伝統工芸品の枠を超え、現代アートやインテリア製品としても高く評価されており、若手の工芸士たちは伝統を守りつつ、新しい価値観や表現方法を取り入れ、現代のライフスタイルに合わせた製品開発にも積極的に取り組んでいる。 例えば、海外デザイナーとのコラボレーションによる文具やアクセサリー、アニメ作品の銅像制作など、異業種との連携を通じて新たな可能性を追求する動きも活発だ。
高岡の町並み自体も、その歴史を物語る重要な要素である。金屋町には、鋳物師たちが暮らした千本格子の町家が残り、国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。 また、山町筋には明治の大火後に再建された土蔵造りの商家が軒を連ね、往時の商都の賑わいを今に伝えている。 これらの町並みは、高岡が武家から商工業都市へと転換した歴史を視覚的に示しており、訪れる人々にその歩みを伝えている。
そして、高岡の町民文化の象徴とも言えるのが「高岡御車山祭」である。毎年5月1日に開催されるこの祭りは、京都祇園祭の山鉾に似た絢爛豪華な御車山が町を練り歩くもので、ユネスコ無形文化遺産にも登録されている。 御車山には高岡漆器の精緻な技が集約されており、祭りは単なる行事ではなく、高岡の職人技と町民の心意気を次世代に継承する場となっているのだ。
高岡の歴史を紐解くと、そこには「選択」と「適応」の物語が浮かび上がる。加賀藩二代藩主・前田利長による開町、そしてその直後の廃城という危機。多くの城下町がその存在意義を失い消えていく中で、三代藩主・前田利常は、高岡を商工業都市へと舵を切るという大胆な選択をした。この選択が、高岡の「ものづくり」のDNAを形成する決定的な転換点となったのである。
高岡の工芸品が現代まで生き残り、さらに発展を続けているのは、単に「古くからの伝統」に固執するのではなく、常に時代の変化に対応し、技術を磨き、新たな需要に応えようとする柔軟性があったからだろう。初期の鉄鋳物から美術的な銅器へ、そして現代のインテリアやアート、さらにはアニメキャラクターの銅像まで、その表現の幅を広げてきた歴史がそれを物語っている。
この町の歴史は、一度失われたものが、別の形でより強く根付く可能性を示唆している。城という中心を失った高岡が、藩の政策と町民の努力によって、自らの手で新たな中心、すなわち「ものづくり」というアイデンティティを築き上げたのだ。それは、過去の遺産を単に保存するだけでなく、それを基盤として常に再解釈し、再生していくという、力強い都市の営みである。高岡の町を歩くことは、そのような歴史の深層に触れる経験なのだ。

ゆーたなかお
キュリオす開発者。ひとり編集長。
旅と食が好き。どこにでもいます。